藍にとって舎利弗浩輔という人物は、臨床心理士として美由紀の先輩にあたるが、髭面《ひげづら》で小太りのどこか熊を思わせる、おっとりとした性格の男という印象でしかなかった。本郷の臨床心理士会事務局でも、いつも留守番をしていて、たいていなにか甘いものを食べている。控えめで上品な印象はあるが、あまり意識したことはなかった。連絡をとることになるなど、夢にも思わなかった。
だが、舎利弗の電話番号は藍の携帯の履歴に残っていた。彼がいつも美由紀の職場の留守番をしている関係上、美由紀の居場所を折り返し連絡してくれた際に、携帯電話が使われたことも頻繁にあったからだ。
電話にでた舎利弗は眠そうな声で応対したが、藍が状況を伝えるうちに目が覚めたようだった。
舎利弗はいった。「と、とにかく、どこかで落ち合おう。ええと、クルマかい? ずっと運転したことはなかったけど、いちおう免許は持ってるから……。臨床心理士会のクルマなら、借りられるよ。ガレージの鍵《かぎ》もあるし、ええと、いや、あったかな。あった。じゃ、本郷三丁目駅まで来てくれると嬉《うれ》しいんだけど」
藍は礼を言ったが、たちまち不安な気持ちになった。救いを求めるには、あまりにも頼りない人ではなかろうか。
けれども、その危惧《きぐ》は舎利弗がまわしてきたクルマに同乗するまでだった。
クルマが走りだしてすぐ、舎利弗は運転しながら告げてきた。「高速に乗るよ。湾岸線を東に行くより、アクアラインを使ったほうが早いかな」
「え? どこに行くかわかってるの?」
「もちろん。美由紀はいい情報をくれたよ。路線図の入った地図を見れば一目|瞭然《りようぜん》だ。上野から九十キロメートルほどの距離で右に海となれば、まず内房《うちぼう》線しか考えられない。たぶん|姉ケ崎《あねがさき》駅と|袖ケ浦《そでがうら》駅間にある貨物専用の引き込み線だ。袖ケ浦市の過疎地帯に、レールのほとんどが放置されたままの操車場跡がある」
意外に頼りになる。藍は感心していった。「臨床心理士の人って、やっぱり頭いいんですね。美由紀さんもそうだけど、専門外のこともすぐに学習できるなんて」
「そうでもないんだよ。鉄道には昔から興味があってさ。あのあたりにも電車の写真撮りに出かけたし……。Nゲージって知ってる? 小湊《こみなと》鉄道線の赤と黄いろの車体って、鉄道模型のなかでもマニアックな人気を集めてるんだけど」
「……いえ。……あまりしらないから」
「そう。……警笛が特徴あるんだよね。ポッポ、ポーって」
藍は呆《あき》れて口をつぐんだ。感心したのはわたしの早とちりだったかもしれない。
だが、舎利弗の電話番号は藍の携帯の履歴に残っていた。彼がいつも美由紀の職場の留守番をしている関係上、美由紀の居場所を折り返し連絡してくれた際に、携帯電話が使われたことも頻繁にあったからだ。
電話にでた舎利弗は眠そうな声で応対したが、藍が状況を伝えるうちに目が覚めたようだった。
舎利弗はいった。「と、とにかく、どこかで落ち合おう。ええと、クルマかい? ずっと運転したことはなかったけど、いちおう免許は持ってるから……。臨床心理士会のクルマなら、借りられるよ。ガレージの鍵《かぎ》もあるし、ええと、いや、あったかな。あった。じゃ、本郷三丁目駅まで来てくれると嬉《うれ》しいんだけど」
藍は礼を言ったが、たちまち不安な気持ちになった。救いを求めるには、あまりにも頼りない人ではなかろうか。
けれども、その危惧《きぐ》は舎利弗がまわしてきたクルマに同乗するまでだった。
クルマが走りだしてすぐ、舎利弗は運転しながら告げてきた。「高速に乗るよ。湾岸線を東に行くより、アクアラインを使ったほうが早いかな」
「え? どこに行くかわかってるの?」
「もちろん。美由紀はいい情報をくれたよ。路線図の入った地図を見れば一目|瞭然《りようぜん》だ。上野から九十キロメートルほどの距離で右に海となれば、まず内房《うちぼう》線しか考えられない。たぶん|姉ケ崎《あねがさき》駅と|袖ケ浦《そでがうら》駅間にある貨物専用の引き込み線だ。袖ケ浦市の過疎地帯に、レールのほとんどが放置されたままの操車場跡がある」
意外に頼りになる。藍は感心していった。「臨床心理士の人って、やっぱり頭いいんですね。美由紀さんもそうだけど、専門外のこともすぐに学習できるなんて」
「そうでもないんだよ。鉄道には昔から興味があってさ。あのあたりにも電車の写真撮りに出かけたし……。Nゲージって知ってる? 小湊《こみなと》鉄道線の赤と黄いろの車体って、鉄道模型のなかでもマニアックな人気を集めてるんだけど」
「……いえ。……あまりしらないから」
「そう。……警笛が特徴あるんだよね。ポッポ、ポーって」
藍は呆《あき》れて口をつぐんだ。感心したのはわたしの早とちりだったかもしれない。
高速を降りてから、蛇行する山道のなかを抜けていき、荒涼とした草むらのなかに広がる操車場跡地が見えてきた。
「あ」舎利弗が声をあげた。「あれじゃないか?」
あぜ道同然の道路の行く手に、電柱にもたれかかるようにして座りこんだ女の姿がある。
一見して美由紀とわかった。藍はあわてていった。「停めて!」
クルマが停止するや、藍は飛びだした。駆け寄りながら呼びかけた。「美由紀さん!」
美由紀は無反応だった。ぐったりとして、やつれ果てたそのようすは、ゴミ捨て場に投げだされた人形のようだった。
近づいて、肩にそっと手をかける。「美由紀さん。無事なの。しっかりして」
しばらくして、美由紀が顔をあげた。
藍は息を呑《の》んだ。ひどく殴打されたのか、美由紀の顔は無残に腫《は》れあがり、あちこちに痣《あざ》ができている。
自然に涙がこぼれた。藍は震える自分の声をきいた。「どうしてこんな目に……美由紀さん」
「……心配しないで」美由紀は力なくつぶやいた。「生きて会えたんだから……。希望はあるわ……」
「あ」舎利弗が声をあげた。「あれじゃないか?」
あぜ道同然の道路の行く手に、電柱にもたれかかるようにして座りこんだ女の姿がある。
一見して美由紀とわかった。藍はあわてていった。「停めて!」
クルマが停止するや、藍は飛びだした。駆け寄りながら呼びかけた。「美由紀さん!」
美由紀は無反応だった。ぐったりとして、やつれ果てたそのようすは、ゴミ捨て場に投げだされた人形のようだった。
近づいて、肩にそっと手をかける。「美由紀さん。無事なの。しっかりして」
しばらくして、美由紀が顔をあげた。
藍は息を呑《の》んだ。ひどく殴打されたのか、美由紀の顔は無残に腫《は》れあがり、あちこちに痣《あざ》ができている。
自然に涙がこぼれた。藍は震える自分の声をきいた。「どうしてこんな目に……美由紀さん」
「……心配しないで」美由紀は力なくつぶやいた。「生きて会えたんだから……。希望はあるわ……」