翌朝九時、美由紀は文京区|本郷《ほんごう》の臨床心理士会事務局に出勤した。
雑居ビルの三階でエレベーターを降りると、すぐに事務局のフロアだ。病院の待合室のように長椅子が連なる部屋にでる。ミッドタウンタワーのような広大なロビーはない。都内のビルといってもさまざまだ。
髭面《ひげづら》で小太りのスーツ姿、おなじみの外見の舎利弗浩輔《しやりほつこうすけ》が声をかけてきた。「やあ、おはよう。美由紀」
「おはようございます。ゆうべもここに泊まりこみだったの?」
「まあね。医学書を読んでたら面白くなってきちゃって……。知ってたかい、鼻の右の穴に生えている鼻毛を抜くと、かならず右目から涙がでるんだよ。左の鼻毛なら左目。蝶形口蓋《ちようがたこうがい》神経節が左右それぞれにあって、局所的な刺激では片側のみの反射が起きるからなんだよ」
「へえ……。まあ、そのう、興味深いですね」
「だろ? 今度の論文でもっと掘りさげてみようと思うんだ」
美由紀はひそかにため息をついた。舎利弗は三十代後半、すでにベテランの域に達している臨床心理士だというのに、わたしの社交辞令に気づくようすさえない。うわべだけの作り笑いは、最も簡単に見抜ける感情だというのに。
「舎利弗先生。きょうは外の仕事ないの? 論文もいいけど、臨床の現場はもっと実になることに満ちていると思うけど」
「いやぁ、僕はここの留守番で充分だよ。知ってのとおり、人と会うのは苦手だからさ。美由紀はニンテンドーDS、持ってる?」
「いえ……」
「通信やると面白いよ。今度ソフト貸してあげるからさ……」
そのとき、奥の事務室の扉が開いて、顔見知りが姿を現した。
向こうも美由紀に気づき、満面の笑みを浮かべた。又吉光春ははしゃいだ声で駆け寄ってきた。「岬先生! いろいろご尽力いただきありがとうございました。おかげで精神病患者扱いを受けずに済みそうです」
「又吉さん……。ここにおいでだったんですか」
「ええ。徳永先生に呼ばれましてね。いやあ、心の健全さが証明されるというのは気分がいいものですねぇ。だいたい、国税局の人間というのはどうかしてますよ。意に沿わなかったら人格障害にしてしまおうなんて。連中こそ、いちど頭を診てもらったほうが……」
扉からでてきた国税局査察部の小平隆が、苦い顔で咳《せき》ばらいした。
「あなたの妄想と思いこんだのはわれわれの落ち度でした」と小平はいった。「ただし、その映画プロデューサーを装った男から受け取った金については、とりあえず一時所得として申告していただきますよ」
又吉の顔がこわばった。「い、一時所得……?」
「そうです。報酬等支払いということになるし、あなたの場合はご自身の経費もかかっておられないから、半分ぐらいは税金として納めていただくことになるが……」
「半分!? 千八百万円のうち、九百万? 嘘でしょ、そんなの」
「あいにく、私は本当のことしか口にしないのでね。岬先生も私が本気だと証明してくださるでしょう」
尋ねるような顔で又吉が美由紀を見つめてきた。
小平の表情を観察するまでもなく、税率のことは知っている。美由紀はうなずいた。
「そんな」又吉は頭を抱えた。「九百万が税金だなんて。もう使っちまって無いよ……。ローンも山ほど残ってるし……。頭がくらくらしてきた」
舎利弗が又吉にいった。「それは大変だな。カウンセリング受けたら?」
美由紀はこの場の混乱状態から逃れたかった。たしかめるべきは、彼らがなぜ今朝ここに呼びだされたかだ。
事務室のほうに足を運んだ。戸口から室内を覗《のぞ》きこむと、徳永と話しこんでいる岩国警部補の姿が見えた。
「おはようございます、警部補」と美由紀は告げて入室した。
「ああ、どうも。岬先生」岩国は硬い顔のままだった。「いま、又吉さんと国税局の小平さんへの説明を終えて、徳永先生に最後の確認をしてもらっていたところです。ミッドタウンタワーの三十一階には、たしかに不法侵入がありました。又吉さんの証言は、ほぼ事実と見て間違いないでしょう」
徳永は信じられないというように首を横に振った。「まったく、ありえないことだよ……。あれがすべて妄想でなく事実だったなんてね。暗証番号を手に入れたいばかりに、大金を投じて人をだますなんて。常識じゃ考えられない」
美由紀は岩国を見つめた。「すると、昨晩も不法侵入があったわけですね? 犯人は取り押さえたんですか?」
「まあ、それについてなんですが……。ゆうべ、刑事五人で張りこむことになって、三十一階のモリスンのオフィスに潜みました。むろんモリスン側の許可をもらってのことでしたがね。あなたのいったとおり、男が三人ほど、台車に乗った馬鹿でかい望遠鏡を運びこんできました。奴らが窓辺にそれを設置しようとしたとき、明かりをつけて確保しようとしたんです。時刻は、午前零時を少しまわったころでした」
「……それで? 男たちを逮捕したんでしょう?」
「いえ……。残念ながら、それは不可能でして」
「どうして? 現行犯なのに……」
「連中は大使館の外交官だったんです。中国のね。外交特権で不逮捕特権ってやつを持ってる。現認しておきながら、こっちは手も足もでないありさまで」
「そんな……。彼らがなにを企《たくら》んでいたのかもわからずじまいってこと?」
「取り調べることもできなかったのでね。その場で無罪放免ですよ。いちおう上に報告しましたが、領事関係に関するウィーン条約が存在している以上、どうにもなりません」
「でも中国大使館に抗議するぐらいは……」
岩国は首を横に振った。「いいですか、岬先生。あの一帯は全世界の縮図みたいなものです。ミッドタウンタワーを中心にして半径一・五キロ圏内に、四十もの大使館があるんです。互いの動向を探りあおうと目を光らせあっている。そして、旧防衛庁の跡地にいきなり三百メートル弱の超高層ビルが建ったんです。どの大使館もその高さから見張られることなど想定していなかったから、庭先は丸見えでね。当然、他国の大使館か領事館を監視するのにミッドタウンタワーはうってつけと、こういうわけです」
「それで、複雑な国際問題に首を突っこむことになりそうだから、放任すべきだと……」
「上の判断はそうです。われわれとしても従わざるをえません」
岩国は心底悔しそうにしていた。無理もないと美由紀は思った。これほど理不尽な法律がまかり通っていること自体、この世のふしぎにほかならない。
美由紀はつぶやいた。「当然、中国大使館を家宅捜索するのも不可能でしょうね」
「もちろん。公館は不可侵ですから」
「望遠鏡を運びこんだのは、どんな人たちだったの?」
「私と同じぐらいの年齢で、張《チヤン》とか遼《リヤン》とか呼びあってました。外交官とは名ばかり、監視や工作活動のために本国から調達した人員に決まってますよ」
「その人たちがどこを監視していたか、わからない?」
「元麻布あたりにレンズが向けられていたことはわかったんですが、正確には……。われわれが連中を取り押さえようとした寸前、望遠鏡の向きを変えましてね」
元麻布。
昨晩の出来事が美由紀の脳裏をかすめた。由愛香が入っていった中国大使館。住所は元麻布三丁目……。
自国の大使館を監視していたというのだろうか。それとも、目的はほかにあったのか。
徳永が岩国にきいた。「刑事さんたちが闇に身を潜めていたとき、その外交官らは望遠鏡を設置して、なにかの監視に入ったんでしょう? ヒントになる会話とか、聞かなかったんですか?」
「会話といっても、中国語だったので……。ああ、遼なる男が望遠鏡を覗きながら、携帯電話に数字を告げてました」
「数字?」と美由紀は岩国を見た。「どんな?」
「イー・リウ・アール・リウとか、イー・バー・ジー・ウーとか。ほかにもいろいろありましたが、ぜんぶイー、つまり一から始まる四ケタでしたよ」
1626に1875。なにかの暗号に違いない。
美由紀はふいにひとつの可能性に気づいた。
もしそうなら、由愛香をほうってはおけない。彼女が資産を失いつつあるのは、すべて何者かが意図したことに違いないからだ。
雑居ビルの三階でエレベーターを降りると、すぐに事務局のフロアだ。病院の待合室のように長椅子が連なる部屋にでる。ミッドタウンタワーのような広大なロビーはない。都内のビルといってもさまざまだ。
髭面《ひげづら》で小太りのスーツ姿、おなじみの外見の舎利弗浩輔《しやりほつこうすけ》が声をかけてきた。「やあ、おはよう。美由紀」
「おはようございます。ゆうべもここに泊まりこみだったの?」
「まあね。医学書を読んでたら面白くなってきちゃって……。知ってたかい、鼻の右の穴に生えている鼻毛を抜くと、かならず右目から涙がでるんだよ。左の鼻毛なら左目。蝶形口蓋《ちようがたこうがい》神経節が左右それぞれにあって、局所的な刺激では片側のみの反射が起きるからなんだよ」
「へえ……。まあ、そのう、興味深いですね」
「だろ? 今度の論文でもっと掘りさげてみようと思うんだ」
美由紀はひそかにため息をついた。舎利弗は三十代後半、すでにベテランの域に達している臨床心理士だというのに、わたしの社交辞令に気づくようすさえない。うわべだけの作り笑いは、最も簡単に見抜ける感情だというのに。
「舎利弗先生。きょうは外の仕事ないの? 論文もいいけど、臨床の現場はもっと実になることに満ちていると思うけど」
「いやぁ、僕はここの留守番で充分だよ。知ってのとおり、人と会うのは苦手だからさ。美由紀はニンテンドーDS、持ってる?」
「いえ……」
「通信やると面白いよ。今度ソフト貸してあげるからさ……」
そのとき、奥の事務室の扉が開いて、顔見知りが姿を現した。
向こうも美由紀に気づき、満面の笑みを浮かべた。又吉光春ははしゃいだ声で駆け寄ってきた。「岬先生! いろいろご尽力いただきありがとうございました。おかげで精神病患者扱いを受けずに済みそうです」
「又吉さん……。ここにおいでだったんですか」
「ええ。徳永先生に呼ばれましてね。いやあ、心の健全さが証明されるというのは気分がいいものですねぇ。だいたい、国税局の人間というのはどうかしてますよ。意に沿わなかったら人格障害にしてしまおうなんて。連中こそ、いちど頭を診てもらったほうが……」
扉からでてきた国税局査察部の小平隆が、苦い顔で咳《せき》ばらいした。
「あなたの妄想と思いこんだのはわれわれの落ち度でした」と小平はいった。「ただし、その映画プロデューサーを装った男から受け取った金については、とりあえず一時所得として申告していただきますよ」
又吉の顔がこわばった。「い、一時所得……?」
「そうです。報酬等支払いということになるし、あなたの場合はご自身の経費もかかっておられないから、半分ぐらいは税金として納めていただくことになるが……」
「半分!? 千八百万円のうち、九百万? 嘘でしょ、そんなの」
「あいにく、私は本当のことしか口にしないのでね。岬先生も私が本気だと証明してくださるでしょう」
尋ねるような顔で又吉が美由紀を見つめてきた。
小平の表情を観察するまでもなく、税率のことは知っている。美由紀はうなずいた。
「そんな」又吉は頭を抱えた。「九百万が税金だなんて。もう使っちまって無いよ……。ローンも山ほど残ってるし……。頭がくらくらしてきた」
舎利弗が又吉にいった。「それは大変だな。カウンセリング受けたら?」
美由紀はこの場の混乱状態から逃れたかった。たしかめるべきは、彼らがなぜ今朝ここに呼びだされたかだ。
事務室のほうに足を運んだ。戸口から室内を覗《のぞ》きこむと、徳永と話しこんでいる岩国警部補の姿が見えた。
「おはようございます、警部補」と美由紀は告げて入室した。
「ああ、どうも。岬先生」岩国は硬い顔のままだった。「いま、又吉さんと国税局の小平さんへの説明を終えて、徳永先生に最後の確認をしてもらっていたところです。ミッドタウンタワーの三十一階には、たしかに不法侵入がありました。又吉さんの証言は、ほぼ事実と見て間違いないでしょう」
徳永は信じられないというように首を横に振った。「まったく、ありえないことだよ……。あれがすべて妄想でなく事実だったなんてね。暗証番号を手に入れたいばかりに、大金を投じて人をだますなんて。常識じゃ考えられない」
美由紀は岩国を見つめた。「すると、昨晩も不法侵入があったわけですね? 犯人は取り押さえたんですか?」
「まあ、それについてなんですが……。ゆうべ、刑事五人で張りこむことになって、三十一階のモリスンのオフィスに潜みました。むろんモリスン側の許可をもらってのことでしたがね。あなたのいったとおり、男が三人ほど、台車に乗った馬鹿でかい望遠鏡を運びこんできました。奴らが窓辺にそれを設置しようとしたとき、明かりをつけて確保しようとしたんです。時刻は、午前零時を少しまわったころでした」
「……それで? 男たちを逮捕したんでしょう?」
「いえ……。残念ながら、それは不可能でして」
「どうして? 現行犯なのに……」
「連中は大使館の外交官だったんです。中国のね。外交特権で不逮捕特権ってやつを持ってる。現認しておきながら、こっちは手も足もでないありさまで」
「そんな……。彼らがなにを企《たくら》んでいたのかもわからずじまいってこと?」
「取り調べることもできなかったのでね。その場で無罪放免ですよ。いちおう上に報告しましたが、領事関係に関するウィーン条約が存在している以上、どうにもなりません」
「でも中国大使館に抗議するぐらいは……」
岩国は首を横に振った。「いいですか、岬先生。あの一帯は全世界の縮図みたいなものです。ミッドタウンタワーを中心にして半径一・五キロ圏内に、四十もの大使館があるんです。互いの動向を探りあおうと目を光らせあっている。そして、旧防衛庁の跡地にいきなり三百メートル弱の超高層ビルが建ったんです。どの大使館もその高さから見張られることなど想定していなかったから、庭先は丸見えでね。当然、他国の大使館か領事館を監視するのにミッドタウンタワーはうってつけと、こういうわけです」
「それで、複雑な国際問題に首を突っこむことになりそうだから、放任すべきだと……」
「上の判断はそうです。われわれとしても従わざるをえません」
岩国は心底悔しそうにしていた。無理もないと美由紀は思った。これほど理不尽な法律がまかり通っていること自体、この世のふしぎにほかならない。
美由紀はつぶやいた。「当然、中国大使館を家宅捜索するのも不可能でしょうね」
「もちろん。公館は不可侵ですから」
「望遠鏡を運びこんだのは、どんな人たちだったの?」
「私と同じぐらいの年齢で、張《チヤン》とか遼《リヤン》とか呼びあってました。外交官とは名ばかり、監視や工作活動のために本国から調達した人員に決まってますよ」
「その人たちがどこを監視していたか、わからない?」
「元麻布あたりにレンズが向けられていたことはわかったんですが、正確には……。われわれが連中を取り押さえようとした寸前、望遠鏡の向きを変えましてね」
元麻布。
昨晩の出来事が美由紀の脳裏をかすめた。由愛香が入っていった中国大使館。住所は元麻布三丁目……。
自国の大使館を監視していたというのだろうか。それとも、目的はほかにあったのか。
徳永が岩国にきいた。「刑事さんたちが闇に身を潜めていたとき、その外交官らは望遠鏡を設置して、なにかの監視に入ったんでしょう? ヒントになる会話とか、聞かなかったんですか?」
「会話といっても、中国語だったので……。ああ、遼なる男が望遠鏡を覗きながら、携帯電話に数字を告げてました」
「数字?」と美由紀は岩国を見た。「どんな?」
「イー・リウ・アール・リウとか、イー・バー・ジー・ウーとか。ほかにもいろいろありましたが、ぜんぶイー、つまり一から始まる四ケタでしたよ」
1626に1875。なにかの暗号に違いない。
美由紀はふいにひとつの可能性に気づいた。
もしそうなら、由愛香をほうってはおけない。彼女が資産を失いつつあるのは、すべて何者かが意図したことに違いないからだ。