夜明け前の東京ミッドタウン。蒼《あお》みがかった空の下、誰もいないその広大な芝生の上を、高遠由愛香はふらふらと歩いた。
足はなぜかガーデンテラスに向かっている。マルジョレーヌという店、わたしの店。とりあえずそこにたどり着きたい。落ち着きたい。
思考は働かなかった。なにも考えられない。
通報しようかという意志さえも生じなかった。警察なんかあてにはできない。大使館が相手では、どうすることもできない。
美由紀はみずからあの場所に残る道を選んだ。わたしは帰された。それでいいではないか。
さっさと日常に戻ろう。開店の準備を進めよう。
ところが、マルジョレーヌの前まで来たとき、うごめく人影があった。
「いたぞ」とスーツ姿の男がベンチから立ちあがった。「高遠さん。お話ししたいことがあるんですが」
迫ってくる数人の男たちは、いずれも顔見知りだった。借金の取り立て屋だ。
「高遠さん。きのう返済する約束だった三千万、入金ありませんでしたね。連絡も寄越さないとはどういう料簡《りようけん》ですか」
由愛香は後ずさった。自分の店にすら近づくことができないなんて。
いや、もうあれは、わたしの店ではないのだろう。
とっさに身を翻して、由愛香は走りだした。
「まて!」男たちの靴音があわただしくなった。騒音は背後に迫る。
ハイヒールでは走りにくい。由愛香は靴を脱ぎ捨てて、はだしで駆けだした。
ショッピングモールのガレリアからプラザ方面へと、タワーの膝下《ひざもと》を抜けていく。入り口はどこも閉まっている。飛びこめそうなところはない。
そのとき、傍らの路地から、女の声が飛んだ。「由愛香さん。こっち」
足をとめた。驚いたことに、雪村藍が手招きをしている。
迷っている暇はない。由愛香は藍のほうに走っていった。
「ついてきて」と藍は由愛香の手をとった。
階段を駆け降りて、路地裏のような狭い通路を抜ける。由愛香ですら知らなかった道だった。
息を弾ませながら由愛香はきいた。「藍。ここでなにしてるの? こんなに朝早く……」
「美由紀さんも由愛香さんも、連絡とれないんだもん。心配になってお店に来てみたら、なんだか怪しい人たちがうろつきまわってるし」
いきなり公道にでた。振りかえってミッドタウンタワーを見あげる。ちょうど裏手だ。ここには昔ながらの六本木の住宅街と、入り組んだ路地があった。
藍は停めてあった原付バイクに飛び乗った。「後ろに乗って」
由愛香はいわれるままに従った。
静まりかえった早朝の住宅街では、原付のエンジン音もけたたましく響く。連中に位置を教えているも同然だった。
バイクは走りだした。ちょうど路地に飛びだしてきた取り立て屋たちを、すんでのところでかわし、一目散に逃走した。
藍の身体を抱きしめながらも、由愛香は呆然《ぼうぜん》としていた。
流されるままに生きる人生。それがわたしだ。ぼんやりとそう思った。
足はなぜかガーデンテラスに向かっている。マルジョレーヌという店、わたしの店。とりあえずそこにたどり着きたい。落ち着きたい。
思考は働かなかった。なにも考えられない。
通報しようかという意志さえも生じなかった。警察なんかあてにはできない。大使館が相手では、どうすることもできない。
美由紀はみずからあの場所に残る道を選んだ。わたしは帰された。それでいいではないか。
さっさと日常に戻ろう。開店の準備を進めよう。
ところが、マルジョレーヌの前まで来たとき、うごめく人影があった。
「いたぞ」とスーツ姿の男がベンチから立ちあがった。「高遠さん。お話ししたいことがあるんですが」
迫ってくる数人の男たちは、いずれも顔見知りだった。借金の取り立て屋だ。
「高遠さん。きのう返済する約束だった三千万、入金ありませんでしたね。連絡も寄越さないとはどういう料簡《りようけん》ですか」
由愛香は後ずさった。自分の店にすら近づくことができないなんて。
いや、もうあれは、わたしの店ではないのだろう。
とっさに身を翻して、由愛香は走りだした。
「まて!」男たちの靴音があわただしくなった。騒音は背後に迫る。
ハイヒールでは走りにくい。由愛香は靴を脱ぎ捨てて、はだしで駆けだした。
ショッピングモールのガレリアからプラザ方面へと、タワーの膝下《ひざもと》を抜けていく。入り口はどこも閉まっている。飛びこめそうなところはない。
そのとき、傍らの路地から、女の声が飛んだ。「由愛香さん。こっち」
足をとめた。驚いたことに、雪村藍が手招きをしている。
迷っている暇はない。由愛香は藍のほうに走っていった。
「ついてきて」と藍は由愛香の手をとった。
階段を駆け降りて、路地裏のような狭い通路を抜ける。由愛香ですら知らなかった道だった。
息を弾ませながら由愛香はきいた。「藍。ここでなにしてるの? こんなに朝早く……」
「美由紀さんも由愛香さんも、連絡とれないんだもん。心配になってお店に来てみたら、なんだか怪しい人たちがうろつきまわってるし」
いきなり公道にでた。振りかえってミッドタウンタワーを見あげる。ちょうど裏手だ。ここには昔ながらの六本木の住宅街と、入り組んだ路地があった。
藍は停めてあった原付バイクに飛び乗った。「後ろに乗って」
由愛香はいわれるままに従った。
静まりかえった早朝の住宅街では、原付のエンジン音もけたたましく響く。連中に位置を教えているも同然だった。
バイクは走りだした。ちょうど路地に飛びだしてきた取り立て屋たちを、すんでのところでかわし、一目散に逃走した。
藍の身体を抱きしめながらも、由愛香は呆然《ぼうぜん》としていた。
流されるままに生きる人生。それがわたしだ。ぼんやりとそう思った。
いくらか時間が過ぎた。
由愛香がふと気づくと、原付は減速し、停車するところだった。
そこは古い家の建ち並ぶ住宅地の生活道路だった。坂が多く、しかも角度は急だった。
「降りて」と藍がいった。
原付を降りると、藍もバイクを押して坂を昇りだした。
やがて、その坂道沿いにある二階建てのアパートに、藍は近づいていった。
「ここは?」と由愛香がきいた。
「わたしの住んでる部屋」
「へえ」由愛香は純粋に感心していった。「なるほど、ここなら見つかりっこないわね。わたしみたいな人間が、こんな家賃の安そうなアパートがある一帯に向かったなんて、あいつらも夢にも思わないでしょうから」
藍が足をとめ、振りかえった。
一瞬のことだった。藍は平手で由愛香の頬を張った。
電気のような痛みが走る。かなりの力をこめたようだ。
だが藍の憤りは、それでおさまったわけではなさそうだった。
怒りに燃える目で見つめながら、藍がきいてきた。「なにがあったか教えてくれる?」
由愛香がふと気づくと、原付は減速し、停車するところだった。
そこは古い家の建ち並ぶ住宅地の生活道路だった。坂が多く、しかも角度は急だった。
「降りて」と藍がいった。
原付を降りると、藍もバイクを押して坂を昇りだした。
やがて、その坂道沿いにある二階建てのアパートに、藍は近づいていった。
「ここは?」と由愛香がきいた。
「わたしの住んでる部屋」
「へえ」由愛香は純粋に感心していった。「なるほど、ここなら見つかりっこないわね。わたしみたいな人間が、こんな家賃の安そうなアパートがある一帯に向かったなんて、あいつらも夢にも思わないでしょうから」
藍が足をとめ、振りかえった。
一瞬のことだった。藍は平手で由愛香の頬を張った。
電気のような痛みが走る。かなりの力をこめたようだ。
だが藍の憤りは、それでおさまったわけではなさそうだった。
怒りに燃える目で見つめながら、藍がきいてきた。「なにがあったか教えてくれる?」