第一ヘリコプター団の熊井恭介二等陸尉は、木更津駐屯地の食堂に向かう通路を歩いていた。CH47の整備も終わった。午後からは第四対戦車ヘリコプター隊との演習だ。
背後から声が飛んだ。「熊井二尉」
とっさに身体が反応する。立ちどまり、姿勢を正して敬礼した。
上官の白鷺《しらさぎ》一等陸尉が足ばやに近づいてくる。「昨晩、部下に夜間の抜き打ち訓練をおこなったそうだが」
「はい。ホバーリング技術に問題のある者がおりまして、訓練空域にて実施いたしました」
「訓練空域……ふうん」白鷺は疑わしそうな顔をした。「ところで、熊井。岬美由紀元二等空尉とは、最近会ったか?」
「いえ……。彼女がなにか?」
「業務隊によれば、昨晩、おまえに岬元二尉からの電話を取り次いだそうだが」
「は、はい。電話だけなら」
「なんの話をした?」
「べつに、そのう、ひさしぶりに会って食事をしようかとか……」
「おまえが食事に誘われた? 信じがたいな。岬元二尉といえば相当な美人だ、おまえなんか相手にするかな」
熊井は苦笑した。「防衛大では友人でしたので……」
「ふん、まあいい。さっき内局の人事教育局長から連絡が入ったらしくてな。岬元二尉が昨夜、中国大使館に入ったという噂があるらしい」
「中国大使館?」熊井はひやりとした。「そ、それは問題ですね」
「自衛隊員は、自衛隊員倫理法第三条で共産圏への渡航も制限されてる。彼女は除隊した身だが、大使館内は外国と同じだ。安易な行動は慎んでもらわねばならない。そこで、きのう電話を受けたおまえなら、なにか知ってるんではと思ってな」
「私はなにも存じあげませんが」
「……そうか、ならいい。じつは、彼女についてはほかにも気になることがあってな」
「とおっしゃると?」
「岬元二尉の銀行口座にあった全額が引きだされている。噂が本当だとするのなら、大使館に行く前に、彼女自身がそうしたらしい。それに、中国の公的機関から日本の法律事務所経由で、彼女の資産の差し押さえが始まっている。彼女が借りていたマンションのなかの家財道具一式や、所有するクルマやバイク数台。すべてだそうだ」
「なんですって? どうしてそんなことに?」
「わからん。彼女の署名|捺印《なついん》の入った財産の譲渡書があるため、誰も制止できないということだ。元国家公務員が財産すべてを中国に……。亡命の準備とみるのが自然だろう」
「まさか。彼女に限って亡命だなんて……」
「とにかく、上層部は一刻も早く彼女に会って事情を聞きたがっている。おまえのもとに連絡があったら、ただちに知らせろ。いいな」
「はい……」
歩き去る白鷺を見送りながら、熊井はただならぬ不安を覚えた。
なにが起きたというんだ、美由紀。ヘリのホバーリングで監視を妨害したあと、連中に何をされたんだ。
背後から声が飛んだ。「熊井二尉」
とっさに身体が反応する。立ちどまり、姿勢を正して敬礼した。
上官の白鷺《しらさぎ》一等陸尉が足ばやに近づいてくる。「昨晩、部下に夜間の抜き打ち訓練をおこなったそうだが」
「はい。ホバーリング技術に問題のある者がおりまして、訓練空域にて実施いたしました」
「訓練空域……ふうん」白鷺は疑わしそうな顔をした。「ところで、熊井。岬美由紀元二等空尉とは、最近会ったか?」
「いえ……。彼女がなにか?」
「業務隊によれば、昨晩、おまえに岬元二尉からの電話を取り次いだそうだが」
「は、はい。電話だけなら」
「なんの話をした?」
「べつに、そのう、ひさしぶりに会って食事をしようかとか……」
「おまえが食事に誘われた? 信じがたいな。岬元二尉といえば相当な美人だ、おまえなんか相手にするかな」
熊井は苦笑した。「防衛大では友人でしたので……」
「ふん、まあいい。さっき内局の人事教育局長から連絡が入ったらしくてな。岬元二尉が昨夜、中国大使館に入ったという噂があるらしい」
「中国大使館?」熊井はひやりとした。「そ、それは問題ですね」
「自衛隊員は、自衛隊員倫理法第三条で共産圏への渡航も制限されてる。彼女は除隊した身だが、大使館内は外国と同じだ。安易な行動は慎んでもらわねばならない。そこで、きのう電話を受けたおまえなら、なにか知ってるんではと思ってな」
「私はなにも存じあげませんが」
「……そうか、ならいい。じつは、彼女についてはほかにも気になることがあってな」
「とおっしゃると?」
「岬元二尉の銀行口座にあった全額が引きだされている。噂が本当だとするのなら、大使館に行く前に、彼女自身がそうしたらしい。それに、中国の公的機関から日本の法律事務所経由で、彼女の資産の差し押さえが始まっている。彼女が借りていたマンションのなかの家財道具一式や、所有するクルマやバイク数台。すべてだそうだ」
「なんですって? どうしてそんなことに?」
「わからん。彼女の署名|捺印《なついん》の入った財産の譲渡書があるため、誰も制止できないということだ。元国家公務員が財産すべてを中国に……。亡命の準備とみるのが自然だろう」
「まさか。彼女に限って亡命だなんて……」
「とにかく、上層部は一刻も早く彼女に会って事情を聞きたがっている。おまえのもとに連絡があったら、ただちに知らせろ。いいな」
「はい……」
歩き去る白鷺を見送りながら、熊井はただならぬ不安を覚えた。
なにが起きたというんだ、美由紀。ヘリのホバーリングで監視を妨害したあと、連中に何をされたんだ。
日が暮れたことは、カーテンの隙間から漏れる陽の光がなくなったことで気づいた。
美由紀は舎利弗のマンションの部屋で、一日じゅう寝ていた。
目の痛みはなくなってきたが、動体視力についてはあいかわらずだ。眼球運動の反応が鈍いのを感じる。医師に制止されてトレーニングもできない。
表情から感情を読むことができる技能ともお別れか。
舎利弗はキッチンのほうで、夕食をこしらえている。フライパンでなにかを炒《いた》めている音がする。
きょう、彼は仕事を休んだようだ。わたしは人に迷惑ばかりかけている。いつまでも、ここに世話になっているわけにはいかない。
とはいえ、どうすればいいのだろう。助けを求められるところはどこにもない。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。はい、と舎利弗が出ていく。
こんばんは、という藍の声がする。舎利弗が応じる。ああ、雪村さん。どうぞ、あがって。
藍が室内に入ってきた。会社帰りらしく、スーツを着ている。「美由紀。だいじょうぶ?」
「ええ」美由紀はつぶやきながら、藍の肩越しに由愛香の姿を見た。
由愛香は気まずそうに視線を逸《そ》らしながら、戸口にたたずんでいる。
藍が美由紀を気遣うように告げてきた。「由愛香さん、どうしても来たいっていうから……。美由紀が会いたくないんだったら、すぐに出てってもらうから……」
「いえ。いいのよ。由愛香。無事だった? 怪我はない?」
だが由愛香は、視線を逸らしたままだった。
辛《つら》そうな顔をしているが、やはり本心は見えてこない。
「ねえ、それよりさ」藍はハンドバッグから、小さくたたんだ新聞を取りだした。「夕刊に気になる記事が出てるんだけど」
美由紀は身体を起こそうとした。「見せて」
「だめ。美由紀さんは目を休ませなきゃならないんでしょ。わたしが読みあげるから。ええと、中国共産党、全国代表大会の、中央委員会全体会議……説明が長いね。呉欣蔚《ウーシンウエイ》って人知ってる?」
「名前だけは……。政治局常務委員の九人のうちのひとり。共産党の最高指導部だから、総書記に次ぐ政府の実力者ね」
「さすが。で、その呉さんが緊急来日を申しいれてきて、日本政府もこれを了承したって」
「来日?」
「経済と産業貿易について理解を深めるべく、三菱《みつびし》グループの各企業や工場などを訪問する予定。来日期間中は帝国ホテルに滞在、中国大使館の親善パーティーにも出席するという」
エプロンをつけた舎利弗が部屋に入ってきた。「それはたぶん、情報を確かめに来るんじゃないのか? 美由紀から聞きだした、そのう、防衛の拠点の住所ってのを……」
美由紀は目を閉じた。
「ありうる……」と美由紀はいった。「そうでなきゃ、この時期に緊急来日するはずがない。三菱の工場を見学するなんて、ただの見せかけでしかない。防衛統合司令本局の所在地に関する情報の真偽を、確認するために来た。そうとしか考えられないわ」
「それなら、ちょうどいい」舎利弗はいった。「その呉さんって人に訴えればいいじゃないか。大使館にいた蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]って奴から脅された、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]はカジノの収益をたぶん自分の懐に入れてるって」
「そんなの……無理よ」
「どうして? いくらなんでもこんなヤクザまがいのやり方、中国政府が指導してるわけじゃないだろ?」
「それはそうだろうけど、政治局常務委員に接触なんてできっこない。アメリカの大統領並みに身辺警護されてるし、大物すぎるわ。訪問した国の一般市民の訴えを聞くなんて……。あ、でも……」
「何?」
「あくまで噂だけど……。共産党のトップクラスの党員は、日本や韓国の国内に個人的な情報屋を持っていると聞いたことがあるの。�國家告密的人�っていうらしいんだけど、なにしろ世界最大の党員数を誇る巨大な政府だから、情報の真偽をたしかめるにも手間がかかるらしくてね。だから在日中国人の家系に代々、伝承される國家告密的人という副業があって、彼らからの密告なら幹部も直接、耳を傾けるそうなの。それで現地の生の情報を得ようということなのね」
藍がだしぬけに甲高い声をあげた。「それいいじゃん」
「いいって、なにが……?」
「舎利弗さんがその國家告密的人だって言って、呉さんとやらに会えばいいってこと。会ってから正直に打ち明けるか、それとも最後まで國家告密的人だと偽って、大使館の不祥事を密告するか……。ま、どっちにするかは流れしだい。それでいいじゃない?」
「まさか……そんな危険なこと……」
「いや」舎利弗が真顔でつぶやいた。「それしか方法がないのなら、僕は喜んで協力するよ」
「舎利弗先生……」
ふいに由愛香が口をきいた。「ばっかじゃないの。そんなの、うまくいくわけないじゃない」
藍はふくれっ面をした。「やってみなきゃわからないじゃん」
「でも失敗したときにはどうなると思う? 今度こそ生きて帰れないかもしれないのよ」
「ふん。裏切り者は黙っててよ。なにさ、美由紀さんをこんな目に遭わせて。人間のクズ」
美由紀は耐え難い気分になった。
「やめてよ」美由紀は震える声で訴えた。「やめて。喧嘩《けんか》も、それに、無茶なことも……」
また涙が溢《あふ》れだす。視界はぼやけ、波打った。
室内に沈黙が訪れ、自分の嗚咽《おえつ》だけが聞こえる。
これ以上、友達を危険に晒《さら》したくない。みずから動くことができずにいるのが悔しかった。わたしは卑怯者《ひきようもの》だ、美由紀はそう思った。国を売っておきながら、フトンにくるまって震えることしかできないなんて。
美由紀は舎利弗のマンションの部屋で、一日じゅう寝ていた。
目の痛みはなくなってきたが、動体視力についてはあいかわらずだ。眼球運動の反応が鈍いのを感じる。医師に制止されてトレーニングもできない。
表情から感情を読むことができる技能ともお別れか。
舎利弗はキッチンのほうで、夕食をこしらえている。フライパンでなにかを炒《いた》めている音がする。
きょう、彼は仕事を休んだようだ。わたしは人に迷惑ばかりかけている。いつまでも、ここに世話になっているわけにはいかない。
とはいえ、どうすればいいのだろう。助けを求められるところはどこにもない。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。はい、と舎利弗が出ていく。
こんばんは、という藍の声がする。舎利弗が応じる。ああ、雪村さん。どうぞ、あがって。
藍が室内に入ってきた。会社帰りらしく、スーツを着ている。「美由紀。だいじょうぶ?」
「ええ」美由紀はつぶやきながら、藍の肩越しに由愛香の姿を見た。
由愛香は気まずそうに視線を逸《そ》らしながら、戸口にたたずんでいる。
藍が美由紀を気遣うように告げてきた。「由愛香さん、どうしても来たいっていうから……。美由紀が会いたくないんだったら、すぐに出てってもらうから……」
「いえ。いいのよ。由愛香。無事だった? 怪我はない?」
だが由愛香は、視線を逸らしたままだった。
辛《つら》そうな顔をしているが、やはり本心は見えてこない。
「ねえ、それよりさ」藍はハンドバッグから、小さくたたんだ新聞を取りだした。「夕刊に気になる記事が出てるんだけど」
美由紀は身体を起こそうとした。「見せて」
「だめ。美由紀さんは目を休ませなきゃならないんでしょ。わたしが読みあげるから。ええと、中国共産党、全国代表大会の、中央委員会全体会議……説明が長いね。呉欣蔚《ウーシンウエイ》って人知ってる?」
「名前だけは……。政治局常務委員の九人のうちのひとり。共産党の最高指導部だから、総書記に次ぐ政府の実力者ね」
「さすが。で、その呉さんが緊急来日を申しいれてきて、日本政府もこれを了承したって」
「来日?」
「経済と産業貿易について理解を深めるべく、三菱《みつびし》グループの各企業や工場などを訪問する予定。来日期間中は帝国ホテルに滞在、中国大使館の親善パーティーにも出席するという」
エプロンをつけた舎利弗が部屋に入ってきた。「それはたぶん、情報を確かめに来るんじゃないのか? 美由紀から聞きだした、そのう、防衛の拠点の住所ってのを……」
美由紀は目を閉じた。
「ありうる……」と美由紀はいった。「そうでなきゃ、この時期に緊急来日するはずがない。三菱の工場を見学するなんて、ただの見せかけでしかない。防衛統合司令本局の所在地に関する情報の真偽を、確認するために来た。そうとしか考えられないわ」
「それなら、ちょうどいい」舎利弗はいった。「その呉さんって人に訴えればいいじゃないか。大使館にいた蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]って奴から脅された、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]はカジノの収益をたぶん自分の懐に入れてるって」
「そんなの……無理よ」
「どうして? いくらなんでもこんなヤクザまがいのやり方、中国政府が指導してるわけじゃないだろ?」
「それはそうだろうけど、政治局常務委員に接触なんてできっこない。アメリカの大統領並みに身辺警護されてるし、大物すぎるわ。訪問した国の一般市民の訴えを聞くなんて……。あ、でも……」
「何?」
「あくまで噂だけど……。共産党のトップクラスの党員は、日本や韓国の国内に個人的な情報屋を持っていると聞いたことがあるの。�國家告密的人�っていうらしいんだけど、なにしろ世界最大の党員数を誇る巨大な政府だから、情報の真偽をたしかめるにも手間がかかるらしくてね。だから在日中国人の家系に代々、伝承される國家告密的人という副業があって、彼らからの密告なら幹部も直接、耳を傾けるそうなの。それで現地の生の情報を得ようということなのね」
藍がだしぬけに甲高い声をあげた。「それいいじゃん」
「いいって、なにが……?」
「舎利弗さんがその國家告密的人だって言って、呉さんとやらに会えばいいってこと。会ってから正直に打ち明けるか、それとも最後まで國家告密的人だと偽って、大使館の不祥事を密告するか……。ま、どっちにするかは流れしだい。それでいいじゃない?」
「まさか……そんな危険なこと……」
「いや」舎利弗が真顔でつぶやいた。「それしか方法がないのなら、僕は喜んで協力するよ」
「舎利弗先生……」
ふいに由愛香が口をきいた。「ばっかじゃないの。そんなの、うまくいくわけないじゃない」
藍はふくれっ面をした。「やってみなきゃわからないじゃん」
「でも失敗したときにはどうなると思う? 今度こそ生きて帰れないかもしれないのよ」
「ふん。裏切り者は黙っててよ。なにさ、美由紀さんをこんな目に遭わせて。人間のクズ」
美由紀は耐え難い気分になった。
「やめてよ」美由紀は震える声で訴えた。「やめて。喧嘩《けんか》も、それに、無茶なことも……」
また涙が溢《あふ》れだす。視界はぼやけ、波打った。
室内に沈黙が訪れ、自分の嗚咽《おえつ》だけが聞こえる。
これ以上、友達を危険に晒《さら》したくない。みずから動くことができずにいるのが悔しかった。わたしは卑怯者《ひきようもの》だ、美由紀はそう思った。国を売っておきながら、フトンにくるまって震えることしかできないなんて。