今朝もまた、ハローワークに来てしまった。
幸太郎はそのエントランスを前にして、困惑を覚えて立ちどまった。俺はなんのために、ここに来たのだろう。
きのう、就職の斡旋《あつせん》については人材的に問題ありとみなされて、臨床心理士の窓口にまわされたばかりだ。そこでも一笑に付された。実際、どんな仕事をやりたいと思っているのか、この先どう生きるつもりなのか、自分でもいまひとつわかっていない。
にもかかわらず、ハローワークに足しげく通う自分がいる。
いや、目的はほかにある。
きのうのことを思いだすのを故意に遅らせようとしたところで、なんの意味もない。
麗香という女と再会する約束はなかった。彼女は俺に、求人の告知をネットの掲示板に書きこませたまま、行方をくらましてしまった。連絡をとるすべは、何も伝えられていなかった。
それならもう二度と会うこともあるまい、そう思って忘れてしまえばいいはずだ。
けれども、そうもいかない。
まさか未練を感じているのか。美人だったからって、そこまで執着心を持つことがあるだろうか。
と、いきなり背中を強く叩《たた》く者がいた。
一瞬の間をおいて、痺《しび》れるような痛みが走る。幸太郎はのけぞった。「痛っ!」
「おはよう!」と女の声がした。
愕然《がくぜん》として振り返る。
そこにいたのは、きのうよりも派手な着こなしの麗香だった。髪もひときわ明るく染め直したようだ。
「なにボーッとしてんの?」麗香はどこか意地の悪そうな笑みを浮かべた。「しまりのない顔しちゃってさ。いかにも腑抜《ふぬ》けって感じ」
「おい。朝から酷《ひど》いな。だいたい、どこで待ち合わせるかの約束もなしに……」
「はぁ? 失業者は職探しにここに来るに決まってんじゃん。あなた、まだうちの正社員じゃないんだしさ。雇うか雇わないかは、社長であるわたしが決めんの」
「……あのさ。会社ごっこもいいんだけどさ。僕も人のこといえないが、もう少し現実に生きたほうが……」
「なによ、ごっこって」言うが早いか、麗香はハンドバッグから素早く書類を取りだした。「じゃーん。これなにかわかる?」
「な……。ええ!? これって……」
「そ。登記簿の写し。株式会社レイカ、めでたく法人設立と相成りました!」
「そんな。嘘だろ。きのうのきょうで、出来るわけが……」
麗香は悪戯《いたずら》っぽく笑った。「まあね、ふつう一週間から十日はかかるっていうけどさ。役人なんて、うまく丸めこめばこんなものよ」
いったいどんなふうに丸めこんだというのだ。というより、それをごく当たり前の手続きのように考えている麗香という女は、この世の善悪をどんなふうに区別しているのだろう。
「さあ」麗香は幸太郎の腕をつかんだ。「行くよ。早く」
「待てよ。行くって、どこに?」
「決まってんじゃん。会社」
「もう事務所を借りたのかい?」
「当然でしょ。法人の登記をしたってことは、ちゃんと事務所も押さえて会社の住所も定まってるってこと。ここからそんなに遠くないしさ。急いでよ。やる気ないなら雇わないわよ」
「あ、ああ……」
手を振りほどこうとすればできたが、到底そんな気にはなれなかった。
たった一日で会社を用立ててしまった女。その女の思いつきから立ち会った身としては、成り行きが気になって仕方がない。こんな行動力と実践力を持った失業者は稀《まれ》に違いないはずだ。
ハローワークから離れて、職安通りを大久保方面に向かって歩く。さすがに家賃の高い新宿近辺の物件を借りたわけではなさそうだった。
JRのガード下に近づいたとき、聞きなれないエンジンの重低音が轟《とどろ》いた。
振りかえると、オレンジいろのランボルギーニ・ガヤルドが、ハローワークの駐車場に乗りいれていくのが見えた。
あんなクルマでハローワークに……。むろん失業者ではないだろう。職員にもそこまでリッチな人がいるとは思えない。誰だろう。
麗香がぐいと手を引いた。「ほら。とっとと歩く」
「わかったよ。そう急《せ》かすな」幸太郎はぼやきながら、歩を進めた。
まったく。きのうからきょうにかけて、目に焼きつくのは妙な光景ばかりだ。