事件からひと月後の黄昏《たそがれ》どき、美由紀は由愛香の車椅子を押して、東京ミッドタウンの庭園を歩いていた。
そよ風に揺らぐ木々はライトアップされ、枝葉のすり合うざわめきと相まって、ここが都心であることを忘れさせる。すぐ近くに六本木交差点があるというのに、辺りはとても静かだ。車道の渋滞も歩道の雑踏も、何千キロメートルの彼方《かなた》に遠ざかったかのようだった。
「綺麗《きれい》……」由愛香が空を見あげてつぶやいた。
美由紀もその視線を追った。ミッドタウンタワーはガラスの塔のように光り輝いている。そして、その向こうに見える藍《あい》いろの空には、星が瞬いていた。
由愛香がいった。「星って、見えたんだっけ……。都内じゃ見えないかと思ってた。ずっと空なんて見てなかったから、わからなかった」
無言のまま、美由紀は由愛香の顔に目を戻した。
長い入院生活で、痩《や》せこけてはいるものの、血色はよさそうだった。手術の結果、内臓についてはほぼ問題なく縫合され、腰に残っていた銃弾は摘出、あとは骨折が治るまで歩行を禁じられただけのことだった。
「美由紀。わたし、また歩けるようになるかな」
「そりゃもちろんよ。主治医もそういってたでしょ? リハビリに何週間かかかるけど、心配ないって」
「わたし、なんだか自信なくなっちゃった……」
「どうして? 由愛香らしくもない」
「だって」由愛香は目を潤ませて美由紀を見あげてきた。「わたしは自分のことばかり考える……。美由紀をあんな目に遭わせて、自分だけ助かろうなんて……。藍がいったように、わたしなんて生きてる価値なんかないのよ」
「それは違うわ。あなたは理想を実現しようと努力して歩んできた……。そのこと自体は、揺らぎようのない事実よ。ある意味では人生そのものだったんでしょ。わたしは、そんなあなたを尊敬してる」
「でも……。わたしはあなたを裏切った。あなたがわたしを信じてくれてるのに……。わたしにはあなたを信じることができなかった。わたしはただ、愚かなだけの女よ」
「そこは、わたしがあなたの感情を見抜けるっていうだけ……」
「ねえ、美由紀。ひとつ教えて」
「なに?」
「わたしがあなたをだまそうとしたとき……目薬をすりかえたとき、どうして気づかなかったの? わたしが悪い感情を秘めていることは、読みとれたはずなのに……」
美由紀はしばし黙って、芝生を風が撫《な》で波打つのを眺めていた。
「いいえ。わたしにはわからなかった……。目に入ったものすべてを受けいれようとしているわけじゃないの。故意に疑うことを遅らせていたのかもしれない。けれど、どちらにしてもあなたのせいじゃないわ。あれは緊急避難だった。あなたにとって仕方のないことだった」
「あなたにとってかけがえのない能力を奪ったのに?」
「一時的なものよ。もう検診でも問題ないって言われてるし、動体視力のトレーニングも毎日つづけて、ほぼ元の水準を取り戻してるし……。由愛香も以前の生活に戻れたでしょ。財産も仕事も、すべてあなたの手もとに戻った」
「いくつかは失ったけどね……。この東京ミッドタウンのお店もそう。テナントの奪い合いが激しいから、あの事件直後にさっさと追いだされちゃった……」
「ガーデンテラスのいちばんいい場所だから、しょうがないのかもね。行ってみる?」
「……そうね。まだ次の契約者はオープンしていないらしいけど、夢の跡地を見ていくのも、悪くないかな」
美由紀は車椅子を押した。ショッピングモール付近の庭園から、ガーデンテラスへと歩を進める。
由愛香はつぶやいた。「ちょっと急ぎすぎたのかな……。人生の歩みについて」
「いいえ。あなたにはあなたの歩調があるわよ」
「だけど……」由愛香はそこで言葉を切った。行く手を眺めて、呆然《ぼうぜん》とつぶやく。「嘘。明かりがついてる。看板も……」
マルジョレーヌは、由愛香が最初に提案したとおりの姿に完成していた。予算をカットする以前の図面のままに。
「さ、なかに入ろうか」美由紀は告げた。
まだ信じられないという顔の由愛香が、店内に入ったとたん、驚きのいろを浮かべた。
開店の準備万端整ったマルジョレーヌの店内には、従業員の全員が戻ってきていた。
そして、彼女にとって馴染《なじ》みのある人々もいる。両親、かつてのクラスメート、地元の友人、知人。可能な限り上京して、集まってくれていた。
いっせいに、おめでとうという声があがる。
年老いた父と母が、由愛香に花束を贈る。
どこかぎこちなかったその両者の関係は、すぐに打ち解けていった。由愛香の顔に笑顔が浮かんだ。自然な笑みだった。両親の顔も、喜びと優しさに溢《あふ》れていた。
招待状を送るだけ送ったものの、美由紀にとっては初対面の人々がほとんどだった。そんななかで、顔見知りもいた。
舎利弗が、藍を伴って近づいてきた。舎利弗は綺麗にラッピングした贈り物を差しだしながらいった。「開店おめでとう。元気そうだね。そのようすじゃ、都内のお店を飛びまわる生活に戻る日も近いな」
由愛香はまだ呆然とした面持ちで、舎利弗からのプレゼントを受けとった。「だ、だけど……。どうして……? テナント契約は破棄されたはずなのに」
「店長代理が再契約して、開店準備を進めてくれたからさ」
「代理って?」由愛香の目が美由紀をとらえた。「まさか……」
「それなりにお金はかかったけどね。でも楽しかったよ、お店のオーナーになったのは……」
「美由紀が切り盛りしたの?」
「いえ、ぜんぶじゃないの。わたしにも臨床心理士としての仕事があったから、資金繰り以外については、もうひとりの店長代理に頼んだのよ」
藍がいった。「雇われ店長だけどね」
由愛香は唖然《あぜん》としたようすだった。「藍……。あなたが……」
「若干センスが変わっちゃったかもしれないけどさ。ライトが多すぎたから、間接照明にしてちょっと薄暗くしてみた」
「……藍。ありがとう。とてもいいと思うわ」
「あのう、由愛香さん。以前は、酷《ひど》いこといってごめんなさい。わたし、気が動転しちゃってて……」
「そんなの、違うわよ。ぜんぶわたしが悪かった……。藍。まさか……ここまでしてくれるなんて……」
由愛香は涙をこぼした。肩を震わせ、泣きだした。
藍が笑いかけた。「いちど由愛香さんの立場を味わってみたかっただけ。店長ってやっぱ、自分の趣味追求するだけじゃ勤まらないよね。どれだけ由愛香さんが苦労してたか、やってみてよくわかった。……だから店長。この先よろしくお願いね」
自然に拍手が沸き起こった。オーナーとしての由愛香の復帰を歓迎する拍手。
どうやら、由愛香の涙はとまらなくなっているようだった。
美由紀は、そんな由愛香を後ろから抱きしめた。
「みんながあなたを愛してくれてる。そして信じてる」美由紀はささやきかけた。
「それを忘れないで」
そよ風に揺らぐ木々はライトアップされ、枝葉のすり合うざわめきと相まって、ここが都心であることを忘れさせる。すぐ近くに六本木交差点があるというのに、辺りはとても静かだ。車道の渋滞も歩道の雑踏も、何千キロメートルの彼方《かなた》に遠ざかったかのようだった。
「綺麗《きれい》……」由愛香が空を見あげてつぶやいた。
美由紀もその視線を追った。ミッドタウンタワーはガラスの塔のように光り輝いている。そして、その向こうに見える藍《あい》いろの空には、星が瞬いていた。
由愛香がいった。「星って、見えたんだっけ……。都内じゃ見えないかと思ってた。ずっと空なんて見てなかったから、わからなかった」
無言のまま、美由紀は由愛香の顔に目を戻した。
長い入院生活で、痩《や》せこけてはいるものの、血色はよさそうだった。手術の結果、内臓についてはほぼ問題なく縫合され、腰に残っていた銃弾は摘出、あとは骨折が治るまで歩行を禁じられただけのことだった。
「美由紀。わたし、また歩けるようになるかな」
「そりゃもちろんよ。主治医もそういってたでしょ? リハビリに何週間かかかるけど、心配ないって」
「わたし、なんだか自信なくなっちゃった……」
「どうして? 由愛香らしくもない」
「だって」由愛香は目を潤ませて美由紀を見あげてきた。「わたしは自分のことばかり考える……。美由紀をあんな目に遭わせて、自分だけ助かろうなんて……。藍がいったように、わたしなんて生きてる価値なんかないのよ」
「それは違うわ。あなたは理想を実現しようと努力して歩んできた……。そのこと自体は、揺らぎようのない事実よ。ある意味では人生そのものだったんでしょ。わたしは、そんなあなたを尊敬してる」
「でも……。わたしはあなたを裏切った。あなたがわたしを信じてくれてるのに……。わたしにはあなたを信じることができなかった。わたしはただ、愚かなだけの女よ」
「そこは、わたしがあなたの感情を見抜けるっていうだけ……」
「ねえ、美由紀。ひとつ教えて」
「なに?」
「わたしがあなたをだまそうとしたとき……目薬をすりかえたとき、どうして気づかなかったの? わたしが悪い感情を秘めていることは、読みとれたはずなのに……」
美由紀はしばし黙って、芝生を風が撫《な》で波打つのを眺めていた。
「いいえ。わたしにはわからなかった……。目に入ったものすべてを受けいれようとしているわけじゃないの。故意に疑うことを遅らせていたのかもしれない。けれど、どちらにしてもあなたのせいじゃないわ。あれは緊急避難だった。あなたにとって仕方のないことだった」
「あなたにとってかけがえのない能力を奪ったのに?」
「一時的なものよ。もう検診でも問題ないって言われてるし、動体視力のトレーニングも毎日つづけて、ほぼ元の水準を取り戻してるし……。由愛香も以前の生活に戻れたでしょ。財産も仕事も、すべてあなたの手もとに戻った」
「いくつかは失ったけどね……。この東京ミッドタウンのお店もそう。テナントの奪い合いが激しいから、あの事件直後にさっさと追いだされちゃった……」
「ガーデンテラスのいちばんいい場所だから、しょうがないのかもね。行ってみる?」
「……そうね。まだ次の契約者はオープンしていないらしいけど、夢の跡地を見ていくのも、悪くないかな」
美由紀は車椅子を押した。ショッピングモール付近の庭園から、ガーデンテラスへと歩を進める。
由愛香はつぶやいた。「ちょっと急ぎすぎたのかな……。人生の歩みについて」
「いいえ。あなたにはあなたの歩調があるわよ」
「だけど……」由愛香はそこで言葉を切った。行く手を眺めて、呆然《ぼうぜん》とつぶやく。「嘘。明かりがついてる。看板も……」
マルジョレーヌは、由愛香が最初に提案したとおりの姿に完成していた。予算をカットする以前の図面のままに。
「さ、なかに入ろうか」美由紀は告げた。
まだ信じられないという顔の由愛香が、店内に入ったとたん、驚きのいろを浮かべた。
開店の準備万端整ったマルジョレーヌの店内には、従業員の全員が戻ってきていた。
そして、彼女にとって馴染《なじ》みのある人々もいる。両親、かつてのクラスメート、地元の友人、知人。可能な限り上京して、集まってくれていた。
いっせいに、おめでとうという声があがる。
年老いた父と母が、由愛香に花束を贈る。
どこかぎこちなかったその両者の関係は、すぐに打ち解けていった。由愛香の顔に笑顔が浮かんだ。自然な笑みだった。両親の顔も、喜びと優しさに溢《あふ》れていた。
招待状を送るだけ送ったものの、美由紀にとっては初対面の人々がほとんどだった。そんななかで、顔見知りもいた。
舎利弗が、藍を伴って近づいてきた。舎利弗は綺麗にラッピングした贈り物を差しだしながらいった。「開店おめでとう。元気そうだね。そのようすじゃ、都内のお店を飛びまわる生活に戻る日も近いな」
由愛香はまだ呆然とした面持ちで、舎利弗からのプレゼントを受けとった。「だ、だけど……。どうして……? テナント契約は破棄されたはずなのに」
「店長代理が再契約して、開店準備を進めてくれたからさ」
「代理って?」由愛香の目が美由紀をとらえた。「まさか……」
「それなりにお金はかかったけどね。でも楽しかったよ、お店のオーナーになったのは……」
「美由紀が切り盛りしたの?」
「いえ、ぜんぶじゃないの。わたしにも臨床心理士としての仕事があったから、資金繰り以外については、もうひとりの店長代理に頼んだのよ」
藍がいった。「雇われ店長だけどね」
由愛香は唖然《あぜん》としたようすだった。「藍……。あなたが……」
「若干センスが変わっちゃったかもしれないけどさ。ライトが多すぎたから、間接照明にしてちょっと薄暗くしてみた」
「……藍。ありがとう。とてもいいと思うわ」
「あのう、由愛香さん。以前は、酷《ひど》いこといってごめんなさい。わたし、気が動転しちゃってて……」
「そんなの、違うわよ。ぜんぶわたしが悪かった……。藍。まさか……ここまでしてくれるなんて……」
由愛香は涙をこぼした。肩を震わせ、泣きだした。
藍が笑いかけた。「いちど由愛香さんの立場を味わってみたかっただけ。店長ってやっぱ、自分の趣味追求するだけじゃ勤まらないよね。どれだけ由愛香さんが苦労してたか、やってみてよくわかった。……だから店長。この先よろしくお願いね」
自然に拍手が沸き起こった。オーナーとしての由愛香の復帰を歓迎する拍手。
どうやら、由愛香の涙はとまらなくなっているようだった。
美由紀は、そんな由愛香を後ろから抱きしめた。
「みんながあなたを愛してくれてる。そして信じてる」美由紀はささやきかけた。
「それを忘れないで」