臨床心理士の派遣先はさまざまだ。
スクールカウンセラーとして学校に赴くこともあれば、病院の精神科、保健所、教育センター、リハビリテーションセンター、福祉センターに児童相談所。
家庭裁判所や少年院、保護観察所や刑務所にまで足を運ぶ。
当然、行く先々で求められることはさまざまだが、それら心理学の専門知識が必要になる場所よりは、ハローワークという派遣先は楽しそうに思えた。
今年三十五になる臨床心理士、牧野高雄《まきのたかお》は当初、そう信じた。
就職というのは前向きな行動だ、いろいろ問題を抱えてマイナス面が浮き彫りになっている人々を相手にするよりは、ずっと興味深い話ができるに違いない。
ところが、先日の池袋での出来事に引き続き、新宿の職安通りに面したハローワークでも、牧野は己の見込みの甘さを痛感させられることになった。
健全な就職希望者は、職業相談の窓口を訪ね、そのまま問題なく帰っていく。そんな窓口の脇に設けられたもうひとつのコーナー、長テーブルに三、四人が並んで座れるようパイプ椅子を据えた場所にまわされてくるのは、一風変わった連中ばかりだった。
それも、外見は人並みどころか、充分にゆとりを持って暮らせていそうな血色のよさと、人あたりのよさそうな笑顔を身につけている。内面の問題は見ただけではわからないという、いい証明だった。
牧野のほか、ふたりの臨床心理士が横でそれぞれ相談を受けつけている。牧野が担当しているのは、心身ともにいたって健康そうな若者だった。
「ええと」牧野は書類を見た。「鳥沢《とりざわ》……幸太郎《こうたろう》さんですね?」
向かいに座った青年は、書類にある三十一歳という年齢よりはかなり若く見える、痩《や》せた長身の男だった。それなりにこぎれいで、顔も整っていて、どちらかといえばハンサムといえるほうかもしれない。ただし、無職にありがちなどこかのんびりした態度や、緊張感の足らない表情が、引き締まっていればましに見えそうな顔をだらしなく弛緩《しかん》させてしまっている。
「はい、そうです……」と幸太郎は答えた。
「それで、どういった相談がおありですか?」
「相談……、は、特にないんですけど……」
「……でも、仕事がなかなか決まらないんでしょ?」
「そうですね。ええ、まあ、それが問題といえば問題ですね」
「就職相談のほうで、臨床心理士と話してみたらと勧められて、こちらにおいでになったわけですから、もっと積極的に心のなかを打ち明けてみましょうよ。ねえ、鳥沢さんは、いままで事務の仕事をしていたわけでしょう? そこをお辞めになったってことは、なにか理由があったわけですよね?」
「理由っていうほどのものじゃないですけど。……つまらなかった、っていうか」
「ほう。どんなふうにつまらなかったですか」
「べつに……。贅沢《ぜいたく》って言われるかもしれないですけど、変化のない日常つづきで、せっかく大学を出たのに、三十過ぎてまでコピーをとったりお茶|汲《く》んだりが仕事だし……」
「それも立派な仕事ですよ」
「けど、それは僕でなくても、誰でもできることでしょう? 一生ほとんど変わらない生活で、劇的な変化も期待できないってことなら、せめてもうちょっと興味ある仕事っていうか……いや、興味はなくても、それなりに好きでつづけられる仕事っていうか」
牧野は書類に目を戻した。「希望の職業には、喫茶店の店長など、って書いてあるけど……。飲食業に興味あるの?」
「いえ。そういうわけでは……」
「じゃあ、どうして店長をやりたいと思うんですか?」
そのとき、幸太郎の隣りに座っていた相談者の女が、声高にいった。
「だからさ。何度も言ってるじゃん。年収はだいたい最低で三千万ぐらい、週休三日から四日で、出勤は一日おき、時間は昼からで、夕方には終わる。世間のその他大勢に埋没しない責任ある職業で、名前や顔がきちんと公表されて、その道のパイオニアとして尊敬されて、会社とかじゃなくわたしを頼りに顧客が来る。そんな仕事がしたいわけよ。じゃなきゃ、いらない」
その甲高《かんだか》い声は、ハローワークじゅうに響いた。辺りは一瞬しんとなり、呆気《あつけ》にとられた人々の視線が女に降り注いだ。
牧野はひそかにため息をついた。またこの女か。
隣りの席で彼女を担当する臨床心理士は、初対面らしく困惑しきっていた。「あのう……。まずですね、常識で考えて、そういう仕事はないってのはお判りですよね?」
「ないって何? ここ、職業を探すとこじゃないの?」
「そうですけど……」
「じゃあ探してきてよ。わたしに紹介してよ。先生、ないって言い切ってるけど、この世のすべての仕事、見たことあんの? 日本にも外国にも、すっごいお金持ちの人とかいるじゃん。ああいう人たちってなんの仕事してんの? それわたしに紹介してくれるだけでいいんだけど」
「そんなのは……ここでは斡旋《あつせん》してないでしょうし、私にも……」
「わからないっての? はぁ。無能ね」
でた。無能、そのひとこと。
彼女を見るのは初めてではない。以前にも池袋のハローワークにやってきて、そのときは牧野が相談に乗った。
名前は京城麗香《きようじようれいか》、これまた二十七歳という実年齢とは思えないほどの若さを保ったルックスの持ち主だ。幼さといってもいいかもしれない。服装は派手で、大人びたものを好んで身につけているようだが、赤いジャケットにエルメスのオレンジいろのスカーフなど、組み合わせがまるでなっていない。
ただし、顔はノーメイクにして人目を惹《ひ》くほどの美人で、とりわけ大きく見開かれた瞳《ひとみ》は輝きに満ちている。どこか意地悪そうで、別の場所で会ったのならその少女のように小悪魔めいた微笑も魅力的に感じられたかもしれない。
だがここでは、攻撃的な姿勢の麗香は、相談相手の臨床心理士に遠慮なくその矛先を向けてくる。油断は禁物だった。
以前に牧野に対してそうしたように、麗香は担当の臨床心理士にまくしたてた。「さっき、どっかの聞いたこともないみたいなちっぽけな会社でファックスの送受信をする係、みたいな仕事をおおせつかったんだけどさ、冗談じゃなくない? ファックスなんて誰でも流せるじゃん。そんなの、これやっとけみたいに偉そうに言う奴がいたらさ、最低だと思わない?」
「……雇い主だったり、上司だったりするでしょうから、最低ってことはないと思いますが」
「嘘ばっか。そんな仕事を受ける輩《やから》なんてさ、せいぜい……」
その先は、聞くに堪えない差別的発言の連続だった。
いわゆる社会的弱者にあたる人々をおおいに蔑《さげす》んだうえに、口もとを歪《ゆが》めて笑い飛ばし、ファックスの送受信など頭の悪い猿でもやってのける仕事だと断じた。
さらに、この世のほとんどの仕事にあたる事務職、肉体労働、営業職について、すべてが同じく猿の仕事と言いきり、疑うことを知らない猿同然の人々なら就職することも厭《いと》わないだろうが、わたしはまともな人間だから騙《だま》されはしない、そんな人生になるくらいなら死んだほうがまし、そこまで一気に喋《しやべ》った。
周りの人々は唖然《あぜん》とするか、しらけて気の毒そうな目を向けるだけだった。
それでも麗香は、大勢の聴衆に持論を聞かせることができて満足そうにしている。さらにのぼせあがって、ハローワークそのものに対する批判まで開始した。
「こんなところで働いてる人たちってさー、ずばり負け組だよね。どんな仕事でもさ、アマチュアにその専門職に就くコツを指導してる先生って、業界の落ちこぼれじゃん? カラオケに行くと、スターになれるチャンスとかいって歌唱検定とかやってる音楽プロデューサーって、プロフィール見てみたら完全に終わってる歌手とかに古臭い曲をひとつぐらい提供しただけじゃん。メイクアップアーティストを育てるとかいってんのも、ほんとに活躍してりゃメイクの仕事で忙しいはずなのにさ、暇だから素人相手に威張る道選んでんだよね。あと小説家の世界とかでもさ、作家になる方法とか言ってるのって、聞いたこともな……」
耳をふさぎたくなる。
牧野が閉口して向かいの幸太郎を見やると、幸太郎も戸惑い顔で見かえした。
麗香の演説はつづいた。「だからさ、ありとあらゆる職業を紹介しますなんて言って、無職の人相手に優越ぶってんのも、世間のまともに働いている人からすりゃ見下されたものよね。そんなにいい就職先知ってんのなら、自分がそこに就職しなさいっての。そうでしょ? そう思わない?」
少しの不満を感じたら、すぐに裏切られたと被害者意識を持ち、猛然と反撃にでる。相手を徹底的にやりこめるまで攻撃の手を緩めない。
人格障害であることは間違いない。
この手の相談者は厄介だ。ここが病院ならともかく、ハローワークであるからには、その症状を指摘することにさえ慎重にならざるをえない。
「わかった」麗香はふいに立ちあがった。「もういい。帰る」
その麗香の目がじろりとこちらを向いたので、牧野はあわてて自分の仕事に戻った。
「と、とにかく、鳥沢さん。飲食業をやりたいという強いお気持ちがないのに、喫茶店の店長を希望されるのは、私からすればいたって不思議なことですよ。理由があれば、どんなことでもお聞かせいただきたいんですけど」
「ええ……。まあ、そうですね。その、喫茶店に限ったことではないんですけど……」
突然、麗香が手を伸ばしてきて、牧野の手から書類を奪いとった。
「どれ」と麗香は、鳥沢幸太郎の履歴書を読みふけり、けたたましく笑った。「趣味は映画鑑賞に読書、音楽鑑賞ですって? すなおにアニメにアニソンにエロゲって書けばいいじゃん」
「な」幸太郎はいきなりあわてだした。「なにを言いだすんだよ」
「ふうん。その反応は図星ってとこよね。さしずめこの喫茶店の店長って、メイド喫茶の店長やりたいってことでしょ? 正直にそう言えばいいじゃん。カウンセラーの先生、困ってるよ。喫茶っていえば歌声喫茶ぐらいしかしらない年齢だろうしさ」
牧野はつぶやいた。「そこまで老けてはいないよ……」
「あ、牧野先生じゃん。元気? このあいだ池袋で会ったよね? あー。先生がいるんじゃ、ここで紹介してる就職先のレベルも高が知れてるね。よくて池袋、へたすりゃ新大久保ってことでしょ? わたしあの国の人たちきらい。なんていうか、キムチくさい」
「きみ」声をひそめながらも咎《とが》めたのは、鳥沢幸太郎だった。
だが、麗香は不敵に幸太郎をにらみつけた。「なによ」
「あ、あの……。人種差別的発言はよくないよ。聞く人によっては、不快に感じたりするはずだよ」
「ふん。偽善じゃん、そんなの。どういうメイド雇いたいの? 安藤まほろみたいなやつ? そんな娘ほんとにいると思ってんの?」
「あ……いや、生身の人間はアンドロイドと違うってことぐらい、わかってるつもりだし……」
麗香は書類を幸太郎に投げつけた。「やっぱその手のオタじゃん。見た目はまあまあなのに、キモ。せいぜい頑張ってね」
それっきり、麗香は人々の注目を浴びながら、出口にすたすたと歩き去った。
幸太郎はしばし呆然《ぼうぜん》としたままだったが、やがて我にかえったようすで、牧野に向き直ってきた。
「こ、この際なので……」幸太郎は顔を真っ赤にしてつぶやいた。「メイド喫茶の店長になれたら、それなりに働けるって意思はあるってこと……なんですけど……駄目ですかね、やっぱり?」
牧野は絶句し、頭を抱えた。
あの京城麗香なる女に恥辱を受けておいて、怒りもせずに後押しされた気になっているとは。
この青年も彼女といい勝負だ。