美由紀にとって、舎利弗のマンションの部屋を訪れたのは初めてのことだった。
藍に支えられながら、おぼつかない足をひきずって部屋に転がりこんだのは、二時間ほど前のことだ。
僕のベッドに寝かせろ、と舎利弗がいったとき、藍が妙な顔をして舎利弗を見返したことは覚えている。舎利弗はあわてたように、僕はソファで寝るんだよ、とつけくわえていた。
それからしばらく記憶が途絶え、気づいたときには、舎利弗の知り合いの眼科医である島崎《しまざき》が来ていた。
島崎は、美由紀が臨床心理士として何度か出向したことのある大学病院の眼科に勤務していて、舎利弗が個人的に呼んだらしかった。舎利弗はまだ事情をすべて把握していないだろうが、警察には通報すべきでないと判断してくれたらしい。
仰向《あおむ》けに寝た美由紀の目をペンライトで照らし、のぞきこみながら、島崎はいった。「こりゃひどいな。視神経に壊死《えし》している部分がある」
「治るかな」と舎利弗が近くに立ってきいた。
「わからんな……。回復は困難だろう。視力には異常なさそうだが……」
「問題は動体視力だよ」
「動体視力ってのは、一種の反射神経だ。水平方向の移動を識別するDVA動体視力と、前後方向を識別するKVA動体視力がある。DVAのほうは眼球の横移動、KVAのほうは焦点で調整し対象を捉《とら》えるってことだな。網膜神経回路網がダメージを受けてるから、とりわけKVA動体視力の反応が鈍ってる」
美由紀は必死で声を絞りだした。「動体視力は……訓練で向上するはずでしょ。昔、自衛隊でもそうしたんだし……」
「いや」と島崎は首を横に振った。「それは目に異常がなかったころの話だ。いま無理をしたら、視神経に炎症が起きる可能性もある。視力低下や視野|狭窄《きようさく》をきたし、悪くすれば失明に至る」
舎利弗がため息をついていった。「美由紀。いまの聞いたろ? 以前のように、半ば無意識のうちにも動体視力を働かせて相手の表情筋を読もうとするのは、それ自体が危険な行為だってことだ」
「そんな……」
島崎は診療用の道具をカバンにしまいこんだ。「外科手術でどうなるものでもないし、治療薬もない。とにかく安静にすることだよ。しばらくのあいだはテレビも観ないほうがいいし、本も読むべきじゃない。部屋を暗くして、目を休ませることだ」
身体を起こした島崎に、舎利弗が告げた。「どうもありがとうございます、島崎先生。あ、このことについては……」
「わかってる。誰に聞かれても、岬美由紀さんとはしばらく会っていないと答えるよ」
「助かります。ではまた……」
お大事に。そういい残して、島崎は部屋をでていった。
フィギュアやプラモデル、映画のポスターに彩られた舎利弗の部屋。まるで男子高校生が住んでいるかのようなその室内で、美由紀はただぼんやりと天井を見つめていた。
「舎利弗先生」美由紀はつぶやいた。「藍は……?」
「会社に行ったよ。退社時間になったらまたすぐ飛んでくるって、そういってた」
「由愛香は……」
「彼女は……さあ。雪村さんの家に隠れたままじゃないかな……。たぶん彼女も追われる身だから……」
追われる身。由愛香にもまだ安堵《あんど》は訪れていない。
ふいに悲しみがこみあげてきた。美由紀は泣きながらいった。「わたしがいけなかった。あんな無謀な勝負を挑むべきじゃなかった。ほかに方法があったはずなのに……」
「落ち着いて。きみはよくやったよ。ひとまず由愛香さんも助かったじゃないか」
「いいえ!」涙が溢《あふ》れたとき、目に染みるような痛みが走った。それでも泣くことは止められなかった。「わたしはひどい人間だわ……。国家の安全にかかわる秘密を……。なによりも大事な国家機密をばらしてしまった。自衛隊法に反しているどころか、これで日本は周辺国にいつ侵略されてもおかしくない状況になった」
「そんなに感情を昂《たか》ぶらせるなよ。その話なら、雪村さんから聞いたよ。彼女も高遠さんから聞いたみたいだけど……。とにかく、それが重要なことなら、防衛省のほうに連絡をして……」
「駄目よ。そんなことはできない。防衛統合司令本局は表向き存在しないことになってるし、場所の発覚を前提とした対処法なんて用意されてない。再移転なんて莫大《ばくだい》な費用がかかるし、だいいち、それも現在の住所がわかっている以上、監視されたら移転先もまた判明しちゃうし……。どうすることもできないの。なにがあっても守りとおさなきゃならない秘密だったのに……。国民にすら打ち明けられていない最重要機密だったのに……」
「だからそれは、きみのせいじゃないよ。きみはまず真っ先に目の前にいた友人を助けようとしたんだ。その国家機密というのも故意にばらそうとしたわけじゃなかった。結果的にこうなってしまったけど、それは不可抗力というものだよ」
「そうじゃないわ……。わたしの判断ミスと、能力のなさが原因なのよ。もうわからない。どうしていいのかわからないよ……。あいつらに好き勝手にされて……なにもかも失って、この国すら危険な状態に陥れてる。わたしは売国奴よ。どうしようもない女よ……」
「違うんだよ。それは違う。きみは勇気ある人だよ。希望を捨てるな。諦《あきら》めるのはまだ早い」
「そんなこといっても……。防衛統合司令本局が破壊されたら、日本は無防備に……」
「冷静に考えてみなよ。僕も素人だから、そういう話は雑誌で読むぐらいしか知らないし、ミリタリー系にはあまり興味がないから知識もないけどさ……。そこが防衛の拠点だとわかったからって、いきなり中国がミサイル攻撃してくるかい? そんなの、安保条約に従って米中が戦争状態になるだけだろ?」
「戦争にならなくても、日本は中国に弱みを握られたも同然になる。対中国の国力を一気に低下させることにつながる……」
「ああ、そうか。そういう懸念もあるよね。けど、中国政府もその情報を鵜呑《うの》みにするわけじゃないだろ? 情報の信憑《しんぴよう》性が確認されるまで、少し時間がかかるんじゃないか?」
「確認ならとっくに、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]の手下が……」
「それは大使館に巣食う一味による確認だろ? そいつらが政府に情報を売ろうったって、事実だと証明するには日数がかかる。その蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]ってのが、大使や中国政府に黙ってカジノの金を横領着服しているならなおさらさ。そこで借金のカタに取りあげた情報だなんて報告できるわけがない」
美由紀は舎利弗の仮説について吟味しようとしたが、頭は働かなかった。思考が鈍い。疲労も押し寄せてくる。
「わからない……。わたしには……」
「いまは休むことだよ。あわてたところで、どうなるものでもないから」
目を閉じて、深いため息をつく。どうなるものでもない。そのひとことが胸に突き刺さった。
藍に支えられながら、おぼつかない足をひきずって部屋に転がりこんだのは、二時間ほど前のことだ。
僕のベッドに寝かせろ、と舎利弗がいったとき、藍が妙な顔をして舎利弗を見返したことは覚えている。舎利弗はあわてたように、僕はソファで寝るんだよ、とつけくわえていた。
それからしばらく記憶が途絶え、気づいたときには、舎利弗の知り合いの眼科医である島崎《しまざき》が来ていた。
島崎は、美由紀が臨床心理士として何度か出向したことのある大学病院の眼科に勤務していて、舎利弗が個人的に呼んだらしかった。舎利弗はまだ事情をすべて把握していないだろうが、警察には通報すべきでないと判断してくれたらしい。
仰向《あおむ》けに寝た美由紀の目をペンライトで照らし、のぞきこみながら、島崎はいった。「こりゃひどいな。視神経に壊死《えし》している部分がある」
「治るかな」と舎利弗が近くに立ってきいた。
「わからんな……。回復は困難だろう。視力には異常なさそうだが……」
「問題は動体視力だよ」
「動体視力ってのは、一種の反射神経だ。水平方向の移動を識別するDVA動体視力と、前後方向を識別するKVA動体視力がある。DVAのほうは眼球の横移動、KVAのほうは焦点で調整し対象を捉《とら》えるってことだな。網膜神経回路網がダメージを受けてるから、とりわけKVA動体視力の反応が鈍ってる」
美由紀は必死で声を絞りだした。「動体視力は……訓練で向上するはずでしょ。昔、自衛隊でもそうしたんだし……」
「いや」と島崎は首を横に振った。「それは目に異常がなかったころの話だ。いま無理をしたら、視神経に炎症が起きる可能性もある。視力低下や視野|狭窄《きようさく》をきたし、悪くすれば失明に至る」
舎利弗がため息をついていった。「美由紀。いまの聞いたろ? 以前のように、半ば無意識のうちにも動体視力を働かせて相手の表情筋を読もうとするのは、それ自体が危険な行為だってことだ」
「そんな……」
島崎は診療用の道具をカバンにしまいこんだ。「外科手術でどうなるものでもないし、治療薬もない。とにかく安静にすることだよ。しばらくのあいだはテレビも観ないほうがいいし、本も読むべきじゃない。部屋を暗くして、目を休ませることだ」
身体を起こした島崎に、舎利弗が告げた。「どうもありがとうございます、島崎先生。あ、このことについては……」
「わかってる。誰に聞かれても、岬美由紀さんとはしばらく会っていないと答えるよ」
「助かります。ではまた……」
お大事に。そういい残して、島崎は部屋をでていった。
フィギュアやプラモデル、映画のポスターに彩られた舎利弗の部屋。まるで男子高校生が住んでいるかのようなその室内で、美由紀はただぼんやりと天井を見つめていた。
「舎利弗先生」美由紀はつぶやいた。「藍は……?」
「会社に行ったよ。退社時間になったらまたすぐ飛んでくるって、そういってた」
「由愛香は……」
「彼女は……さあ。雪村さんの家に隠れたままじゃないかな……。たぶん彼女も追われる身だから……」
追われる身。由愛香にもまだ安堵《あんど》は訪れていない。
ふいに悲しみがこみあげてきた。美由紀は泣きながらいった。「わたしがいけなかった。あんな無謀な勝負を挑むべきじゃなかった。ほかに方法があったはずなのに……」
「落ち着いて。きみはよくやったよ。ひとまず由愛香さんも助かったじゃないか」
「いいえ!」涙が溢《あふ》れたとき、目に染みるような痛みが走った。それでも泣くことは止められなかった。「わたしはひどい人間だわ……。国家の安全にかかわる秘密を……。なによりも大事な国家機密をばらしてしまった。自衛隊法に反しているどころか、これで日本は周辺国にいつ侵略されてもおかしくない状況になった」
「そんなに感情を昂《たか》ぶらせるなよ。その話なら、雪村さんから聞いたよ。彼女も高遠さんから聞いたみたいだけど……。とにかく、それが重要なことなら、防衛省のほうに連絡をして……」
「駄目よ。そんなことはできない。防衛統合司令本局は表向き存在しないことになってるし、場所の発覚を前提とした対処法なんて用意されてない。再移転なんて莫大《ばくだい》な費用がかかるし、だいいち、それも現在の住所がわかっている以上、監視されたら移転先もまた判明しちゃうし……。どうすることもできないの。なにがあっても守りとおさなきゃならない秘密だったのに……。国民にすら打ち明けられていない最重要機密だったのに……」
「だからそれは、きみのせいじゃないよ。きみはまず真っ先に目の前にいた友人を助けようとしたんだ。その国家機密というのも故意にばらそうとしたわけじゃなかった。結果的にこうなってしまったけど、それは不可抗力というものだよ」
「そうじゃないわ……。わたしの判断ミスと、能力のなさが原因なのよ。もうわからない。どうしていいのかわからないよ……。あいつらに好き勝手にされて……なにもかも失って、この国すら危険な状態に陥れてる。わたしは売国奴よ。どうしようもない女よ……」
「違うんだよ。それは違う。きみは勇気ある人だよ。希望を捨てるな。諦《あきら》めるのはまだ早い」
「そんなこといっても……。防衛統合司令本局が破壊されたら、日本は無防備に……」
「冷静に考えてみなよ。僕も素人だから、そういう話は雑誌で読むぐらいしか知らないし、ミリタリー系にはあまり興味がないから知識もないけどさ……。そこが防衛の拠点だとわかったからって、いきなり中国がミサイル攻撃してくるかい? そんなの、安保条約に従って米中が戦争状態になるだけだろ?」
「戦争にならなくても、日本は中国に弱みを握られたも同然になる。対中国の国力を一気に低下させることにつながる……」
「ああ、そうか。そういう懸念もあるよね。けど、中国政府もその情報を鵜呑《うの》みにするわけじゃないだろ? 情報の信憑《しんぴよう》性が確認されるまで、少し時間がかかるんじゃないか?」
「確認ならとっくに、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]の手下が……」
「それは大使館に巣食う一味による確認だろ? そいつらが政府に情報を売ろうったって、事実だと証明するには日数がかかる。その蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]ってのが、大使や中国政府に黙ってカジノの金を横領着服しているならなおさらさ。そこで借金のカタに取りあげた情報だなんて報告できるわけがない」
美由紀は舎利弗の仮説について吟味しようとしたが、頭は働かなかった。思考が鈍い。疲労も押し寄せてくる。
「わからない……。わたしには……」
「いまは休むことだよ。あわてたところで、どうなるものでもないから」
目を閉じて、深いため息をつく。どうなるものでもない。そのひとことが胸に突き刺さった。