午後五時五十分。台風の中心はすぐにでも御前崎上空に差し掛かるはずだ。
美由紀は浜松から五十キロを走破し、大荒れの遠州灘沿いに走る国道一五〇号線を全速力で駆け抜けていった。
高波は崖《がけ》を垂直に跳ねあがり、車道にも降りかかってくる。
この道が閉鎖される前にたどり着けてよかった。トマホークが三重県の志摩半島南端から発射されることを考慮すれば、迎え撃つ場所はこの道路沿いをおいてほかにない。
道路は遠州灘沿いにほぼまっすぐ東に走っていた。夏場だが、この天候では観光客用の施設はどこも閉まっている。
ふだんならこの時刻にはまだ空は明るいが、いまはどんよりと厚い雲に覆われ、薄暗かった。
右手に巨大な立方体の建造物がいくつも連なっている。低く流れる雲に煙突の先端は見えなくなっていた。鉄塔も同様だった。
あれが浜岡原発だ。さすがに規模の大きな施設だった。
むろんベルデンニコフらは、百六十万平方メートルの敷地内のどこにトマホークを命中させれば最も効果的であるかを、入念にシミュレーションしていることだろう。炉の格納容器かもしないし、発電機、タービンの可能性もありうる。
いずれにしても、ミサイルが飛来するのは西の空だ。この原発の手前に待機することが望ましい。
美由紀はUターンをして、原発施設が後方に見えるまで引き返した。
行く手は海水浴が可能な砂浜だった。むろん観光客はいないが、驚いたことに海の家は開いていた。のぼりは今にも飛ばされそうなほど強風にはためいている。
遠州灘を一望できる場所。ここしかないと美由紀は思った。砂浜にクルマを乗りいれ、海の家の脇で停車する。
車外に降り立つ。すさまじく降りつける雨と、吹きすさぶ風、高波は防波堤で弾《はじ》けて空高く舞いあがっていた。
そんななかで、海の家から声がきこえてきた。従業員らしきふたりの男が言い争いをしながら、店頭の片付けに追われている。
「このトタン板、もっとちゃんと打ちつけておかねえと飛ばされるぞ」
「うるせえ。いまさらやってられっか。紐《ひも》でくくりつけときゃ充分だ。あと、マグロとサザエの箱は高いところに上げとけ。浸水したら困る」
「こんな日に海の家を開けるなんてどうかしてるぜ」
「おめえ、知らねえな。こういうときにゃ海水浴客ってのは旅館で暇を持て余してる。台風を見物したがる物好きが、クルマで海岸にやってくるんだよ」
「で、高波にさらわれるってか。誰も来やしねえよ」
「馬鹿いえ。見ろよ、お姉さんが来た。すげえクルマだな、あれベンツか」
美由紀はなにも聞いてはいなかった。薄暗い空と、霧のなかにわずかにみえる水平線を眺めていた。
ステルス・カバーが溶けこむには絶好の空だ。空中に歪《ひず》みのように見える反射には、期待できそうにない。
踵《きびす》をかえしてクルマに向かう。
つかつかと歩く美由紀に、海の家から声が飛んだ。「お姉さん。寄ってったらどう? 海もよく見えるよ。サザエのつぼ焼きもおいしいし」
リモコンキーを押してトランクを開ける。木箱の蓋《ふた》をずらすと、長さ百四十三センチ、直径八センチの黒ずんだ円筒が姿を現した。
東芝製、91式携帯式地対空誘導弾。略称は携SAM。国産の携帯式地対空ミサイルだった。
円筒を取りだす。重かったのは木箱で、発射筒そのものは十キロていどの重量しかない。誘導弾は内部に封入されていて装填《そうてん》の必要はなかった。そのほかの装備品をくっつけて、十七キロほどの重さになると記憶している。
外部電池を装着して電源を入れる。小型モニターを内蔵した赤外線誘導装置を取りつけ、可視光画像に切り替える。
できあがった携SAMをぐいと持ちあげた。
十七キロの重量は保持するのに困難ではないが、軽いわけでもない。長さがあるので重心を見極めるのが肝心だった。それを肩に掲げて、海のほうへと歩を進める。
「おい」海の家の男が叫んだ。「なんだありゃ」
「セーラー服と機関銃かよ」
「馬鹿。あれ、機関銃どころじゃねえって。もっとでけえし……」
美由紀は後ろを振りかえった。ついてきていたふたりの男は、びくついたように足をとめた。
「後ろに立つと危ないわよ」と美由紀はいった。
ふたりの男は顔を見合わせ、小走りに海の家に駆けていった。
荒れ狂う海を美由紀は見つめた。
台風の中心付近。風速と雲の動きから察するに、台風の目は洋上だろう。嵐が途絶えることはない。トマホークの飛来は、いましかない。
一発必中がベルデンニコフの作戦だった。いま、美由紀もその課題を背負っている。
双方にチャンスはいちどきり。それも、敵側におおいに有利なゲームだった。
敵のターゲットは無防備かつ広大な地上の施設。
こちらの獲物は急速接近する見えない物体、全長六メートル弱、直径わずか五十センチ。
それでも、トマホークの速度は音速に達することはなく、攻撃に対して回避行動をとる機能もない。低空を飛行することからも、狙いすませばこの携SAMでも撃墜可能だ。
たとえ弾頭に命中させても、核爆発に至ることはない。核ミサイル兵器は起爆装置によって核反応を起こさない限り爆発しないからだ。
しばらく待つうちに、地鳴りのような音が響いてきた。雷鳴にも思えるが、これは違う。低く断続的で、人工的な音の波動。
轟音《ごうおん》はしだいに高くなり、耳鳴りのようなキーンという響きを伴う。
美由紀はぼんやりと空を眺め渡した。
一点だけに集中してはいけない。能動的に探そうとしてもいけない。常に受動的であること。心を弛緩《しかん》させておくこと。それで本能的な心理作用は働く。
この絶えず雲がうごめく薄暗い空では、視覚の認知的不協和によって物体の存在に気づくことができるとは思えない。これが初めての出会いなら、発見することなど不可能だろう。
だが、わたしはいちど、あのステルス・カバーを目にしている。いちど見たものは記憶に残る。すなわち、もうひとつの心理作用で探索できる。
選択的注意。あのときと同じものが目に映ったら、即座に注意が引き起こされる。
いまがそのときだった。
西の空。
予想していたよりも若干左寄り、西南西、低空だった。海面すれすれを飛んでくる、不自然な雲の歪みを見た。たしかに見た。
それはほんの一瞬のことだった。〇・一秒にも満たない視認の直後には、安全装置を外し、携SAMで標的を真正面に狙いすました。誘導装置にはなにも映っていない、ロックオンの反応もない。
それでも美由紀は、捕捉《ほそく》した、そう感じた。
トリッガーにかけた指先に力をこめる瞬間、美由紀はつぶやいた。「それで見えないつもりなの?」
美由紀は浜松から五十キロを走破し、大荒れの遠州灘沿いに走る国道一五〇号線を全速力で駆け抜けていった。
高波は崖《がけ》を垂直に跳ねあがり、車道にも降りかかってくる。
この道が閉鎖される前にたどり着けてよかった。トマホークが三重県の志摩半島南端から発射されることを考慮すれば、迎え撃つ場所はこの道路沿いをおいてほかにない。
道路は遠州灘沿いにほぼまっすぐ東に走っていた。夏場だが、この天候では観光客用の施設はどこも閉まっている。
ふだんならこの時刻にはまだ空は明るいが、いまはどんよりと厚い雲に覆われ、薄暗かった。
右手に巨大な立方体の建造物がいくつも連なっている。低く流れる雲に煙突の先端は見えなくなっていた。鉄塔も同様だった。
あれが浜岡原発だ。さすがに規模の大きな施設だった。
むろんベルデンニコフらは、百六十万平方メートルの敷地内のどこにトマホークを命中させれば最も効果的であるかを、入念にシミュレーションしていることだろう。炉の格納容器かもしないし、発電機、タービンの可能性もありうる。
いずれにしても、ミサイルが飛来するのは西の空だ。この原発の手前に待機することが望ましい。
美由紀はUターンをして、原発施設が後方に見えるまで引き返した。
行く手は海水浴が可能な砂浜だった。むろん観光客はいないが、驚いたことに海の家は開いていた。のぼりは今にも飛ばされそうなほど強風にはためいている。
遠州灘を一望できる場所。ここしかないと美由紀は思った。砂浜にクルマを乗りいれ、海の家の脇で停車する。
車外に降り立つ。すさまじく降りつける雨と、吹きすさぶ風、高波は防波堤で弾《はじ》けて空高く舞いあがっていた。
そんななかで、海の家から声がきこえてきた。従業員らしきふたりの男が言い争いをしながら、店頭の片付けに追われている。
「このトタン板、もっとちゃんと打ちつけておかねえと飛ばされるぞ」
「うるせえ。いまさらやってられっか。紐《ひも》でくくりつけときゃ充分だ。あと、マグロとサザエの箱は高いところに上げとけ。浸水したら困る」
「こんな日に海の家を開けるなんてどうかしてるぜ」
「おめえ、知らねえな。こういうときにゃ海水浴客ってのは旅館で暇を持て余してる。台風を見物したがる物好きが、クルマで海岸にやってくるんだよ」
「で、高波にさらわれるってか。誰も来やしねえよ」
「馬鹿いえ。見ろよ、お姉さんが来た。すげえクルマだな、あれベンツか」
美由紀はなにも聞いてはいなかった。薄暗い空と、霧のなかにわずかにみえる水平線を眺めていた。
ステルス・カバーが溶けこむには絶好の空だ。空中に歪《ひず》みのように見える反射には、期待できそうにない。
踵《きびす》をかえしてクルマに向かう。
つかつかと歩く美由紀に、海の家から声が飛んだ。「お姉さん。寄ってったらどう? 海もよく見えるよ。サザエのつぼ焼きもおいしいし」
リモコンキーを押してトランクを開ける。木箱の蓋《ふた》をずらすと、長さ百四十三センチ、直径八センチの黒ずんだ円筒が姿を現した。
東芝製、91式携帯式地対空誘導弾。略称は携SAM。国産の携帯式地対空ミサイルだった。
円筒を取りだす。重かったのは木箱で、発射筒そのものは十キロていどの重量しかない。誘導弾は内部に封入されていて装填《そうてん》の必要はなかった。そのほかの装備品をくっつけて、十七キロほどの重さになると記憶している。
外部電池を装着して電源を入れる。小型モニターを内蔵した赤外線誘導装置を取りつけ、可視光画像に切り替える。
できあがった携SAMをぐいと持ちあげた。
十七キロの重量は保持するのに困難ではないが、軽いわけでもない。長さがあるので重心を見極めるのが肝心だった。それを肩に掲げて、海のほうへと歩を進める。
「おい」海の家の男が叫んだ。「なんだありゃ」
「セーラー服と機関銃かよ」
「馬鹿。あれ、機関銃どころじゃねえって。もっとでけえし……」
美由紀は後ろを振りかえった。ついてきていたふたりの男は、びくついたように足をとめた。
「後ろに立つと危ないわよ」と美由紀はいった。
ふたりの男は顔を見合わせ、小走りに海の家に駆けていった。
荒れ狂う海を美由紀は見つめた。
台風の中心付近。風速と雲の動きから察するに、台風の目は洋上だろう。嵐が途絶えることはない。トマホークの飛来は、いましかない。
一発必中がベルデンニコフの作戦だった。いま、美由紀もその課題を背負っている。
双方にチャンスはいちどきり。それも、敵側におおいに有利なゲームだった。
敵のターゲットは無防備かつ広大な地上の施設。
こちらの獲物は急速接近する見えない物体、全長六メートル弱、直径わずか五十センチ。
それでも、トマホークの速度は音速に達することはなく、攻撃に対して回避行動をとる機能もない。低空を飛行することからも、狙いすませばこの携SAMでも撃墜可能だ。
たとえ弾頭に命中させても、核爆発に至ることはない。核ミサイル兵器は起爆装置によって核反応を起こさない限り爆発しないからだ。
しばらく待つうちに、地鳴りのような音が響いてきた。雷鳴にも思えるが、これは違う。低く断続的で、人工的な音の波動。
轟音《ごうおん》はしだいに高くなり、耳鳴りのようなキーンという響きを伴う。
美由紀はぼんやりと空を眺め渡した。
一点だけに集中してはいけない。能動的に探そうとしてもいけない。常に受動的であること。心を弛緩《しかん》させておくこと。それで本能的な心理作用は働く。
この絶えず雲がうごめく薄暗い空では、視覚の認知的不協和によって物体の存在に気づくことができるとは思えない。これが初めての出会いなら、発見することなど不可能だろう。
だが、わたしはいちど、あのステルス・カバーを目にしている。いちど見たものは記憶に残る。すなわち、もうひとつの心理作用で探索できる。
選択的注意。あのときと同じものが目に映ったら、即座に注意が引き起こされる。
いまがそのときだった。
西の空。
予想していたよりも若干左寄り、西南西、低空だった。海面すれすれを飛んでくる、不自然な雲の歪みを見た。たしかに見た。
それはほんの一瞬のことだった。〇・一秒にも満たない視認の直後には、安全装置を外し、携SAMで標的を真正面に狙いすました。誘導装置にはなにも映っていない、ロックオンの反応もない。
それでも美由紀は、捕捉《ほそく》した、そう感じた。
トリッガーにかけた指先に力をこめる瞬間、美由紀はつぶやいた。「それで見えないつもりなの?」
海面すれすれを亜音速で低空飛行し、彼方《かなた》に浜岡原発を捉《とら》えた。その目標がどんどん大きくなる。
スクリーンを見つめていたジェニファー・レインは、その瞬間、首を絞めあげられたような衝撃を受けた。
時間がまるで静止し、それからゆっくりと動きだす。視界に映ったものがスローモーションのように感じられる。
トマホークが海上から砂浜に入り、原発めがけて最後の突進に入る。その一瞬に映しだされたものは、嵐のなかにたたずむひとりの女の姿だった。
風に髪をたなびかせ、肩に掲げたスティンガー・ミサイルに似た武器でこちらを狙い澄ましている。
映像は、弾頭からまっすぐに前方をとらえたものだ。そして、女の目もこちらを直視していた。
岬美由紀……。
ジェニファーが鳥肌が立つのを覚えたとき、美由紀の口もとがなにかをつぶやいた。たしかに、なにかを告げた。
だが、その声はこちらに届かなかった。代わりに、円筒の発射機から飛びだした白煙が、みるみるうちにこちらに迫った。
直後に、スクリーンの映像は炎に包まれ、それからノイズが覆った。
位置情報からミサイルの姿は消え、すべての数値は表示を変えることなく停止した。
スクリーンを見つめていたジェニファー・レインは、その瞬間、首を絞めあげられたような衝撃を受けた。
時間がまるで静止し、それからゆっくりと動きだす。視界に映ったものがスローモーションのように感じられる。
トマホークが海上から砂浜に入り、原発めがけて最後の突進に入る。その一瞬に映しだされたものは、嵐のなかにたたずむひとりの女の姿だった。
風に髪をたなびかせ、肩に掲げたスティンガー・ミサイルに似た武器でこちらを狙い澄ましている。
映像は、弾頭からまっすぐに前方をとらえたものだ。そして、女の目もこちらを直視していた。
岬美由紀……。
ジェニファーが鳥肌が立つのを覚えたとき、美由紀の口もとがなにかをつぶやいた。たしかに、なにかを告げた。
だが、その声はこちらに届かなかった。代わりに、円筒の発射機から飛びだした白煙が、みるみるうちにこちらに迫った。
直後に、スクリーンの映像は炎に包まれ、それからノイズが覆った。
位置情報からミサイルの姿は消え、すべての数値は表示を変えることなく停止した。