マルジョレーヌと名づけられた由愛香の店を、美由紀はひとりで出た。作業中の由愛香の迷惑になるだろうし、専門的な内装業については手伝えそうなこともない。藍は気にせずに居残っているようだが、彼女も遅かれ早かれ退散するだろう。由愛香がぴりぴりしているのは、疑いようのない事実だ。
店のエントランスは外に面していた。ガーデンテラスというガラスの円筒をいくつも重ねたようなビルのなかでは、抜群の立地だった。
芝生に覆われた広場を歩きだそうとしたとき、向こうからやってきた男が目についた。
その男は痩身《そうしん》にして長身で、丸いサングラスをかけている。髪はオールバックにして固め、黒のスーツはオーダーメイドらしく身体にぴったりとフィットしていた。磨きあげられた靴は光沢を放ち、夏の午後の陽射しを受けて輝いている。
頬のこけた浅黒い顔は、どこか異彩を漂わせている。東洋人には違いないが、日本人ではないのかもしれない。
美由紀とすれ違ったその男は、まっすぐに由愛香の店に入っていった。
妙に思って、ガラス張りの壁面からなかを覗《のぞ》く。
由愛香は、そのサングラスの男を緊張の面持ちで迎えた。なにかしきりに話しこんでいる。
しばらくして由愛香は笑みを浮かべたが、その表情がうわべだけにすぎないことに美由紀は気づいた。目のまわりの筋肉はいっさい動かず、口角だけをあげている。
内情を探っているような罪悪感を覚え、美由紀は店に背を向けた。こんな一等地に出店するのだ、様々なつきあいもあるだろう。立ち入るつもりはない。
ガーデンテラスを迂回《うかい》して歩いていき、この敷地の中央にそびえるメインの建造物を見あげた。
ミッドタウンタワー。高さ二百四十八メートル、地上五十四階、地下五階。さも未来的な曲線を多用したデザインの六本木ヒルズ森タワーと違い、こちらは直線が主体の直方体だ。四十四階まではオフィスフロア、それより上は高級ホテル、ザ・リッツ・カールトンの客室になっている。
六本木交差点にほど近いこの場所には、かつて防衛庁の庁舎が存在していた。美由紀が現役の幹部自衛官だったころには、すでに庁舎は|市ヶ谷《いちがや》に移転していたし、現在では防衛庁も防衛省に昇格している。よってここには、自衛隊を束ねる総本部としての名残はどこにもない。替わって、都心部にはめずらしく緑豊かな複合施設が建設された。
東京ミッドタウンは、タワーを中心とした複数のビルから成る。マンションや店舗など、それぞれ内容の異なるビルがタワーを囲むように建つという状況は六本木ヒルズと似ているが、ここには映画館などの娯楽施設はない。落ち着いた高級志向はニューヨークのセントラルパーク周辺を思わせる。
タワーの膝下《ひざもと》の広場に歩を進めると、噴水のそばのベンチで休んでいた男が身体を起こし、声をかけてきた。「美由紀」
ほっそりとした身体が立ちあがり、歩み寄ってくる。なぜか少しやつれたようすの同僚、臨床心理士の徳永良彦《とくながよしひこ》だった。
「徳永さん? こんなところで会うなんて」
「まったくだよ。見かけて驚いた。きみは私服でも目立つね。オーラを放ってるのかな」
「オーラだなんて。臨床心理学的にみれば錯覚の一種にすぎないんじゃない?」
「そりゃそうだけどさ。たまにはDSMから離れて日常会話を楽しみたいよ。人格障害の区分を検証したり、気分障害のうつ病性障害について慢性か季節性かメランコリー型かと分析に追われてばかりなんて、人として健全じゃないね」
徳永はスーツを着ている。きょうは休日ではなく仕事らしい。
「日曜なのに忙しいのね」と美由紀は笑いかけた。「どこで仕事を?」
「ミッドタウンタワーの低層階にあるメディカルセンターだよ。いちおう精神科もあるんでね」
「きょうは休診じゃなくて?」
「そうなんだけど、それゆえに空いている診察室を使って面接をおこなっているんだ。患者の精神分析を頼まれていて、いまはその途中だよ」
「こんなところで油を売ってていいの?」
「すぐに戻るよ。あと五分か十分したら。仕事前に鋭気を養うのもカウンセラーとして必要なことじゃないか」
「それって、心理学的にみればセルフ・ハンディキャッピングってやつじゃない? 宿題の前にゲームにハマっちゃったりする学生の心理っていうか……。自分にハンディをつけて、不利な条件だと納得感を得るために、自然にそうなっちゃうっていう……」
「まさか。僕はそこまで意志力が欠如しちゃいないよ。ただなぁ。どうも気が進まないんだよ」
「察するに、患者さんを助けたいのは山々だけど、依頼内容が気に食わなくて、その葛藤《かつとう》で悩んでいるってとこかな。患者さんと依頼人は別?」
「……お見事。図星だよ。いつもながら素晴らしい観察眼だね。動物行動学者のデズモンド・モリスがいうには、心理が表出する順位は汗や顔いろ、心臓の鼓動などの自律神経系、脚、胴体、手の動き、そして表情ってことだけど……。きみはその六番目の表情だけ見て、感情が読めるんだな」
なぜか会話をはぐらかしたがっているように思える。しかし美由紀は、その患者のことを知りたいと感じた。助けられるものなら助けたい。
「その患者さんに精神科を受診できるだけの対話能力がなくて、世話をしている機関から依頼が入ったとか……」
「いや。そんなことなら問題ないんだがね。美由紀。きみは国税局のお世話になったことはあるかい?」
「国税局? いいえ」
徳永はため息をついた。「そうか。僕よりずっと儲《もう》かっていそうなきみなら、一度や二度は納税額を疑問視されたこともあるんじゃないかと……」
「税金の計算なら、臨床心理士会の薦める顧問税理士の人に頼んでるけど。徳永さんはそうしてないの?」
「まあ、僕の場合は、いろいろとね……。きみって、臨床心理士としての仕事のほかに、警察の捜査に協力して解決したことも何度かあったじゃないか。ああいうのは、稼ぎにつながったんじゃないのかい?」
「全然。重大事件の解決に手を貸しても、総監賞の金一封は五万円ぐらいだし……」
「五万円!? 旅客機の墜落を防いだり、細菌の蔓延《まんえん》を防いだりしたのに、それっぽっちなのか?」
「正確には、表彰状と紅白|餅《もち》もつくけどね……」
「へえ……そうか。じゃあ、きみの場合は純粋にカウンセリングを希望してくる相談者《クライアント》数が多いんだな。いいよな人気者は……」
「徳永さん。いったいどうしたっていうの? その患者さんの後見人は国税局の人ってこと? なぜそんなことに……」
「それが、なんとも奇妙な話でね」徳永は頭をかきむしった。「なんにせよ、こちらに飛び火しないことを祈りたいよ……。患者の症状ではなく、立場がね」
店のエントランスは外に面していた。ガーデンテラスというガラスの円筒をいくつも重ねたようなビルのなかでは、抜群の立地だった。
芝生に覆われた広場を歩きだそうとしたとき、向こうからやってきた男が目についた。
その男は痩身《そうしん》にして長身で、丸いサングラスをかけている。髪はオールバックにして固め、黒のスーツはオーダーメイドらしく身体にぴったりとフィットしていた。磨きあげられた靴は光沢を放ち、夏の午後の陽射しを受けて輝いている。
頬のこけた浅黒い顔は、どこか異彩を漂わせている。東洋人には違いないが、日本人ではないのかもしれない。
美由紀とすれ違ったその男は、まっすぐに由愛香の店に入っていった。
妙に思って、ガラス張りの壁面からなかを覗《のぞ》く。
由愛香は、そのサングラスの男を緊張の面持ちで迎えた。なにかしきりに話しこんでいる。
しばらくして由愛香は笑みを浮かべたが、その表情がうわべだけにすぎないことに美由紀は気づいた。目のまわりの筋肉はいっさい動かず、口角だけをあげている。
内情を探っているような罪悪感を覚え、美由紀は店に背を向けた。こんな一等地に出店するのだ、様々なつきあいもあるだろう。立ち入るつもりはない。
ガーデンテラスを迂回《うかい》して歩いていき、この敷地の中央にそびえるメインの建造物を見あげた。
ミッドタウンタワー。高さ二百四十八メートル、地上五十四階、地下五階。さも未来的な曲線を多用したデザインの六本木ヒルズ森タワーと違い、こちらは直線が主体の直方体だ。四十四階まではオフィスフロア、それより上は高級ホテル、ザ・リッツ・カールトンの客室になっている。
六本木交差点にほど近いこの場所には、かつて防衛庁の庁舎が存在していた。美由紀が現役の幹部自衛官だったころには、すでに庁舎は|市ヶ谷《いちがや》に移転していたし、現在では防衛庁も防衛省に昇格している。よってここには、自衛隊を束ねる総本部としての名残はどこにもない。替わって、都心部にはめずらしく緑豊かな複合施設が建設された。
東京ミッドタウンは、タワーを中心とした複数のビルから成る。マンションや店舗など、それぞれ内容の異なるビルがタワーを囲むように建つという状況は六本木ヒルズと似ているが、ここには映画館などの娯楽施設はない。落ち着いた高級志向はニューヨークのセントラルパーク周辺を思わせる。
タワーの膝下《ひざもと》の広場に歩を進めると、噴水のそばのベンチで休んでいた男が身体を起こし、声をかけてきた。「美由紀」
ほっそりとした身体が立ちあがり、歩み寄ってくる。なぜか少しやつれたようすの同僚、臨床心理士の徳永良彦《とくながよしひこ》だった。
「徳永さん? こんなところで会うなんて」
「まったくだよ。見かけて驚いた。きみは私服でも目立つね。オーラを放ってるのかな」
「オーラだなんて。臨床心理学的にみれば錯覚の一種にすぎないんじゃない?」
「そりゃそうだけどさ。たまにはDSMから離れて日常会話を楽しみたいよ。人格障害の区分を検証したり、気分障害のうつ病性障害について慢性か季節性かメランコリー型かと分析に追われてばかりなんて、人として健全じゃないね」
徳永はスーツを着ている。きょうは休日ではなく仕事らしい。
「日曜なのに忙しいのね」と美由紀は笑いかけた。「どこで仕事を?」
「ミッドタウンタワーの低層階にあるメディカルセンターだよ。いちおう精神科もあるんでね」
「きょうは休診じゃなくて?」
「そうなんだけど、それゆえに空いている診察室を使って面接をおこなっているんだ。患者の精神分析を頼まれていて、いまはその途中だよ」
「こんなところで油を売ってていいの?」
「すぐに戻るよ。あと五分か十分したら。仕事前に鋭気を養うのもカウンセラーとして必要なことじゃないか」
「それって、心理学的にみればセルフ・ハンディキャッピングってやつじゃない? 宿題の前にゲームにハマっちゃったりする学生の心理っていうか……。自分にハンディをつけて、不利な条件だと納得感を得るために、自然にそうなっちゃうっていう……」
「まさか。僕はそこまで意志力が欠如しちゃいないよ。ただなぁ。どうも気が進まないんだよ」
「察するに、患者さんを助けたいのは山々だけど、依頼内容が気に食わなくて、その葛藤《かつとう》で悩んでいるってとこかな。患者さんと依頼人は別?」
「……お見事。図星だよ。いつもながら素晴らしい観察眼だね。動物行動学者のデズモンド・モリスがいうには、心理が表出する順位は汗や顔いろ、心臓の鼓動などの自律神経系、脚、胴体、手の動き、そして表情ってことだけど……。きみはその六番目の表情だけ見て、感情が読めるんだな」
なぜか会話をはぐらかしたがっているように思える。しかし美由紀は、その患者のことを知りたいと感じた。助けられるものなら助けたい。
「その患者さんに精神科を受診できるだけの対話能力がなくて、世話をしている機関から依頼が入ったとか……」
「いや。そんなことなら問題ないんだがね。美由紀。きみは国税局のお世話になったことはあるかい?」
「国税局? いいえ」
徳永はため息をついた。「そうか。僕よりずっと儲《もう》かっていそうなきみなら、一度や二度は納税額を疑問視されたこともあるんじゃないかと……」
「税金の計算なら、臨床心理士会の薦める顧問税理士の人に頼んでるけど。徳永さんはそうしてないの?」
「まあ、僕の場合は、いろいろとね……。きみって、臨床心理士としての仕事のほかに、警察の捜査に協力して解決したことも何度かあったじゃないか。ああいうのは、稼ぎにつながったんじゃないのかい?」
「全然。重大事件の解決に手を貸しても、総監賞の金一封は五万円ぐらいだし……」
「五万円!? 旅客機の墜落を防いだり、細菌の蔓延《まんえん》を防いだりしたのに、それっぽっちなのか?」
「正確には、表彰状と紅白|餅《もち》もつくけどね……」
「へえ……そうか。じゃあ、きみの場合は純粋にカウンセリングを希望してくる相談者《クライアント》数が多いんだな。いいよな人気者は……」
「徳永さん。いったいどうしたっていうの? その患者さんの後見人は国税局の人ってこと? なぜそんなことに……」
「それが、なんとも奇妙な話でね」徳永は頭をかきむしった。「なんにせよ、こちらに飛び火しないことを祈りたいよ……。患者の症状ではなく、立場がね」