夜、十時すぎ。
美由紀は、乃木坂《のぎざか》にある由愛香のマンションから少し離れた路上にランボルギーニ・ガヤルドを停めていた。
この一帯は都内のわりには暗い。街路灯の下を避けて停めていれば、マンションのエントランスからこちらに気づくことは稀《まれ》のはずだ。
東京ミッドタウンのマルジョレーヌ以外の店を閉め、クルマも売った由愛香が、このマンションだけは引き払っていない。ということは、彼女にはそうせざるをえない理由があるのだ。
おそらくはいま、住所を移すわけにはいかないのだろう。すなわち、届け物があるか、もしくは迎えが来ると考えられる。
五階にある由愛香の部屋の明かりは点《つ》いている。彼女は早くから帰宅していた。たぶん誰かを待っているに違いない。
由愛香の身を案じて、ここでじっと待つ自分がいる。と同時に、複雑な思いが心のなかに広がっていく。
わたしは由愛香に嫌われていたのか。いや、そもそも、好かれてはいないことは承知のうえだった。両者の関係に、好き嫌いの感情など無縁のものだったからだ。
それでもいまに至って、由愛香はわたしに嫌悪の感情をむきだしにした。
彼女にとって、わたしはなんだったのだろう。豊かさを自慢できる相手として適任だったのか。それとも、藍のいうように、張り合うためのライバルと見ていたのか。
そのいずれかだったとしても、いま由愛香はなぜか資金繰りに詰まり、かつてのように業績を自負することができなくなった。それでたちまち、わたしという存在が疎ましく思えるようになった。そういうことだろうか。
友情がなかったというのなら、わたしはなぜこんなにショックを受けているのだろう。彼女が頼りにしてくれなかったこと、あからさまな嫌悪をしめしたことに、動揺し傷ついている自分。それをどうとらえたらいいのだろう。
何時間考えあぐねても、答えは見つからなかった。
ヘッドライトの光が路上に走った。鏡張りに見えるほどの光沢を放つ銀いろの巨大なセダンが、ガヤルドのわきを通過した。ロールスロイス、それも新型のファンタムがマンションの前に滑りこんでいく。
照らしだされたエントランスに、由愛香が姿を見せていた。
由愛香は派手《はで》なパーティードレスを着ている。手にしたハンドバッグからハイヒールにいたるまで、その装いには一分の隙もない。身につけた高価なアクセサリー類の宝石が、きらきらと輝きを放っているのがこの距離からもわかる。
まだ資産のすべてを手放したわけではなさそうだ。しかしこれも、この迎えを受けるために必要な道具立てだったと考えられる。高級マンションと、パーティーに必要な装い一式。なにもかも投げだしてでも、それらはつなぎとめておかねばならなかったのだろう。
運転手は、制服を着た見知らぬ男だった。車外に降り立ち、後部座席のドアを開ける。
乗りこむ由愛香の表情はこわばっていた。
ほどなく、運転手が車内に戻り、ロールスロイスは発進した。
美由紀はガヤルドのエンジンをかけた。尾行に気づかれないよう、あるていどの距離を置いてから発進させる。
この時刻からパーティーか。富裕層とのつきあいの深い由愛香なら珍しくもないが、どうしても出席せねばならない催しであるとするのなら、ホストは誰だろう。
六本木ヒルズ森タワーと張り合うように、ミッドタウンタワーが東京の夜空にそびえ立つ。それらは、領土をめぐって争うふたつの国の城のようでもあった。都心部はさながら、城下町にすぎない。権力者の争いに翻弄《ほんろう》され、右往左往する人々。わたしもそのひとりかもしれないと美由紀は思った。
やがて、ロールスロイスは元麻布《もとあざぶ》の高級住宅街へと入っていった。
狭く入り組んだ路地のつづくこの一帯を、車幅の広いロールスロイスは器用に抜けていく。美由紀はガヤルドを慎重に走らせた。一方通行が多く、その経路はきわめて複雑だ。
しばらくすると、住宅街のなかに突如として、巨大な洋館が現れた。
その瀟洒《しようしや》な外壁は延々とつづき、迎賓館のような観音開きの門の付近には、シルクハットにタキシード姿の係員らが立っていて、ゲストの車両を歓迎している。乗りいれていくクルマはベントレーにアストン・マーティン、メルセデス・ベンツ、そしてロールスロイス。超高級車ばかりだった。
由愛香の乗ったロールスロイスが、門のところでしばし停車した。由愛香がサイドウィンドウを下げてなにか紙片のようなものを手渡すと、すぐに係員が微笑とともになかを指し示した。ロールスロイスは門のなかに消えていった。
美由紀は高級車の列の最後尾につけて、ようすをうかがった。
ほどなく係員が近づいてきて、会釈をした。
それなりのクルマだけに、まだ疑いをかけられてはいないようだった。美由紀はウィンドウをさげていった。「こんばんは」
係員が告げてきた。「|帯著請帖※[#「口+馬」、unicode55ce]《タイチヤチンテイエマ》?」
一瞬、言葉に詰まった。中国語だ。
ただし、空自にいた美由紀は周辺国の言葉なら習得していた。招待状をお持ちですか、とたずねている。
さっきロールスロイスで入ったのがわたしの友達だと主張してみるか。招待状も彼女が持っている、そう言えば通してもらえるかもしれない。
美由紀はいった。「我的朋友先進入了《ウオタポンヨウシエンチンルーラ》。|※[#「女+也」、unicode5979]捧著請帖《ターポンチヤチンテイエ》」
係員は困惑したようすで後ろを振りかえった。
そこにいた男を見た瞬間、美由紀は身をこわばらせた。
あのサングラスの男だ。正装姿で、門のわきにたたずんでいる。
係員が目で男になにかをたずねている。男は無表情のまま首を横に振った。
残念そうな顔で係員がいう。今度は日本語だった。「申しわけありません。招待状がないと……」
「いいのよ。ありがとう」美由紀は微笑んでみせてから、クルマをバックさせた。
サングラスの男がじっとこちらを見つめている。その視線を美由紀は感じていた。
わたしがきょうの昼間、由愛香と一緒にマルジョレーヌにいた女だと気づいただろうか。それでも彼はわたしを部外者だと見抜き、係員にも日本語での対応を指示した。
よほどのメンバーシップが必要とされるパーティーらしい。なにを目的としたものだろう。
美由紀はカーナビの画面をちらと見やった。
港区元麻布三丁目、中国大使館の広大な敷地が表示されていた。
美由紀は、乃木坂《のぎざか》にある由愛香のマンションから少し離れた路上にランボルギーニ・ガヤルドを停めていた。
この一帯は都内のわりには暗い。街路灯の下を避けて停めていれば、マンションのエントランスからこちらに気づくことは稀《まれ》のはずだ。
東京ミッドタウンのマルジョレーヌ以外の店を閉め、クルマも売った由愛香が、このマンションだけは引き払っていない。ということは、彼女にはそうせざるをえない理由があるのだ。
おそらくはいま、住所を移すわけにはいかないのだろう。すなわち、届け物があるか、もしくは迎えが来ると考えられる。
五階にある由愛香の部屋の明かりは点《つ》いている。彼女は早くから帰宅していた。たぶん誰かを待っているに違いない。
由愛香の身を案じて、ここでじっと待つ自分がいる。と同時に、複雑な思いが心のなかに広がっていく。
わたしは由愛香に嫌われていたのか。いや、そもそも、好かれてはいないことは承知のうえだった。両者の関係に、好き嫌いの感情など無縁のものだったからだ。
それでもいまに至って、由愛香はわたしに嫌悪の感情をむきだしにした。
彼女にとって、わたしはなんだったのだろう。豊かさを自慢できる相手として適任だったのか。それとも、藍のいうように、張り合うためのライバルと見ていたのか。
そのいずれかだったとしても、いま由愛香はなぜか資金繰りに詰まり、かつてのように業績を自負することができなくなった。それでたちまち、わたしという存在が疎ましく思えるようになった。そういうことだろうか。
友情がなかったというのなら、わたしはなぜこんなにショックを受けているのだろう。彼女が頼りにしてくれなかったこと、あからさまな嫌悪をしめしたことに、動揺し傷ついている自分。それをどうとらえたらいいのだろう。
何時間考えあぐねても、答えは見つからなかった。
ヘッドライトの光が路上に走った。鏡張りに見えるほどの光沢を放つ銀いろの巨大なセダンが、ガヤルドのわきを通過した。ロールスロイス、それも新型のファンタムがマンションの前に滑りこんでいく。
照らしだされたエントランスに、由愛香が姿を見せていた。
由愛香は派手《はで》なパーティードレスを着ている。手にしたハンドバッグからハイヒールにいたるまで、その装いには一分の隙もない。身につけた高価なアクセサリー類の宝石が、きらきらと輝きを放っているのがこの距離からもわかる。
まだ資産のすべてを手放したわけではなさそうだ。しかしこれも、この迎えを受けるために必要な道具立てだったと考えられる。高級マンションと、パーティーに必要な装い一式。なにもかも投げだしてでも、それらはつなぎとめておかねばならなかったのだろう。
運転手は、制服を着た見知らぬ男だった。車外に降り立ち、後部座席のドアを開ける。
乗りこむ由愛香の表情はこわばっていた。
ほどなく、運転手が車内に戻り、ロールスロイスは発進した。
美由紀はガヤルドのエンジンをかけた。尾行に気づかれないよう、あるていどの距離を置いてから発進させる。
この時刻からパーティーか。富裕層とのつきあいの深い由愛香なら珍しくもないが、どうしても出席せねばならない催しであるとするのなら、ホストは誰だろう。
六本木ヒルズ森タワーと張り合うように、ミッドタウンタワーが東京の夜空にそびえ立つ。それらは、領土をめぐって争うふたつの国の城のようでもあった。都心部はさながら、城下町にすぎない。権力者の争いに翻弄《ほんろう》され、右往左往する人々。わたしもそのひとりかもしれないと美由紀は思った。
やがて、ロールスロイスは元麻布《もとあざぶ》の高級住宅街へと入っていった。
狭く入り組んだ路地のつづくこの一帯を、車幅の広いロールスロイスは器用に抜けていく。美由紀はガヤルドを慎重に走らせた。一方通行が多く、その経路はきわめて複雑だ。
しばらくすると、住宅街のなかに突如として、巨大な洋館が現れた。
その瀟洒《しようしや》な外壁は延々とつづき、迎賓館のような観音開きの門の付近には、シルクハットにタキシード姿の係員らが立っていて、ゲストの車両を歓迎している。乗りいれていくクルマはベントレーにアストン・マーティン、メルセデス・ベンツ、そしてロールスロイス。超高級車ばかりだった。
由愛香の乗ったロールスロイスが、門のところでしばし停車した。由愛香がサイドウィンドウを下げてなにか紙片のようなものを手渡すと、すぐに係員が微笑とともになかを指し示した。ロールスロイスは門のなかに消えていった。
美由紀は高級車の列の最後尾につけて、ようすをうかがった。
ほどなく係員が近づいてきて、会釈をした。
それなりのクルマだけに、まだ疑いをかけられてはいないようだった。美由紀はウィンドウをさげていった。「こんばんは」
係員が告げてきた。「|帯著請帖※[#「口+馬」、unicode55ce]《タイチヤチンテイエマ》?」
一瞬、言葉に詰まった。中国語だ。
ただし、空自にいた美由紀は周辺国の言葉なら習得していた。招待状をお持ちですか、とたずねている。
さっきロールスロイスで入ったのがわたしの友達だと主張してみるか。招待状も彼女が持っている、そう言えば通してもらえるかもしれない。
美由紀はいった。「我的朋友先進入了《ウオタポンヨウシエンチンルーラ》。|※[#「女+也」、unicode5979]捧著請帖《ターポンチヤチンテイエ》」
係員は困惑したようすで後ろを振りかえった。
そこにいた男を見た瞬間、美由紀は身をこわばらせた。
あのサングラスの男だ。正装姿で、門のわきにたたずんでいる。
係員が目で男になにかをたずねている。男は無表情のまま首を横に振った。
残念そうな顔で係員がいう。今度は日本語だった。「申しわけありません。招待状がないと……」
「いいのよ。ありがとう」美由紀は微笑んでみせてから、クルマをバックさせた。
サングラスの男がじっとこちらを見つめている。その視線を美由紀は感じていた。
わたしがきょうの昼間、由愛香と一緒にマルジョレーヌにいた女だと気づいただろうか。それでも彼はわたしを部外者だと見抜き、係員にも日本語での対応を指示した。
よほどのメンバーシップが必要とされるパーティーらしい。なにを目的としたものだろう。
美由紀はカーナビの画面をちらと見やった。
港区元麻布三丁目、中国大使館の広大な敷地が表示されていた。