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千里眼102

时间: 2020-05-27    进入日语论坛
核心提示:ラストエンペラー 中国大使館、本館ホールでのパーティーは、以前のカジノの催しとは違い、かなり厳粛なものだった。招待されて
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ラストエンペラー

 中国大使館、本館ホールでのパーティーは、以前のカジノの催しとは違い、かなり厳粛なものだった。
招待されている人々も政治家が多い。静かに奏でられるピアノとバイオリンのハーモニー、そして控えめな談笑。あるのはそれだけだ。
そこへきて賭博《とばく》のテーブルが余興としてしめされることは、このパーティーの趣旨としてはかなり異色の試みに違いなかった。それでも人々は興味津々に、テーブルの周りを囲んでいる。
美由紀は、元パイロットの魏炯明と対峙《たいじ》していた。
テーブルはいつものように、美由紀が大きな窓を背にして座るようセッティングされている。窓の外はミッドタウンタワーだ。
ただし、ゲームに興じる魏の表情は硬かった。
監視係からの連絡が入らないからだろう、と美由紀は思った。
後から冷静に考えてみてわかったことだが、彼らは勝敗表のボードに書かれた暗号を通じて、こちらの手札を知る仕組みになっているようだ。ボードには、美由紀に理解できない複雑な表記が多々ある。タワーからの無線連絡を受けた黒服がそこに、暗号化した手札の種類を書きこんでいるのだろう。
きょうは勝敗表の前に、そんなあわただしい動きはない。
マティーニを片手に、上機嫌の呉が見守るほか、審判人として特命全権大使の謝基偉、カジノ運営責任者とおぼしき蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]世賓、そして由愛香が、それぞれ周りに着席し勝負に見いっている。
イカサマがないせいで勝負は一進一退だったが、ほどなくテーブルは沸いた。
美由紀が親をつとめた第十一局で、子の魏がカードをすべて当てたからだ。
「辛亥《しんがい》革命か!」呉は叫んだ。「こりゃ驚いた。私も初めて見たよ」
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]がいった。「勝負ありましたな」
テーブル上のチップがごっそりと、魏のほうに押しやられる。美由紀は舎利弗から借りた金を、全額失った。
由愛香が両手で顔を覆っている。
美由紀は魏を見つめた。魏の表情は依然として読めない。
だが、美由紀は冷静に思考を働かせようと努力していた。
辛亥革命はどうして出せるのだろう。いつでも出せるのだとしたら、なぜ第十一局までおこなわなかったのだろうか。
親であるわたしの並べたカードが関係しているのか。最初に嘉慶帝、次に道光帝……最後は宣統帝。
ふと、美由紀のなかで何かが警鐘を鳴らした。
以前に辛亥革命を食らったときにも、わたしは最後に宣統帝をだした。そう、宣統帝のカードで終えたときにかぎって、辛亥革命が起きている。
宣統帝。ラストエンペラー溥儀《ふぎ》……。
そうか。そうだったのだ。辛亥革命は、タワーからの監視とは無関係だ。すべてのイカサマはこのテーブルで仕込まれている。カードのほかに、物理的なトリックはいっさい使っていない。
「ゲームをつづけましょう」と美由紀はいった。
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]が眉《まゆ》をひそめた。「つづける? あなたはもう無一文のはずですが」
「……チップを貸し与えて。担保に、わたしの以前の職場の秘密すべてを賭《か》けるから」
防衛統合司令本局の所在地どころではない。幹部自衛官として知りえたことを全部、相手の意のままに提供する。美由紀はそう申しでた。
「本気でしょうな」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]がきいてきた。
「ええ」美由紀はうなずいた。
美由紀が元自衛官だと知らないようすの呉が、戸惑いがちにいった。「あまり熱くなられてはいけませんな。あくまで余興ですよ」
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は呉を見た。「いえ。余興だからこそ、サービスしましょう。三百万元ぶんのチップを貸しだします。……彼女の負け分は、わが国の福祉事業に寄付されます」
ふむ、と呉は肩をすくめた。「よかろう。いましばらく、勝負を見守りましょう」
つづく第十二局、魏が親で美由紀は子だった。美由紀はカードをほとんど当てることができず、かなりのチップを失った。
第十三局。美由紀がまた親になった。
美由紀がカードを伏せて置く。子である魏がカードを裏向きに置き、親の美由紀のカードは表向けられる。そして美由紀が次のカードを置き、魏もそうする。交互にカードの出し合いがつづいた。
最後の一枚。美由紀は宣統帝のカードを、テーブルに伏せて置いた。
魏の眉がぴくりと動いた。
眼輪筋も収縮したのがわかった。たしかに見てとれた。
予測の範囲内だったからか、もしくは動体視力が回復しつつあるのか。美由紀は、相手の感情がふたたび読めるようになってきたのを感じた。
魏が警戒するような視線を向けてくる。美由紀はそ知らぬ顔をつとめた。
すべてのカードがテーブル上に並んだ。美由紀のカード十二枚は表に返され、魏のカード十二枚は伏せられている。
審判人の謝大使が、魏のカードを重ねて回収しようとした。
美由紀はいった。「待って」
謝が動きをとめる。
静まりかえったホールに響く自分の声を、美由紀はきいた。「審判人は、その場所で最も位の高い者が務めるのが慣わしだそうですが」
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]と魏の表情がこわばったのを、美由紀の視覚ははっきりと捉《とら》えた。
謝大使すらも身体を凍りつかせている。
呉だけが愉快そうに笑った。「これは懐かしい話だ。中華民国時代にはたしかに、一族の長がその役割を務めたと聞く。ここでは私の出番ということだな」
「お待ちを」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]があわてたように制した。「それは国民党政府がつくった慣習ともいわれています。われわれ中国共産党としては、台湾を国としては認識しておらず……」
「政治的な見解をゲームの席に持ちこむのはやめたまえ。それを言いだしたら清朝を打ち立てた女真族の肖像を並べて遊んでいること自体、共産党員としては嘆かわしいことになるんじゃないかね?」
見物人から笑いが沸き起こるなか、呉は立ちあがった。謝に代わって魏のカードを丁寧に、順に重ねて回収していく。
そのときを見計らって、美由紀は告げた。「下関条約に挑戦します」
「ほう」呉は目を輝かせた。「すると子のカードを言い当てることができると? 面白い」
「申しあげます。宣統帝、咸豊帝、嘉慶帝、ホンタイジ、雍正帝、乾隆帝、順治帝、康煕帝、同治帝、ヌルハチ、光緒帝、道光帝」
審判人の呉が、さっきとは逆方向にカードを一枚ずつ、表向けながら置いていく。
「なんと……」呉は絶句したようすだった。
ホールを揺るがすようなどよめきが起きた。
しばしテーブル上を眺めていた呉がつぶやいた。「すべて正解、下関条約。お客様の四十倍の勝ちですな。魏はカードを一枚も当てられていないので、魏の完敗。……しかし妙だ。カードの配列がほとんど同じだ……。ひとつ、ずれてるだけではないか。お客様のほうは咸豊帝、嘉慶帝、ホンタイジ……とつづき、最後が宣統帝だ。対する魏は宣統帝から始まって、咸豊帝、嘉慶帝、ホンタイジ……ときている。こんな偶然が……」
「いいえ。呉欣蔚委員。これは偶然ではありません。謝大使も手を貸していたイカサマです」
「な」謝がひきつった顔でいった。「なにを言いだすんですか」
「ゲームの最初に新しいカードを卸し、赤と青の宣統帝を交互に混ぜて親と子をきめる。あの過程で、魏炯明がカードの裏に印をつけています。わずかにカードを逸《そ》らすか、爪で跡をつけるか、そのていどでしょう。だからわたしの宣統帝の位置だけは常に魏にわかる。そして彼が子になったとき、親のわたしが最後に宣統帝のカードを置いたときだけ、辛亥革命のチャンスがあるんです」
呉は怪訝《けげん》な顔をした。「どういうことかね」
「親のわたしが先にカードを置き、次に子の魏が置く。彼はそこでは常に宣統帝を出します。わたしの一枚目のカードが表向けられたら、彼はそれと同じカードを二枚目として出すんです。そしてわたしの二枚目のカードが表に返される。また彼もそれと同じカードを三枚目として出す……。こうして、一枚ずつ位置がずれた配列ができ、ただ魏のカードは宣統帝が最初、わたしのカードは宣統帝が最後になっている違いだけが生じています。魏のカードを回収した謝大使が、カードを揃えるときに密《ひそ》かに一番上のカードを一番下に移動させる。たったそれだけで、両者のカード配列はぴたり一致します」
「誤解だ!」謝はひどくあわてたようすで、呉に弁明した。「委員、私は誓ってそのようなことは……」
「いや」呉の表情はすでに険しいものになっていた。「可能性は否定できん……。さっきの辛亥革命も、宣統帝が最後だったではないか。それに魏は子になると、いつも宣統帝を最初に置いていた」
謝が絶句したようすで押し黙り、おろおろとした態度で蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]に救いの目を向けだした。
美由紀は、このイカサマが計算し尽くされたものだと気づいていた。わたしはゲーム中ずっと、審判人の謝に注意を払うことができなかった。対戦相手である魏の表情を観察せざるを得ないため、謝の顔などほとんど見ることができないからだ。隙を突いて、条件が整ったときのみ、たった一枚のカードを移動させる。それぐらいなら、手のなかで密かにおこなえるはずだ。
謝はミッドタウンタワーの監視について知らされていなかった。そこが盲点だった。いかさまに加担していないがゆえに、彼をシロだと思いこんでいた。だが彼は、別のいかさまに手を貸していたのだ。
呉は憤りのいろを浮かべた。「これが指摘されたとおりのことなら、重大問題だ。大使以下、外交官らが共謀してイカサマ賭博《とばく》を働き、外貨を稼いだことになるからな。たとえ福祉目的でも、許されることではない」
「委員」美由紀はいった。「問題はそれだけではありません。あの窓ごしに見えるミッドタウンタワーから、望遠鏡によってゲストの手札が監視され、無線およびホワイトボード上の暗号によってディーラーに伝えられていました。慈善事業だそうですが、計上された寄付金の額をお教え願えますか。毎日、数億円規模の収益があったはずのカジノ・パーティーですが、当然その額では申告されていないと思いますが」
「数億……?」呉は蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]をにらみつけた。「それは本当か? きみらが人民代表会議に報告したパーティーでの収益金額は、その十分の一にも達していないが」
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は顔面をひきつらせていたが、甲高い声で圧倒した。「委員。戯言《ざれごと》に迷わされてはなりません。この女は元航空自衛隊の二等空尉です。例の情報も、この女から得たものです」
呉は冷ややかな目で美由紀を一瞥《いちべつ》した。
すぐに黒服を振りかえり、呉は小声で告げた。「ほかのゲストにお帰りを願え」
黒服らが見物人らに詫《わ》びをいい、出口へとうながした。ゲストたちは、不服そうな顔をしながらも、不穏な空気から逃れたがっていたらしい。文句をいわず退散していった。
ホールには大使館関係者らと、美由紀、由愛香だけが残された。
椅子に掛けたまま、呉は蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]にきいた。「例の情報だと……?」
「そうです。防衛統合司令本局の所在地です。わたしはこの岬美由紀という女から聞きだしたのです」
美由紀は間髪をいれずにいった。「知らないわ」
「この女!」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]はサングラスを外した。燃えるような目でにらみながら蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は叫んだ。「いまさらシラを切るのか」
「シラもなにも、防衛……って? わたしがどうしてそんなことを知っていて、あなたに教える必要があるの?」
「よかろう。そういう態度なら、委員にご確認願うだけだ。委員。防衛統合司令本局の所在地は東京都港区芝大門西四—七—十六、崎山ビルの一階と二階です」
日本の防衛の要《かなめ》となる位置、その住所が詳細に中国共産党の大物に伝えられた。
だが、呉はさらに冷淡な反応をしめしだした。「それは違う」
「な……なぜですか」
「三日ほど前に接触してきた國家告密的人が、きのうそれと同じ情報をメールで送って寄越してきた。防衛統合司令本局は東京都港区芝大門西四—七—十六、崎山ビル一階および二階にあると」
「それなら確実ではないですか」
「いいや。この住所以外なら可能性はあろう。だが、防衛統合司令本局は断じてこの住所ではない。ここだけは違う」
「どうしてそんなふうに言えるというんですか。現にそのビルを監視しましたが、自衛官らしき者が出入りする設備が存在し……」
「たわけ。そんなものは日本側の用意したフェイクだ。わが国にも各地に同じような擬似施設を持っておる」
「なぜこの住所がフェイクだなどと……」
「メールで情報を寄越した國家告密的人はあきらかに日本側の送りこんできた工作員だ。素性も調べたが純然たる日本人で、生涯日本国籍で日本国内で働いている。すなわちこれは、わが中華人民共和国側の諜報《ちようほう》活動を探るための日本政府の餌にすぎない。その同じ餌を、お前の釣竿《つりざお》も垂らしているとはな。よくも私を釣ろうとしたな」
「濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》です、委員! これは……ぜんぶ、この岬美由紀の罠《わな》です!」
その通り、と美由紀は心のなかでつぶやいた。
舎利弗と藍の偽装がばれることは予測がついていた。だからそれを逆手にとることにした。ふたりが偽の國家告密的人だと呉に気づかせ、あえて本物の情報を流し、それすらもフェイクだと感じさせたのだ。
「とにかく」呉は立ちあがった。「この件は総書記に報告し、中央委員会全体会議で処遇を話し合う。全員、帰国の準備を進めるがいい。本国に戻れば裁判が待っている」
立ち去りだした呉を、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]が愕然《がくぜん》とした顔で見送っている。
だが、魏は違っていた。弾《はじ》けるように立ちあがり、近くのテーブルからナイフをとると、その背後に突進していった。
「危ない!」美由紀は素早く飛びだした。
床を転がって魏に先まわりし、呉との間に割って入った。
ナイフが振り下ろされようとする瞬間、美由紀の目はその動きをとらえた。交叉《こうさ》法という防御の型で、魏の手首をひねりながら横に受け流し、外側からまとわりつくように巻きこんだ。
動きを封じられた魏が、呆然とした顔で美由紀を見つめた。「貴様……」
「いいリハビリになったわ。おかげで目のほうも利くようになったみたい」
魏は美由紀の腕を振り払うと、ナイフを振りかざして攻撃してきた。しかし、そのすべての動きを美由紀は見切っていた。身体を左に右に避けてかわし、前掃腿《ぜんそうたい》という足技で魏の足首をひっかけてバランスを崩した。
すかさず美由紀は後ろまわし蹴《げ》りを放ち、踵《かかと》で魏の頬を蹴り飛ばした。魏は空中で回転し、けたたましい音とともにテーブルに衝突して床に転がった。
ふらつきながら立ちあがった魏は、黒服たちを押しのけるようにして逃走し、戸口の向こうに消えていった。
呉は唖然《あぜん》として魏が走り去ったほうを眺め、それから美由紀に目を向けた。
そのとき、蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]が由愛香を羽交い絞めにした。その手にはトカレフの拳銃《けんじゆう》が握られている。
「蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]世賓!」呉は怒鳴った。「やめんか!」
「あなたが本国に報告したんでは元も子もなくなる」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は由愛香のこめかみに銃口をつきつけた。「この女を盾にして大使館を出る。外にでたら、今度は逆に日本の治外法権が働く。私の身を勝手に追わないでもらいたい。そこは日本の警察の管轄なのでね」
美由紀は緊張とともにつぶやいた。「由愛香……」
だが由愛香は、怯《おび》えてはいなかった。
「撃ってよ」と由愛香はいった。
「なに?」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]が面食らったようすでたずねる。
「さっさと撃って! わたしなんか、いなくなったほうがいいのよ。撃てるでしょ。どうせ取るに足らない女だもの。無一文の、なんの価値もない女だもの」
「うるさい! 黙ってじっとしてろ」
「撃てって言ってるのよ」由愛香は蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]に向き直った。
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]が引き離そうとした銃身を、由愛香がつかんで自分の身体に引き寄せた。「撃ってってば! わたしなんか死ねばいい。そうすればすべてが解決するじゃないの!」
「ば、馬鹿。よせ!」蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は人質を失うまいと、必死で銃を取り戻そうとし、激しくもみあった。
銃声が轟《とどろ》いた。
由愛香の腹部から赤いものがしたたり落ちたのを、美由紀は見た。
何歩かさがり、由愛香はその場にうずくまった。
美由紀は衝撃とともに駆けだした。由愛香を抱き起こしながら呼びかける。「由愛香」
「……美由紀」由愛香は力なくつぶやいた。「わたし……馬鹿だったわ」
「喋《しやべ》っちゃ駄目」美由紀は近くのテーブルからタオルをとり、由愛香の腹に当てた。
タオルはみるみるうちに赤く染まった。
それでも、即死はまぬがれているのだ、急所は外れている可能性がある。
蒋[#「くさかんむり/將」、unicode8523]は武器を失い、ふらふらと後ずさって尻餅《しりもち》をついた。
呉が駆け寄ってきて、美由紀に告げてきた。「救急車を呼ぼう」
「いいえ。それではあなたにご迷惑がかかります。政治局常務委員のあなたが大使館におられたときに銃撃があったとなれば、日中関係に深刻な影響を与えます」
「では、どうすれば……」
「この大使館で巻きあげられた財産はお返しいただけますか? わたしの分も、由愛香の分も」
「もちろんだ。一元残らず返却させていただく」
「なら、この敷地内にわたしのクルマが停まってるはずです。それで彼女を病院に連れていきます」
呉は背後を振り返り、謝大使に厳しい声で命じた。「謝《シエ》! 取鑰匙《チユーヤオシー》!」
謝は慌てふためきながら動きだした。「は、はい。ただちに」
ため息をつき、呉は美由紀に目を戻した。
穏やかな表情で呉がいった。「事実関係は複雑のようだが、あなたに命を救われたことは間違いない。大使館での不祥事も、現段階なら我々で処理できる……」
美由紀はうなずいた。「お互い、この件は表に出さないというのが、賢明な判断のようですね」
「……礼を申しあげる」
その言葉が嘘偽りなく、感謝の念をこめたものであることを、美由紀は見抜いていた。彼の表情には、偽証にともなう表情筋の痙攣《けいれん》がない。
「いいえ。楽しかったですよ、愛新覚羅は」
「そうだな……。機会があれば、私もお手合わせ願いたいよ。もちろんイカサマ抜きで」
「ええ」美由紀は微笑してみせた。「そのときは、ぜひ」
 由愛香は、激しい振動と轟音《ごうおん》のなかで、意識を浮かびあがらせた。
失神していたようだ。何度となく気を失っている。さっきまでの記憶は、大使館から運びだされるところだった。美由紀に抱き起こされたことだけは、ぼんやりと覚えている。
やがて、その振動はクルマに乗せられているせいだとわかった。
うっすらと目を開ける。夜の道を駆け抜けている。このエンジン音のやかましさ。ランボルギーニ・ガヤルドだった。
自分が助手席のシートにおさまっていることに気づく。隣では美由紀がステアリングを切りながら、ハンズフリー通話でまくしたてていた。
「どうして緊急の外科手術ができないの? 救急医療体制も整っているはずでしょ」
「ですから」電話の相手はしどろもどろだった。「外科手術の必要な急患となると、執刀医の手配に時間を要しますし……。それに、銃撃……でしたっけ? 事件性のある外傷なら、警察から連絡も入るはずで……」
「複雑な事情が絡んでいるって言ってるでしょ。治外法権下で起きたことだから警察にも協力は求められない。でも治療行為そのものに問題は派生しないわ。信じて」
「いえ。銃弾で負傷している患者を受けいれることは、当医院では……。申しわけありませんが、ほかをあたっていただけませんか。失礼いたします」
通話はぶつりと切れた。
「もう!」美由紀は苛立《いらだ》ったようすだった。「こんなときに働こうとしないなんて。なんのために医師免許を取得したのよ」
「美由紀……。もういいわ。わたしの命なんて……」
「駄目よ。あなたは助かる。どうあっても病院に受けいれさせてみせる」
「そんなこと言ったって……」
「ここからいちばん近いのはミッドタウンタワーのメディカルセンターね。たしか外科手術用の設備も完備されてた。深夜の救急医療体制はあるのかしら」
「あるにはあるけど……無理よ。いまみたいに断られるだけ」
「それなら、銃撃を受けたことを隠して病院に入るだけのことね」
「それも不可能じゃない? セキュリティカメラでチェックを受けてからじゃないと、扉は開かないし。わたし血まみれだし、美由紀もわたしを抱いたせいでそうなってるし……。門前払いにされるのがオチよ……」
「当直の医師が患者をふるいにかけるの? どうかしてるわ」美由紀はなぜか、グローブボックスから赤いサングラスを取りだした。「いいわ。それなら考えがあるから」
「どうするの?」
「いいから、まかせておいて」美由紀はそういってアクセルを踏みこみ、速度をあげた。
その真剣な横顔を見つめながら、由愛香は思った。
わたしはなんて恵まれているのだろう。なんて幸せなのだろう。こんなわたしのために真剣になってくれる人がいる。
友情を疑うなんて罪深い。たった一瞬でも、懐疑的になることさえ愚かしい。
意識がまた遠のいていった。それでも由愛香は、温かい気持ちに包まれていた。ガヤルドの激しく突きあげる振動さえ、揺りかごのように心地よく感じられた。
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