午後に入って、美由紀は一日の仕事の遅れを取り戻すために奔走した。目黒区の小学校にスクールカウンセリングに赴き、それが終わってから都立中央病院へ、そして臨床心理士会に戻って来週の精神科医師会との会合について説明を受けた。
本来の仕事に従事することは、徹夜明けの疲れをむしろ吹き飛ばし、好調さを取り戻すのにひと役買った。日没のころには、美由紀は昨晩味わった緊張をほぼ忘れることができていた。
それでも、ガヤルドを運転して帰路に着く途中、乃木坂付近に迫ると、由愛香のことがまた気になりだした。クルマを由愛香のマンションに差し向ける。
由愛香がアルファ8Cコンペティツィオーネを売ったあと、空いている彼女の駐車スペースにガヤルドを滑りこませて、美由紀はマンションのエントランスに向かおうとした。
そのとき、隣に停まっていたジャガーに乗ろうとしていた若い男が声をかけてきた。「ちょっと。ここはマンションの住人が契約してる駐車スペースですよ」
「……すみません。わたし、高遠由愛香の友達なんです」
「ああ、そうでしたか。五〇二号室の高遠さんに会いに来たんですか? 彼女、さっき出かけたみたいだけど」
不安がよぎる。美由紀はきいた。「外出したんですか?」
「ええ。僕が仕事から帰ったとき、廊下ですれ違ったんで……。着飾って、これからパーティーだって言ってましたよ。ロールスロイスが迎えに来るとかで……」
頭を殴られたような衝撃が美由紀を襲った。
「そ、それ、いつごろですか?」
「ええと。一時間ほど前かな」
美由紀はあわててガヤルドに乗りこんだ。エンジンをかけて、クルマを発進させる。
乃木坂から元麻布方面に走らせながら、美由紀はステアリングのボタンを操作して、持ちこんだ携帯電話をリモート操作した。ダッシュボードに電話帳が表示される。一覧から、木更津《きさらづ》飛行場を選びだした。
迷いが生じた。木更津飛行場とは日米安全保障条約上の施設名称で、陸上自衛隊の木更津駐屯地を指す。
ほとんど反射的に、援助を求めてこの番号にかけようとした。だが、自衛隊を辞めた立場で、しかもほとんどプライベートな問題に対し、非公式な頼みを現役隊員に申し入れていいものかどうか。
いや、これが国家の非常時であることに変わりはない。今夜もまた、大使館のカジノ・パーティーで日本の財産となる貴重な情報が担保とされ、中国政府の手にわたる可能性もある。日本円の流出も防がねばならない。
意を決してボタンを押した。ブルートゥースで無線接続され、ハンズフリーが構成される。呼び出し音がスピーカーから響き渡った。
やがて応答する声がした。「木更津駐屯地です」
「元航空自衛隊、二等空尉の岬美由紀です。第一ヘリコプター団の熊井恭介《くまいきようすけ》二等陸尉がおられましたら、お取り次ぎ願います」
「お待ちください」
美由紀は外苑《がいえん》西通りを南下する道を選んだが、行く手は渋滞していた。
苛立《いらだ》ちが募る。時は一刻を争う。こうしているあいだにも、由愛香はどんどん窮地に立たされていく。
「熊井です」耳に馴染《なじ》みのある男性の声が応じた。「美由紀か?」
「そうよ、熊井君。おひさしぶり」
「本当かよ、美由紀! 防衛大以来だな」
「ええ。卒業式の日に、久留米《くるめ》の幹部候補生学校に入るって聞かされて以来ね。でも第一ヘリコプター団にいるってことは知ってたわ」
「なんだよ。それならいつでも連絡してくれればいいのに。噂はよく聞いてるぜ? 辞めてからも無茶ばかりだってな」
「そうかもね。いまもよからぬ頼みをしようとしてるし……」
「おっと」熊井は声をひそめた。「今度はなにを企《たくら》んでるんだ? こないだも航空自衛隊の伊吹を振り回したりしたんだろ?」
「人聞きの悪い……。非常時だから仕方なかったの」
電話の向こうで豪快な笑い声が聞こえた。「それで、俺にはなんの用だ? まさか対戦車用にAH1Sコブラを一機調達しろっていうんじゃないだろうな」
「悪くないわね」
「おいおい、美由紀……」
「冗談よ。たしか木更津には訓練用のOH6Jがあったわよね?」
「ああ、整備が終わってるやつが格納庫にあるはずだ」
「飛ばしてくれない? いますぐに」
「簡単に言ってくれるな……。まあ、若いのを連れだして抜き打ちの夜間訓練をするって言えば許可も下りるかもしれないが、まだ約束はできないぞ。理由も聞いてないしな」
「あとで話すわ。緊急事態とだけは言っておく」
「……しょうがないな。昔から言いだしたら聞かない女だ」
「そうよ」
「じゃ、手をまわしてみるから待っててくれ。あとで連絡する」
「ありがとう、熊井君。またあとで」
電話が切れた。美由紀は深いため息をついた。
破滅への道を歩むつもりなの、由愛香。美由紀はつぶやく自分の声をきいた。
本来の仕事に従事することは、徹夜明けの疲れをむしろ吹き飛ばし、好調さを取り戻すのにひと役買った。日没のころには、美由紀は昨晩味わった緊張をほぼ忘れることができていた。
それでも、ガヤルドを運転して帰路に着く途中、乃木坂付近に迫ると、由愛香のことがまた気になりだした。クルマを由愛香のマンションに差し向ける。
由愛香がアルファ8Cコンペティツィオーネを売ったあと、空いている彼女の駐車スペースにガヤルドを滑りこませて、美由紀はマンションのエントランスに向かおうとした。
そのとき、隣に停まっていたジャガーに乗ろうとしていた若い男が声をかけてきた。「ちょっと。ここはマンションの住人が契約してる駐車スペースですよ」
「……すみません。わたし、高遠由愛香の友達なんです」
「ああ、そうでしたか。五〇二号室の高遠さんに会いに来たんですか? 彼女、さっき出かけたみたいだけど」
不安がよぎる。美由紀はきいた。「外出したんですか?」
「ええ。僕が仕事から帰ったとき、廊下ですれ違ったんで……。着飾って、これからパーティーだって言ってましたよ。ロールスロイスが迎えに来るとかで……」
頭を殴られたような衝撃が美由紀を襲った。
「そ、それ、いつごろですか?」
「ええと。一時間ほど前かな」
美由紀はあわててガヤルドに乗りこんだ。エンジンをかけて、クルマを発進させる。
乃木坂から元麻布方面に走らせながら、美由紀はステアリングのボタンを操作して、持ちこんだ携帯電話をリモート操作した。ダッシュボードに電話帳が表示される。一覧から、木更津《きさらづ》飛行場を選びだした。
迷いが生じた。木更津飛行場とは日米安全保障条約上の施設名称で、陸上自衛隊の木更津駐屯地を指す。
ほとんど反射的に、援助を求めてこの番号にかけようとした。だが、自衛隊を辞めた立場で、しかもほとんどプライベートな問題に対し、非公式な頼みを現役隊員に申し入れていいものかどうか。
いや、これが国家の非常時であることに変わりはない。今夜もまた、大使館のカジノ・パーティーで日本の財産となる貴重な情報が担保とされ、中国政府の手にわたる可能性もある。日本円の流出も防がねばならない。
意を決してボタンを押した。ブルートゥースで無線接続され、ハンズフリーが構成される。呼び出し音がスピーカーから響き渡った。
やがて応答する声がした。「木更津駐屯地です」
「元航空自衛隊、二等空尉の岬美由紀です。第一ヘリコプター団の熊井恭介《くまいきようすけ》二等陸尉がおられましたら、お取り次ぎ願います」
「お待ちください」
美由紀は外苑《がいえん》西通りを南下する道を選んだが、行く手は渋滞していた。
苛立《いらだ》ちが募る。時は一刻を争う。こうしているあいだにも、由愛香はどんどん窮地に立たされていく。
「熊井です」耳に馴染《なじ》みのある男性の声が応じた。「美由紀か?」
「そうよ、熊井君。おひさしぶり」
「本当かよ、美由紀! 防衛大以来だな」
「ええ。卒業式の日に、久留米《くるめ》の幹部候補生学校に入るって聞かされて以来ね。でも第一ヘリコプター団にいるってことは知ってたわ」
「なんだよ。それならいつでも連絡してくれればいいのに。噂はよく聞いてるぜ? 辞めてからも無茶ばかりだってな」
「そうかもね。いまもよからぬ頼みをしようとしてるし……」
「おっと」熊井は声をひそめた。「今度はなにを企《たくら》んでるんだ? こないだも航空自衛隊の伊吹を振り回したりしたんだろ?」
「人聞きの悪い……。非常時だから仕方なかったの」
電話の向こうで豪快な笑い声が聞こえた。「それで、俺にはなんの用だ? まさか対戦車用にAH1Sコブラを一機調達しろっていうんじゃないだろうな」
「悪くないわね」
「おいおい、美由紀……」
「冗談よ。たしか木更津には訓練用のOH6Jがあったわよね?」
「ああ、整備が終わってるやつが格納庫にあるはずだ」
「飛ばしてくれない? いますぐに」
「簡単に言ってくれるな……。まあ、若いのを連れだして抜き打ちの夜間訓練をするって言えば許可も下りるかもしれないが、まだ約束はできないぞ。理由も聞いてないしな」
「あとで話すわ。緊急事態とだけは言っておく」
「……しょうがないな。昔から言いだしたら聞かない女だ」
「そうよ」
「じゃ、手をまわしてみるから待っててくれ。あとで連絡する」
「ありがとう、熊井君。またあとで」
電話が切れた。美由紀は深いため息をついた。
破滅への道を歩むつもりなの、由愛香。美由紀はつぶやく自分の声をきいた。