その望遠鏡は大砲のような大口径で、長さも三メートル近くある。被写体に向けるのも至難の業だ。
地上百五十メートルのこの高さから地上を狙おうとすると、望遠鏡は急角度で下向きになる。さいわい、このビルのオフィスフロアは全面ガラス張りだ。床ぎりぎりにレンズを向けても、支障はない。
ただし、望遠鏡を覗《のぞ》きこむには骨が折れる。脚立に昇って、天井に頭を打ちつけそうなくらいの位置からようやく覗くことができるありさまだ。
「どれどれ」遼《リヤン》はつぶやいた。「午前九時か。ご出勤の時間も近いな。倍率を上げてみるか」
ダイヤルを回していくと、やわらかい陽射しが降り注ぐ都心部は拡大されていき、視界は息を呑《の》むほど地上に迫っていく。
ピントを調整すると、洒落《しやれ》た赤いレンガ風のタイルに覆われたマンションのエントランスが見えた。
西麻布《にしあざぶ》。高級住宅街の一角。俺たちとは生まれも育ちも違う連中が、ごく当たり前に感じているであろう風景。驚異的に拡大された望遠鏡の視界は、そのマンションの三、四階のバルコニーに立って、玄関先を見下ろしているような錯覚さえ生む。
「いい暮らしだな」遼はいった。「あのエントランスのタイル、一枚で俺の田舎の一軒家が買えるぜ」
脚立の下から張《チヤン》の声がする。「四川《スーチヨワン》盆地も最近じゃ地価が高いって聞いたぜ?」
「馬鹿。そいつは成都《チヨントウー》とその周辺だけだろうが。東の湖南《フーナン》省との境付近に暮らしてみろよ。人よりパンダの命のほうが重視されている地域だ」
「ぼやくなよ。いまじゃ立派にお国のために働けてるだろうが」
「このばかでかい望遠鏡で、政府のやつらのはげ頭をぶん殴ってやりたくなる」
「五百キロもあるこいつを持ちあげられる腕力が、お前にあるならな」
遼は顔をあげた。張が、紙コップに入ったコーヒーを差しだしてきた。
「ありがとよ」と遼はそれを受けとりながら、望遠鏡に目を戻した。
そのとき、動きがあった。エントランスからひとりの女がでてくる。
「来たぞ」遼はいった。
「高遠由愛香《たかとおゆめか》か?」
「ああ。間違いない」
年齢は二十九歳。痩《や》せていて、すらりと高い長身はモデルのようでもある。高そうなスーツを着て、首にはエルメスのスカーフを巻いていた。ハンドバッグも当然のごとくエルメス。長い髪にかかったウェーブはヘアスタイリストの世話になったかのように完璧《かんぺき》にセットしてある。サングラスをかけているが、人目を避けるどころか無限に目立つ存在感を放っていた。
倍率をさらに拡大すると、サングラスのフレームに入っているブランドのマークまで読みとれた。
「シャネルかよ。いちいち金をかけたがる女だ」
「美人にゃ金が集まってくるもんだ」
「この女、お前のタイプかい? 張」
「さあ……な。だが、強情そうな顔をした女は嫌いじゃないな。由愛香もそうだろ? 目がきつくて、どちらかといえば強欲、やや意地悪そうで」
「セレブの類《たぐ》いはみんなそうだろ。お前がそんな趣味だとはな……。おっと、待て。もうひとりでてきた」
今度の女は由愛香よりいくらか若くみえる。小柄だし、痩せてはいるが女子学生のようにもみえる。黒髪をショートにまとめ、この界隈《かいわい》では場違いなありふれた安物のスーツを着ていた。ハンドバッグにいたってはノンブランド品のようだ。
「誰だろな」遼は観察しながらいった。「若く見えるが……それでも二十代半ばぐらいか。昔の末広[#「末広」に傍点]涼子《りようこ》みたいな感じの女だ」
「広末《ひろすえ》だろ。スエヒロはお前がよく行く焼肉屋だろうが」
「いいんだよ、細《こま》けえことは。それにしても、高遠由愛香のお友達にしちゃ地味な娘だな」
「雪村藍《ゆきむらあい》だろ」張は投げやりに告げてきた。「ソフトウェア会社に勤務する、ごく普通のOLだよ」
「高遠由愛香とどんな関係だ?」
「友人同士らしい。たぶん由愛香が持ってる飲食店のどれかの常連客だったんだろう。由愛香はいつも、藍を見下した態度でからかってる」
マンションの玄関先では、たしかに一見そんな光景が繰りひろげられている。気取ったしぐさでたたずむ由愛香が、藍に咎《とが》めるような目を向けて、なにか小言を口にしていた。
音声が聞こえないのが残念だが、どうやら藍のファッションセンスにひとことあるようだ。
ただし、遼の目にはふたりの関係は張の指摘と逆に見えた。
からかっているのはむしろ藍のほうだ。由愛香のセレブ気取りを内心では嘲笑《ちようしよう》している。藍はときおり、その態度をあからさまにちらつかせるが、由愛香のほうはそれを皮肉と気づかず、ますますのぼせあがるといった図式だ。
思わず遼は苦笑した。女の世界にも凸凹《でこぼこ》コンビってのはいるんだな。
由愛香がリモコンを操作し、エントランスの脇のシャッターがあがる。ガレージからのぞいているのはアルファロメオのアルファ8Cコンペティツィオーネ。
ひゅうと口笛を吹いて遼はいった。「すげえの乗ってやがる。それもホイールが金メッキの特注品だ」
「二千二百万円、世界四百台限定だからな。この手のが日常走ってるなんてモンテカルロか六本木《ろつぽんぎ》近辺だけだってよ」
「不公平だな。金ってのは一箇所に集中しちゃいけねえよな」
「そうとも。だから解放してやるのさ」
「だな。解放だ」
雪村藍はしかし、クルマにもさしたる関心を持っていないようだった。由愛香がこれ見よがしに振る舞っているのに、藍は知らん顔だ。
男と女の違いか。女はクルマの価値に無頓着《むとんちやく》だ。そういう意味でみれば、藍のほうが女らしいのだろう。由愛香はブランド品が権力に直結すると考えている。権力志向、つまりは男のものの考え方だ。
都内に十四もの飲食店をチェーン展開して、年商四十億をあげる企業のオーナーともなれば、それぐらいの競争心がなければ勤まらないのだろう。
遼がそう思ったとき、望遠鏡の視界のなかにもう一台のクルマが滑りこんできた。
鮮やかなオレンジいろに輝くランボルギーニ・ガヤルド。停車したその車体から降り立ったのは、これまた異彩を放つ女だった。
その女の登場は、由愛香と藍の存在を一瞬忘れさせるほどだった。なにがそこまで周りの空気に影響を及ぼすのかわからない、それでもたしかな存在感がある。
背は由愛香ほど高くない。百六十五前後だろうか。頭部が小さいので小柄に見えるが、八頭身か九頭身の抜群のプロポーションとあいまって息を呑むほどの美しさだった。服装はカジュアルそのもので、白のTシャツにデニム地の上下、足もとはスニーカーだった。安易にみえるがどれも高価なものばかりで、ファッションセンスも抜群であり、控えめだが趣味のよさという点では申しぶんない。
腕と脚はすらりと伸び、髪は褐色に染めて肩にかかる長さだった。遼はよく見ようと顔にピントを合わせた。
女は紅《べに》いろのサングラスをはずした。
瞳《ひとみ》が異常なほど大きく見えるのは、やはり顔の小ささゆえのことだろう。化粧は薄く、ほとんどすっぴん顔ながら、肌艶《はだつや》は少女のように滑らかだった。美人だが、変わった顔をしている。一見鈍そうだが、目つきは鋭い。女子大生のように若々しくもあり、人生に熟達した知性を感じさせる面影もあった。
クルマから降りたときの動作にも無駄はなく、運動神経のよさを感じさせる。実際に鍛えているようだ。着痩せするタイプらしく、服の上からはさほどわからないが、無駄な贅肉《ぜいにく》はほとんど身についていないだろう。
「三人めの女だ」遼は張に告げた。「ガヤルドに乗ってる。いま由愛香たちと笑顔を交わして……歩み寄ってく。待ち合わせしてたみたいだ」
「ガヤルドの女だって? 知らないな。由愛香の同業者か? 別の店舗の経営者とか?」
「さあ……そんなふうには見えん。実業家というより、若くして医者とか弁護士の道で成功したって感じだが……。いまはプライベートらしく普段着姿だ」
「報告しとくか?」
「そうだな。いちおう……」
ガヤルドの女に対する藍の態度は、由愛香へのそれとは正反対だった。人なつっこい笑みを浮かべて、さも親しげに擦り寄っていく。由愛香のほうは心なしか嫉妬《しつと》心をのぞかせているようにも思える。
あのOLを奪い合っている仲というわけではないのだろう。由愛香の嫉妬は、ガヤルドの女の存在自体に向けられたものだ。
その場にいるだけで、誰も目を逸《そ》らすことができなくなる。そうした存在には稀《まれ》に出くわす。ガヤルドの女は、まぎれもなくその人種に属している。
拡大して手もとを眺める。ガヤルドの女もエルメスのバッグを持っているが、由愛香のケリーバッグと違い、よりカジュアルなバーキンのブルージーンだ。手首にはカルティエのラブブレス。中指にはブルガリのビー・ゼロワンをはめている。薬指にはなにもない。独身なのだろう。
どうやら雪村藍はガヤルドの助手席に乗っていくようだ。由愛香はそれほど気を悪くしたようすもないようだが、本心はどうかわからない。
由愛香は東京ミッドタウンに向かうのだろうが、ガヤルドのほうの行き先はどこだ。
監視対象であるはずの由愛香よりも、いまとなってはガヤルドの女が気になる。
と、ガヤルドに乗りこむ寸前、その女の大きな瞳がこちらをまっすぐに見据えた。
遼はどきっとして身を退かせた。
「どうかしたか」と張が聞いてきた。
「いや……」遼はふうっとため息をついた。
肉眼でガラスごしに、地上との距離をたしかめることで、ようやく安堵《あんど》を覚える。向こうからこちらを見つけられるわけがない。
ふたたび望遠鏡を覗《のぞ》きこむと、ガヤルドはすでに走り去っていた。
冷や汗をぬぐいながら、遼はひとりごちた。やれやれ。千里眼じゃあるまいし。
地上百五十メートルのこの高さから地上を狙おうとすると、望遠鏡は急角度で下向きになる。さいわい、このビルのオフィスフロアは全面ガラス張りだ。床ぎりぎりにレンズを向けても、支障はない。
ただし、望遠鏡を覗《のぞ》きこむには骨が折れる。脚立に昇って、天井に頭を打ちつけそうなくらいの位置からようやく覗くことができるありさまだ。
「どれどれ」遼《リヤン》はつぶやいた。「午前九時か。ご出勤の時間も近いな。倍率を上げてみるか」
ダイヤルを回していくと、やわらかい陽射しが降り注ぐ都心部は拡大されていき、視界は息を呑《の》むほど地上に迫っていく。
ピントを調整すると、洒落《しやれ》た赤いレンガ風のタイルに覆われたマンションのエントランスが見えた。
西麻布《にしあざぶ》。高級住宅街の一角。俺たちとは生まれも育ちも違う連中が、ごく当たり前に感じているであろう風景。驚異的に拡大された望遠鏡の視界は、そのマンションの三、四階のバルコニーに立って、玄関先を見下ろしているような錯覚さえ生む。
「いい暮らしだな」遼はいった。「あのエントランスのタイル、一枚で俺の田舎の一軒家が買えるぜ」
脚立の下から張《チヤン》の声がする。「四川《スーチヨワン》盆地も最近じゃ地価が高いって聞いたぜ?」
「馬鹿。そいつは成都《チヨントウー》とその周辺だけだろうが。東の湖南《フーナン》省との境付近に暮らしてみろよ。人よりパンダの命のほうが重視されている地域だ」
「ぼやくなよ。いまじゃ立派にお国のために働けてるだろうが」
「このばかでかい望遠鏡で、政府のやつらのはげ頭をぶん殴ってやりたくなる」
「五百キロもあるこいつを持ちあげられる腕力が、お前にあるならな」
遼は顔をあげた。張が、紙コップに入ったコーヒーを差しだしてきた。
「ありがとよ」と遼はそれを受けとりながら、望遠鏡に目を戻した。
そのとき、動きがあった。エントランスからひとりの女がでてくる。
「来たぞ」遼はいった。
「高遠由愛香《たかとおゆめか》か?」
「ああ。間違いない」
年齢は二十九歳。痩《や》せていて、すらりと高い長身はモデルのようでもある。高そうなスーツを着て、首にはエルメスのスカーフを巻いていた。ハンドバッグも当然のごとくエルメス。長い髪にかかったウェーブはヘアスタイリストの世話になったかのように完璧《かんぺき》にセットしてある。サングラスをかけているが、人目を避けるどころか無限に目立つ存在感を放っていた。
倍率をさらに拡大すると、サングラスのフレームに入っているブランドのマークまで読みとれた。
「シャネルかよ。いちいち金をかけたがる女だ」
「美人にゃ金が集まってくるもんだ」
「この女、お前のタイプかい? 張」
「さあ……な。だが、強情そうな顔をした女は嫌いじゃないな。由愛香もそうだろ? 目がきつくて、どちらかといえば強欲、やや意地悪そうで」
「セレブの類《たぐ》いはみんなそうだろ。お前がそんな趣味だとはな……。おっと、待て。もうひとりでてきた」
今度の女は由愛香よりいくらか若くみえる。小柄だし、痩せてはいるが女子学生のようにもみえる。黒髪をショートにまとめ、この界隈《かいわい》では場違いなありふれた安物のスーツを着ていた。ハンドバッグにいたってはノンブランド品のようだ。
「誰だろな」遼は観察しながらいった。「若く見えるが……それでも二十代半ばぐらいか。昔の末広[#「末広」に傍点]涼子《りようこ》みたいな感じの女だ」
「広末《ひろすえ》だろ。スエヒロはお前がよく行く焼肉屋だろうが」
「いいんだよ、細《こま》けえことは。それにしても、高遠由愛香のお友達にしちゃ地味な娘だな」
「雪村藍《ゆきむらあい》だろ」張は投げやりに告げてきた。「ソフトウェア会社に勤務する、ごく普通のOLだよ」
「高遠由愛香とどんな関係だ?」
「友人同士らしい。たぶん由愛香が持ってる飲食店のどれかの常連客だったんだろう。由愛香はいつも、藍を見下した態度でからかってる」
マンションの玄関先では、たしかに一見そんな光景が繰りひろげられている。気取ったしぐさでたたずむ由愛香が、藍に咎《とが》めるような目を向けて、なにか小言を口にしていた。
音声が聞こえないのが残念だが、どうやら藍のファッションセンスにひとことあるようだ。
ただし、遼の目にはふたりの関係は張の指摘と逆に見えた。
からかっているのはむしろ藍のほうだ。由愛香のセレブ気取りを内心では嘲笑《ちようしよう》している。藍はときおり、その態度をあからさまにちらつかせるが、由愛香のほうはそれを皮肉と気づかず、ますますのぼせあがるといった図式だ。
思わず遼は苦笑した。女の世界にも凸凹《でこぼこ》コンビってのはいるんだな。
由愛香がリモコンを操作し、エントランスの脇のシャッターがあがる。ガレージからのぞいているのはアルファロメオのアルファ8Cコンペティツィオーネ。
ひゅうと口笛を吹いて遼はいった。「すげえの乗ってやがる。それもホイールが金メッキの特注品だ」
「二千二百万円、世界四百台限定だからな。この手のが日常走ってるなんてモンテカルロか六本木《ろつぽんぎ》近辺だけだってよ」
「不公平だな。金ってのは一箇所に集中しちゃいけねえよな」
「そうとも。だから解放してやるのさ」
「だな。解放だ」
雪村藍はしかし、クルマにもさしたる関心を持っていないようだった。由愛香がこれ見よがしに振る舞っているのに、藍は知らん顔だ。
男と女の違いか。女はクルマの価値に無頓着《むとんちやく》だ。そういう意味でみれば、藍のほうが女らしいのだろう。由愛香はブランド品が権力に直結すると考えている。権力志向、つまりは男のものの考え方だ。
都内に十四もの飲食店をチェーン展開して、年商四十億をあげる企業のオーナーともなれば、それぐらいの競争心がなければ勤まらないのだろう。
遼がそう思ったとき、望遠鏡の視界のなかにもう一台のクルマが滑りこんできた。
鮮やかなオレンジいろに輝くランボルギーニ・ガヤルド。停車したその車体から降り立ったのは、これまた異彩を放つ女だった。
その女の登場は、由愛香と藍の存在を一瞬忘れさせるほどだった。なにがそこまで周りの空気に影響を及ぼすのかわからない、それでもたしかな存在感がある。
背は由愛香ほど高くない。百六十五前後だろうか。頭部が小さいので小柄に見えるが、八頭身か九頭身の抜群のプロポーションとあいまって息を呑むほどの美しさだった。服装はカジュアルそのもので、白のTシャツにデニム地の上下、足もとはスニーカーだった。安易にみえるがどれも高価なものばかりで、ファッションセンスも抜群であり、控えめだが趣味のよさという点では申しぶんない。
腕と脚はすらりと伸び、髪は褐色に染めて肩にかかる長さだった。遼はよく見ようと顔にピントを合わせた。
女は紅《べに》いろのサングラスをはずした。
瞳《ひとみ》が異常なほど大きく見えるのは、やはり顔の小ささゆえのことだろう。化粧は薄く、ほとんどすっぴん顔ながら、肌艶《はだつや》は少女のように滑らかだった。美人だが、変わった顔をしている。一見鈍そうだが、目つきは鋭い。女子大生のように若々しくもあり、人生に熟達した知性を感じさせる面影もあった。
クルマから降りたときの動作にも無駄はなく、運動神経のよさを感じさせる。実際に鍛えているようだ。着痩せするタイプらしく、服の上からはさほどわからないが、無駄な贅肉《ぜいにく》はほとんど身についていないだろう。
「三人めの女だ」遼は張に告げた。「ガヤルドに乗ってる。いま由愛香たちと笑顔を交わして……歩み寄ってく。待ち合わせしてたみたいだ」
「ガヤルドの女だって? 知らないな。由愛香の同業者か? 別の店舗の経営者とか?」
「さあ……そんなふうには見えん。実業家というより、若くして医者とか弁護士の道で成功したって感じだが……。いまはプライベートらしく普段着姿だ」
「報告しとくか?」
「そうだな。いちおう……」
ガヤルドの女に対する藍の態度は、由愛香へのそれとは正反対だった。人なつっこい笑みを浮かべて、さも親しげに擦り寄っていく。由愛香のほうは心なしか嫉妬《しつと》心をのぞかせているようにも思える。
あのOLを奪い合っている仲というわけではないのだろう。由愛香の嫉妬は、ガヤルドの女の存在自体に向けられたものだ。
その場にいるだけで、誰も目を逸《そ》らすことができなくなる。そうした存在には稀《まれ》に出くわす。ガヤルドの女は、まぎれもなくその人種に属している。
拡大して手もとを眺める。ガヤルドの女もエルメスのバッグを持っているが、由愛香のケリーバッグと違い、よりカジュアルなバーキンのブルージーンだ。手首にはカルティエのラブブレス。中指にはブルガリのビー・ゼロワンをはめている。薬指にはなにもない。独身なのだろう。
どうやら雪村藍はガヤルドの助手席に乗っていくようだ。由愛香はそれほど気を悪くしたようすもないようだが、本心はどうかわからない。
由愛香は東京ミッドタウンに向かうのだろうが、ガヤルドのほうの行き先はどこだ。
監視対象であるはずの由愛香よりも、いまとなってはガヤルドの女が気になる。
と、ガヤルドに乗りこむ寸前、その女の大きな瞳がこちらをまっすぐに見据えた。
遼はどきっとして身を退かせた。
「どうかしたか」と張が聞いてきた。
「いや……」遼はふうっとため息をついた。
肉眼でガラスごしに、地上との距離をたしかめることで、ようやく安堵《あんど》を覚える。向こうからこちらを見つけられるわけがない。
ふたたび望遠鏡を覗《のぞ》きこむと、ガヤルドはすでに走り去っていた。
冷や汗をぬぐいながら、遼はひとりごちた。やれやれ。千里眼じゃあるまいし。
岬美由紀は都心部の空に建つ、真新しく巨大なビルを眺めていた。その先端部には雲がかかっている。非現実的な光景は想像を元に描かれた絵画のようだった。
藍がガヤルドの助手席から顔をのぞかせる。「美由紀さん、どうかしたの?」
「いえ、べつに……」美由紀は思ったままを言葉にした。「由愛香が、すごいところに店を開くんだなぁって感心してたの」
「そうでしょ」由愛香はアルファロメオの脇で、モデルのように気取った姿勢をとった。「開店前に入れるだけでも幸運なのよ。それなのに手伝いにも来てくれないなんて、友達甲斐のない人たちね。オープン後には一般のお客さんと一緒に並んでもらうわよ」
「はん」藍は肩をすくめた。「行かないとは言ってないけどさ。わたしたちも忙しいし」
「どこがよ。きょうは土曜で、仕事休みでしょ」
「明日行きますって。じゃ、美由紀さん。早く」
美由紀は戸惑いがちに由愛香に声をかけた。「ごめんね、由愛香。藍のほうとは、前から約束してた日だし……」
「ええ。いいのよ」由愛香は微笑したが、どこか冷ややかな響きのこもった声で告げた。「その代わり、明日は時間どおりに来てよ。遅れたら美由紀にも働いてもらうから」
「わかった。本当にごめんなさい。また明日ね」美由紀はそういって、ガヤルドの運転席に乗りこんだ。
助手席で藍がつぶやいた。「由愛香さん、東京ミッドタウンの新しいお店を自慢したくてウズウズしてるね」
「わたしも興味はあるんだけど、藍を航空ショーに連れてくほうが優先だし」
「……わがままだったかな。キャンセルしたほうがいい? ああいう屋外の催しって、昔から行きたかったんだけど、行けなくて……。いまは出かけてみたくてしょうがないの。不潔恐怖症、治らないほうがよかったかな」
「そんなことないわよ。偏食も治ったんでしょ?」
「二キロ太っちゃった。よく食べるようになったから……。でも、美由紀さんには心から感謝してるよ。一生の悩みだと思ってたのに」
「わたしが変えたわけじゃないの。あなたが変わったのよ」
「名高い臨床心理士の美由紀さんが友達で、本当によかった。あ、美由紀さん……」
「なに?」
「わたしたち、友達だよね? そのう……美由紀さんって年上なのに、わたしいつもタメグチきいちゃって」
「年上っていってもふたつしか違わないでしょ? 二十八歳と二十六歳なんてほとんど同世代」
「そんなふうに言ってくれるなんて、ますます美由紀さんを好きになりそ。三十路《みそじ》近い女は人生焦ってるせいか、性悪になる人もいるのに……」
「由愛香はいい人よ」
美由紀はそういいながら、エンジンをかけた。去りぎわに、窓の外の由愛香にあいさつしようと目を向けた。
ところが由愛香は、こちらを見てはいなかった。仏頂面でアルファ8Cに乗りこみ、シートベルトを締めにかかった。あえて美由紀に視線を合わせまいとしているかのようだ。
そのしぐさが美由紀の胸にひっかかった。わたしと目を合わせたがらない。心を開いてはくれない。世のなかの、ほかの大勢の人々と同じように。
前方に向き直り、美由紀はそのもやもやした考えを追い払った。いまに始まったことではない。彼女の心に土足で踏みいってしまうのはわたしのほうだ。たとえ友達であっても、警戒するのは当然のことだ。
藍がガヤルドの助手席から顔をのぞかせる。「美由紀さん、どうかしたの?」
「いえ、べつに……」美由紀は思ったままを言葉にした。「由愛香が、すごいところに店を開くんだなぁって感心してたの」
「そうでしょ」由愛香はアルファロメオの脇で、モデルのように気取った姿勢をとった。「開店前に入れるだけでも幸運なのよ。それなのに手伝いにも来てくれないなんて、友達甲斐のない人たちね。オープン後には一般のお客さんと一緒に並んでもらうわよ」
「はん」藍は肩をすくめた。「行かないとは言ってないけどさ。わたしたちも忙しいし」
「どこがよ。きょうは土曜で、仕事休みでしょ」
「明日行きますって。じゃ、美由紀さん。早く」
美由紀は戸惑いがちに由愛香に声をかけた。「ごめんね、由愛香。藍のほうとは、前から約束してた日だし……」
「ええ。いいのよ」由愛香は微笑したが、どこか冷ややかな響きのこもった声で告げた。「その代わり、明日は時間どおりに来てよ。遅れたら美由紀にも働いてもらうから」
「わかった。本当にごめんなさい。また明日ね」美由紀はそういって、ガヤルドの運転席に乗りこんだ。
助手席で藍がつぶやいた。「由愛香さん、東京ミッドタウンの新しいお店を自慢したくてウズウズしてるね」
「わたしも興味はあるんだけど、藍を航空ショーに連れてくほうが優先だし」
「……わがままだったかな。キャンセルしたほうがいい? ああいう屋外の催しって、昔から行きたかったんだけど、行けなくて……。いまは出かけてみたくてしょうがないの。不潔恐怖症、治らないほうがよかったかな」
「そんなことないわよ。偏食も治ったんでしょ?」
「二キロ太っちゃった。よく食べるようになったから……。でも、美由紀さんには心から感謝してるよ。一生の悩みだと思ってたのに」
「わたしが変えたわけじゃないの。あなたが変わったのよ」
「名高い臨床心理士の美由紀さんが友達で、本当によかった。あ、美由紀さん……」
「なに?」
「わたしたち、友達だよね? そのう……美由紀さんって年上なのに、わたしいつもタメグチきいちゃって」
「年上っていってもふたつしか違わないでしょ? 二十八歳と二十六歳なんてほとんど同世代」
「そんなふうに言ってくれるなんて、ますます美由紀さんを好きになりそ。三十路《みそじ》近い女は人生焦ってるせいか、性悪になる人もいるのに……」
「由愛香はいい人よ」
美由紀はそういいながら、エンジンをかけた。去りぎわに、窓の外の由愛香にあいさつしようと目を向けた。
ところが由愛香は、こちらを見てはいなかった。仏頂面でアルファ8Cに乗りこみ、シートベルトを締めにかかった。あえて美由紀に視線を合わせまいとしているかのようだ。
そのしぐさが美由紀の胸にひっかかった。わたしと目を合わせたがらない。心を開いてはくれない。世のなかの、ほかの大勢の人々と同じように。
前方に向き直り、美由紀はそのもやもやした考えを追い払った。いまに始まったことではない。彼女の心に土足で踏みいってしまうのはわたしのほうだ。たとえ友達であっても、警戒するのは当然のことだ。