三日後、午後七時半。
美由紀は目黒区のはずれにある老朽化したアパートの一室で、出かける準備をしていた。
服は以前に大使館に行ったときと同じカジュアルなものだが、コインランドリーで洗濯してある。失礼には当たらないだろう。
ドアをノックする音がした。
ワンルームだけに、すぐに戸口にでられる。美由紀は鍵《かぎ》を外してドアを開けた。「はい」
その向こうには、驚くことに由愛香が立っていた。
「由愛香……」
「出かけるつもりでしょ、美由紀」
「どうして……」
「わからないとでも思った? はい、これ。わたしの手元に残ってるメイクのセット。……顔の腫《は》れはひいたみたいね。そのままでもいいかな。美由紀はいつも綺麗《きれい》だから」
「……ありがとう。もう出かけるところよ」
由愛香は美由紀の肩ごしに、室内を眺めた。「ありえないぐらいに狭くて汚い部屋ね。なにを食べて生活してたの?」
「レトルトって便利よ。ねえ、ククレカレーって、クックレスカレーの略って知ってた? つまり調理のいらないカレーって意味」
「……いつも勉強熱心ね」
「よければ、由愛香も食べていったら? ここなら安全だし……」
「よしてよ。わたしも一緒に行くんだから」
「それは……」
「独りで行くなんていわせないから。……けど、わたしが言えた義理じゃないわね。あなたを裏切って、傷つけたんだし……。だからお願い、わたしを……一緒に連れていって」
「生きて帰れないかも……」
「……覚悟はしてる」
しばし静寂があった。
美由紀は由愛香を長いこと見つめていた。表情は読めなくても、感情に触れた。そんな実感がある。勘違いだとしても、いまは信じてあげたい。
「わかったわ。じゃ、一緒にいこう」
「ありがとう。美由紀」
ドアの外に出て、廊下を歩きだす。短い階段を降りて、美由紀は由愛香とともに下町の住宅街の細い路地にでた。
そのとき、目の前にたたずむ人影に気づいた。
舎利弗が告げてきた。「やっぱりね。出かけるところだろ?」
藍もそのわきに立っていた。「予想どおりだね。勝手に姿をくらまして、また危険のなかに飛びこもうなんてさ」
呆然《ぼうぜん》としながら美由紀はきいた。「どうしてここが……」
ため息をついて舎利弗がいった。「ここの大家さんって、美由紀の知り合いだろ。いま泊まれるところはここぐらいだ」
「わたしを止めにきたの?」
「いや」舎利弗は大きな旅行用のバッグを差しだしてきた。「これが要るんじゃないかと思って」
美由紀はそれを受けとった。ずしりと重い。ファスナーを開けてなかを見たとき、美由紀は言葉を失った。
そこには札束がぎっしり詰まっていた。
「これって……」
「僕の貯金だよ」と舎利弗がいった。「趣味といっても、DVDやグッズの大人買いぐらいしかないから、ずいぶん溜《た》まってた。カジノ・パーティーが今夜も開催されてるかどうかはわからないし、勝負を斡旋《あつせん》するつもりはないんだけど……。どうせ制止しても、行くんだろ?」
長いつきあいだ、舎利弗にはわたしの心が読めているらしい。残念ながら、まだわたしの動体視力は回復のきざしすらない。舎利弗の表情は読めない。
だが、彼の心はわかる。
美由紀はうなずいた。「……ええ」
「やっぱりね。……島崎先生の話では、状況しだいでは神経網の回復もありえるそうだけど、いま無茶すると取り返しがつかなくなるってことだ。目にはなるべく負担をかけないでくれ。勝機がないかぎり、無謀な賭《か》けはするなよ。それと、呉にメールは送信しておいたよ。言われたとおりに」
「わかったわ。本当にありがとう、舎利弗先生」
「無事で帰れよな。また日常に戻りたいよ」
「美由紀さん」藍が震える声で告げてきた。「どうか気をつけて。ミッドタウンタワーのほうは、わたしたちにまかせておいて」
「……なにをするつもりなの?」
「わたしと舎利弗さんで監視係をやっつけておくから」
「そんなの危険よ」
「いまさらそんなこといわないで。……美由紀さん。力になるから」
美由紀はなにも言えなかった。胸にこみあげてくるものに、耐えるのが精一杯だった。
藍たちをこんな状況にまで付き合わせてしまった。しかもいまのわたしは、彼女たちの助力を必要としている。そこに疑いの余地はない。
「気をつけてね」美由紀はようやく、そのひとことを絞りだした。
「ええ」藍は瞳《ひとみ》を潤ませながら、気丈に笑った。「美由紀さん。幸運を祈ってる」
美由紀は目黒区のはずれにある老朽化したアパートの一室で、出かける準備をしていた。
服は以前に大使館に行ったときと同じカジュアルなものだが、コインランドリーで洗濯してある。失礼には当たらないだろう。
ドアをノックする音がした。
ワンルームだけに、すぐに戸口にでられる。美由紀は鍵《かぎ》を外してドアを開けた。「はい」
その向こうには、驚くことに由愛香が立っていた。
「由愛香……」
「出かけるつもりでしょ、美由紀」
「どうして……」
「わからないとでも思った? はい、これ。わたしの手元に残ってるメイクのセット。……顔の腫《は》れはひいたみたいね。そのままでもいいかな。美由紀はいつも綺麗《きれい》だから」
「……ありがとう。もう出かけるところよ」
由愛香は美由紀の肩ごしに、室内を眺めた。「ありえないぐらいに狭くて汚い部屋ね。なにを食べて生活してたの?」
「レトルトって便利よ。ねえ、ククレカレーって、クックレスカレーの略って知ってた? つまり調理のいらないカレーって意味」
「……いつも勉強熱心ね」
「よければ、由愛香も食べていったら? ここなら安全だし……」
「よしてよ。わたしも一緒に行くんだから」
「それは……」
「独りで行くなんていわせないから。……けど、わたしが言えた義理じゃないわね。あなたを裏切って、傷つけたんだし……。だからお願い、わたしを……一緒に連れていって」
「生きて帰れないかも……」
「……覚悟はしてる」
しばし静寂があった。
美由紀は由愛香を長いこと見つめていた。表情は読めなくても、感情に触れた。そんな実感がある。勘違いだとしても、いまは信じてあげたい。
「わかったわ。じゃ、一緒にいこう」
「ありがとう。美由紀」
ドアの外に出て、廊下を歩きだす。短い階段を降りて、美由紀は由愛香とともに下町の住宅街の細い路地にでた。
そのとき、目の前にたたずむ人影に気づいた。
舎利弗が告げてきた。「やっぱりね。出かけるところだろ?」
藍もそのわきに立っていた。「予想どおりだね。勝手に姿をくらまして、また危険のなかに飛びこもうなんてさ」
呆然《ぼうぜん》としながら美由紀はきいた。「どうしてここが……」
ため息をついて舎利弗がいった。「ここの大家さんって、美由紀の知り合いだろ。いま泊まれるところはここぐらいだ」
「わたしを止めにきたの?」
「いや」舎利弗は大きな旅行用のバッグを差しだしてきた。「これが要るんじゃないかと思って」
美由紀はそれを受けとった。ずしりと重い。ファスナーを開けてなかを見たとき、美由紀は言葉を失った。
そこには札束がぎっしり詰まっていた。
「これって……」
「僕の貯金だよ」と舎利弗がいった。「趣味といっても、DVDやグッズの大人買いぐらいしかないから、ずいぶん溜《た》まってた。カジノ・パーティーが今夜も開催されてるかどうかはわからないし、勝負を斡旋《あつせん》するつもりはないんだけど……。どうせ制止しても、行くんだろ?」
長いつきあいだ、舎利弗にはわたしの心が読めているらしい。残念ながら、まだわたしの動体視力は回復のきざしすらない。舎利弗の表情は読めない。
だが、彼の心はわかる。
美由紀はうなずいた。「……ええ」
「やっぱりね。……島崎先生の話では、状況しだいでは神経網の回復もありえるそうだけど、いま無茶すると取り返しがつかなくなるってことだ。目にはなるべく負担をかけないでくれ。勝機がないかぎり、無謀な賭《か》けはするなよ。それと、呉にメールは送信しておいたよ。言われたとおりに」
「わかったわ。本当にありがとう、舎利弗先生」
「無事で帰れよな。また日常に戻りたいよ」
「美由紀さん」藍が震える声で告げてきた。「どうか気をつけて。ミッドタウンタワーのほうは、わたしたちにまかせておいて」
「……なにをするつもりなの?」
「わたしと舎利弗さんで監視係をやっつけておくから」
「そんなの危険よ」
「いまさらそんなこといわないで。……美由紀さん。力になるから」
美由紀はなにも言えなかった。胸にこみあげてくるものに、耐えるのが精一杯だった。
藍たちをこんな状況にまで付き合わせてしまった。しかもいまのわたしは、彼女たちの助力を必要としている。そこに疑いの余地はない。
「気をつけてね」美由紀はようやく、そのひとことを絞りだした。
「ええ」藍は瞳《ひとみ》を潤ませながら、気丈に笑った。「美由紀さん。幸運を祈ってる」
美由紀は由愛香とともに、中国大使館までの長い距離を歩いた。
夜の住宅地のなか、大使館は以前に見たときと同じく絢爛《けんらん》豪華に輝いていた。正門には招待客らのクルマが列をなしている。今夜は、いつもとは違う来客のようだ。運転手つきのセダンやリムジンが多い。やはり、中国政府の大物が訪ねているからだろう。
門に近づいていくと、黒服が笑顔を凍りつかせた。
「こんばんは」美由紀は声をかけた。「きょうもお邪魔するわね」
黒服は振りかえり、なにか手で合図した。
丸いサングラスの蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]世賓が、つかつかとやってきた。
「これはこれは……物好きな女がふたりも。なんの用でしょうか。今宵《こよい》は忙しいのですが」
「勝負に来たのよ」と美由紀はバッグのファスナーを開けて、地面に投げ落とした。「奪われたものすべてを、取り返させてもらうから」
バッグからのぞく札束に目を落とし、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は表情を固くした。
「あいにく、今宵はカジノは催されていませんので」
「それでもパーティーはある。そうでしょ? パーティーといえば余興よね」
「ご冗談を……」
そのとき、ふいに声が飛んだ。「どうかしたのか」
足早にこちらに歩を進めてくるのは、正装姿の呉欣蔚、政治局常務委員だった。屈強そうなボディガードを従えている。
呉が蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]にいった。「ゲストに失礼があってはならんぞ」
「委員」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は戸惑いがちに応じた。「彼女たちは、以前に慈善事業のカジノ・パーティーに招待したゲストなのですが……」
「ほう。カジノのね。その際はお楽しみいただけましたかな?」
「ええ、とても」と美由紀はうなずいた。「よろしければ今夜も、愛新覚羅でひと勝負願えないかと思いまして」
「愛新覚羅!」呉は笑顔を浮かべた。「これはまた珍しいゲームを遊ばれたものですな。私も若いころにはよく試したものです。ひさしぶりにあの興奮の席を見物するのも悪くない」
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]が咎《とが》めるように告げた。「委員……」
「さっそく席を用意して差しあげなさい。どういう筋の方かは、その席でお伺いするとしましょう。せっかく訪ねてこられた方を追いかえしたとあっては、中日友好の架け橋を自負する私の名折れですからな」
呉はそれだけいうと、さっさと立ち去っていった。
美由紀はあえて微笑を浮かべてみせた。蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は苦い顔で、美由紀を見かえしていた。
夜の住宅地のなか、大使館は以前に見たときと同じく絢爛《けんらん》豪華に輝いていた。正門には招待客らのクルマが列をなしている。今夜は、いつもとは違う来客のようだ。運転手つきのセダンやリムジンが多い。やはり、中国政府の大物が訪ねているからだろう。
門に近づいていくと、黒服が笑顔を凍りつかせた。
「こんばんは」美由紀は声をかけた。「きょうもお邪魔するわね」
黒服は振りかえり、なにか手で合図した。
丸いサングラスの蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]世賓が、つかつかとやってきた。
「これはこれは……物好きな女がふたりも。なんの用でしょうか。今宵《こよい》は忙しいのですが」
「勝負に来たのよ」と美由紀はバッグのファスナーを開けて、地面に投げ落とした。「奪われたものすべてを、取り返させてもらうから」
バッグからのぞく札束に目を落とし、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は表情を固くした。
「あいにく、今宵はカジノは催されていませんので」
「それでもパーティーはある。そうでしょ? パーティーといえば余興よね」
「ご冗談を……」
そのとき、ふいに声が飛んだ。「どうかしたのか」
足早にこちらに歩を進めてくるのは、正装姿の呉欣蔚、政治局常務委員だった。屈強そうなボディガードを従えている。
呉が蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]にいった。「ゲストに失礼があってはならんぞ」
「委員」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は戸惑いがちに応じた。「彼女たちは、以前に慈善事業のカジノ・パーティーに招待したゲストなのですが……」
「ほう。カジノのね。その際はお楽しみいただけましたかな?」
「ええ、とても」と美由紀はうなずいた。「よろしければ今夜も、愛新覚羅でひと勝負願えないかと思いまして」
「愛新覚羅!」呉は笑顔を浮かべた。「これはまた珍しいゲームを遊ばれたものですな。私も若いころにはよく試したものです。ひさしぶりにあの興奮の席を見物するのも悪くない」
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]が咎《とが》めるように告げた。「委員……」
「さっそく席を用意して差しあげなさい。どういう筋の方かは、その席でお伺いするとしましょう。せっかく訪ねてこられた方を追いかえしたとあっては、中日友好の架け橋を自負する私の名折れですからな」
呉はそれだけいうと、さっさと立ち去っていった。
美由紀はあえて微笑を浮かべてみせた。蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は苦い顔で、美由紀を見かえしていた。