少しばかり繊細さをのぞかせたからといって、麗香の性格が変わったわけではなかった。
大久保の会社、というよりは麗香が独断でそう決めている場所に舞い戻ったころには、麗香はすっかり元どおりの図々しさを発揮していた。
ビルの階段を登りながら、麗香は満足したようにまくしたてた。「いやー、うまくいったね。このインパクト充分のクルマで、渋谷のパフォーマンス。かなり大勢の人たちの心に訴えかけたんじゃない? これならきっと、事務所には問い合わせが殺到するね。いや、もうクライアントが来ているかも」
いったいどんなクライアントを期待しているのか、さっぱり理解できない。
だが、事務所にはたしかに来客があった。麗香が望んでいたであろう客とはあきらかに異なっていたが。
屈強そうな中年の男は、事務所に戻った幸太郎と麗香を見たとたんに口を開いた。「警視庁、捜査三課の新藤《しんどう》。京城麗香さんですな。ご同行願います」
私服の刑事たちがわらわらと麗香の身柄を拘束しに群がる。
幸太郎のほうにも、ひとり近づいてきた。俺はひとりで充分と考えられているらしい。
警察の判断は的確だ。危険なのは麗香ひとりだ。俺のほうは人畜無害な存在にほかならない。
「ちょっと、何よこれ!?」麗香は怒りのいろを浮かべて怒鳴った。「ポア。なんでこんな奴ら上がらせておいたの? 警察なんか用はないっての!」
こうなることをまったく予測していなかったような言い草。あきれ果てた女だった。あれだけの騒ぎを起こして会社の所在地を伝えた結果、警察がやってくることは自明の理だろうに。
「来るんだ」と新藤がいった。幸太郎の担当らしき刑事に目を向けて告げる。「おまえはここに残れ。先にわれわれで京城麗香を連行する。応援が来たら、その青年と韓国人女性を本庁に連れていくんだ。わかったな?」
「はい」と刑事が応じた。
よほど凶暴な犯罪者とみなされていたのか、麗香の連行には十人近くが動員されていた。
「放してよ!」麗香は刑事たちに引きずられていきながらも、身をよじって抵抗をしめしていた。「触らないでって言ってるでしょ、ばーか。安月給の公務員のくせに、こんなときだけ役得とばかりに威張らないでよ。なにさ、不祥事だらけの薄汚れた組織のくせに。テレビで人情おまわりさんとか特集したって無駄だっての、わたしは騙《だま》されないから。国家の犬。犬畜生」
しかし、あくまで抵抗できるものではなかった。麗香は廊下に連れだされていき、その息巻く声もしだいに遠ざかっていった。
事務所には幸太郎のほか、刑事とポアだけが残された。
ところがこのとき、幸太郎はようやく事務所のなかの異変に気づいた。
事務用デスクが三つ、部屋の中央に集められている。それぞれにパソコンが据えられていた。壁ぎわには棚と、ファクシミリ、コピー機。どれも真新しかった。
いつの間にか、会社としての体裁が整っている。
驚きを感じながら、幸太郎はポアを見た。「こんな備品、どこで集めたんだい?」
ポアはにこりと笑った。「社長にいわれたとおり、知り合いのつてで……」
「まさか。どれもこれも新品じゃないか。パソコンのキーボードも、フィルムカバーが剥《は》がされていないし……」
刑事が顔をこわばらせた。「盗品か?」
と、ふいにポアが顔を堅くした。
「なんですって?」ポアが刑事にきいた。
「盗んだものかどうか、と聞いてるんだ」
「……失礼な刑事さんですね。なんの根拠もなくわたしを泥棒だとでも?」
「事情を聞こうとしているだけだ。黙っていたところで、やがてはあきらかになる。いまのうちに話しておいたほうが……」
だが、次の瞬間、ポアのとった行動は完全に予測不能なものだった。
ポアは刑事に向かって突進するや、跳躍して膝蹴《ひざげ》りで刑事の顎《あご》をしたたかに打った。
幸太郎は、自分が殴られたかのような衝撃を感じた。
「ポ、ポアさん……。なにをしてるんだ!?」
刑事は両手で顎をかばい、痛みに耐えている。
ふらつきながら、刑事はいった。「この女……公務執行妨害だぞ」
それでもポアは動じなかった。冷ややかな目で刑事を一瞥《いちべつ》すると、瞬時に片脚を振りあげた。
一方を軸足に、もう一方を鞭《むち》のように自在に振りまわし、ムエタイのような強烈かつ素早い蹴りを次々に放つ。刑事はめった打ちにされていた。
ポアの動作には寸分の隙もなく、幸太郎がテレビで観る格闘家の攻撃姿勢そのものだった。
目にもとまらぬ早業での連打、刑事はたちまち痣《あざ》だらけになって床に転がった。
瞬殺。
幸太郎は凍りついて立ちつくした。
「貴様……」刑事は唸《うな》りながら、スーツの下に隠していた拳銃《けんじゆう》を取りだした。
しかしポアは動じることもなく、刑事の首に腕を絡めて背後にまわりこみ、寝技に持ちこんだ。
きりきりと絞めあげられる首……。
なんという無慈悲な。幸太郎は悲鳴をあげて逃げだしたい衝動に駆られた。
やがて刑事は力尽き、ぐったりと身体を弛緩《しかん》させた。
ポアはそんな刑事を床に放りだして、立ちあがった。
幸太郎は恐怖に震えながら、なんとか声を絞りだした。「ポアさん。お、俺はなにも見てません。なにも目撃してない。ここで起きたことは、俺がなんら関知しないことであり……」
「心配はいりません」ポアは不敵な薄ら笑いを浮かべた。「殺したわけじゃないんです。ただ脳への血液循環をさまたげることによって意識喪失に導いただけですから。一般的な用語でいえば、失神かな」
「失神って……。きみは何者なんだ? こんなことしたら、麗香ばかりじゃなくきみの身まで危ういことに……」
「案ずることはないの。麗香さんはすぐここに戻ってくる。警視庁に連行されることはございません」
「なぜだ……? 現にああして、大勢の刑事たちに連れられていったじゃないか」
「あと二分少々で、刑事らは麗香さんに構ってなどいられなくなるんです」
「こりゃまた、突拍子もない話だな。予知能力とか言いだすのかい?」
「わたしたちは非科学的な思念のすべてを排除し、徹底して科学的であろうとしています。オカルティズムは専門外です。ただし、歴史上起こりうることを前もって知る立場にはあります。歴史そのものをつくりだす存在ですから」
「……あのう。何を言いだすんだい、ポアさん」
「幸太郎さんは、メフィスト・コンサルティング・グループについてご存じでしょうか」
「メフィストって……ああ、世界的なコンサルティング企業じゃなかったっけ? あらゆる流行をクライアントの意のままに作りだすとか。日本支社はたしか赤坂に……」
「表向きはたしかにそうです。しかしながら、メフィストの本分はそこではありません。特殊事業課なる部署が、全世界、全人類の生活のあらゆる段階に工作員を送りこみ、心理学的な煽動《せんどう》を用いて歴史をある一定の方向に導いているのです。わたしたちは常に歴史の陰に暗躍し、決して表社会にその存在を嗅《か》ぎつけられたりすることはありません。工作活動の証拠を残すこともないのです。すべては、気づかれないうちに人を操り、意志とは無関係の行動をとらせることによって、シナリオどおりの歴史を築いていくのです」
しんと静まりかえった室内。しらけているといったほうが正確かもしれない。幸太郎はまたしても呆気《あつけ》にとられるばかりだった。
「ポアさん、そのう、その手の話なら昔『ムー』って雑誌で読んだことあるけどさ。太平洋戦争とか、戦後復興とか、バブル景気とその後の不況とか、ぜんぶ秘密結社が関与してるとかいう記事を……」
「関与じゃありません。計画し実行したんです。全世界のバランスの維持および、主に欧米に存在する有数のクライアントの需要に応じるために」
「……ポアさんがその工作員だとでもいうのか?」
ポアは静かにうなずいた。「ええ」
「ありえないよ。きのう、求人掲示板の書きこみを見てここに就職を決めたんだろ? こんなところに来たって、麗香と僕がいるだけだし……」
「その麗香さんが重要なの」
「彼女もメフィストの工作員だとでもいうのかい?」
「いいえ。でも麗香さんは、わがグループ系列企業にとってきわめて重要な存在。片時も目を離すわけにはいかないのです」
幸太郎は口をつぐんだ。
きのうからきょうにかけて、あまりにも常軌を逸した事態の連続だ。しかも、ポアから聞かされた話はずばぬけて荒唐|無稽《むけい》だった。
「けどさぁ」幸太郎はいった。「心理学で人類を煽動するのかい? そんなこと唐突に言われてもなあ。だいたい、心理学なんてものはいい加減で、こじつけじみた理論が多いって話だし……」
その瞬間、ポアの瞳《ひとみ》が不自然な変化を遂げたのを、幸太郎はまのあたりにした。虹彩《こうさい》が縮小と拡大を繰り返し、眼球は素早く上下左右に動いた。
それも一瞬のことにすぎず、ポアは落ち着き払った声でいった。「あなたは焦りと緊張を感じながら、外にでた麗香さんの身を案じている。弁護士に相談したいとも思ったけど、どこに電話してどのように手続きをとればいいかわからないし、お金もないから断念せざるをえないと感じている。それと、Sクラスからオロチに乗り換えたのを残念がってる。オロチはスマートキーじゃなく普通のキーで、そのため先端でドアの把《と》っ手《て》付近に傷をつけてしまったけど、それが麗香さんにバレるのを恐れている」
「あ、ど、どうしてそれを……。監視してたのか?」
「いいえ。上まぶたが上がって、下まぶたはかすかに痙攣《けいれん》している。顎が下がって口が開き、唇は水平方向に伸びている。そんな表情が生じるってことは、怯《おび》えの感情が生じているからです。さっきから何度もポケットのなかのキーをいじりながら、後悔の念を浮かべていることもわかってます。つまりは、キーでなんらかの失態を演じて、麗香さんの怒りを買うことに恐怖していたとわかったのです」
「僕の表情から、感情を完璧《かんぺき》に読んだってことかい!?」
「メフィスト・コンサルティングの正社員ならば、当然身につけている技術です」
「たしか同じ特技で有名になってるカウンセラーさんがいるけど、彼女も……?」
「岬美由紀ですね。彼女は違います。わたしたちメフィストとは何度か接触していますが、決して理念の交わることのない存在です。わたしたちは歴史を創造し、彼女は破壊します」
「すると、人知れず千里眼対メフィスト・コンサルティングの闘いでも繰り広げられてるってことかい?」
「的確な表現です」
「んな馬鹿な! この世の中がメフィストに操られてるだって? 俺が就職できなかったり、ハローワークで京城さんに会ったりしたのも偶然じゃなかったってのか?」
「そういう意味ではありません。わたしたちが操作をおこなうのは歴史上必要となるターニングポイントのみです。四六時中、取るに足らない庶民の生活まですべてをコントロールするわけではありません。歴史の流れを作ってやれば大衆はほとんどが迎合し、そのまま流されて生きるだけですから」
「酷《ひど》い言われようだな……」
「ごめんなさい。でも事実なんです」
「京城麗香さんは例外ってことなんだよな? 彼女はメフィストにとって、どんな存在なんだ?」
「それを説明するのは困難です。ある意味では、わたしたちにもそれがあきらかでないから、彼女を重要人物とみなしているというか……」
「ああ、もう。わかんないよ。信じられないことばかりだ。それに理解もしがたい。ええと、待ってくれよ。きみがここに来たのは偶然じゃないんだな? 京城麗香に近づくために、就職希望をだしたってわけか? 不法就労の韓国人女性みたいに頼りない立場に見えたのも偽装で、じつはメフィストが送りこんできた工作員だってのか? しっくりこないよ。もっとわかりやすくいってくれよ。あんた何者だ?」
ふいにポアは真顔になり、幸太郎をじっと見つめた。「涼宮《すずみや》ハルヒの監視役に送りこまれた長門有希《ながとゆき》のような立場。ご理解いただけましたか?」
「あ……ああ。すごくわかりやすかった……」
ポアがアニメオタクとは思えない。こちらの趣味や嗜好《しこう》にあわせて、あらゆる比喩《ひゆ》を可能にする知識を身につけていると見るべきなのだろう。まだ百パーセント信じる気になったわけではないが……。
そのとき、パトカーのサイレンの音が鳴りだした。窓の外から響いてくる。
窓辺に駆け寄り、眼下に目を向ける。
雑居ビルの前、麗香を乗せたセダンが、パトカーの先導につづいて走りだしていく。
「行っちまうよ」と幸太郎は思わず叫んだ。
次の瞬間、ポアがいきなり腕を幸太郎の首にからめてきた。
幸太郎はのけぞった。まさか、俺も失神させようというのか?
だが、ポアは首を絞めあげようとはせず、そのまま幸太郎を後方に引き倒した。「窓から離れて!」
なんのことだ。
そう思ったとき、突き上げるような衝撃が襲った。轟音《ごうおん》とともに、ビルは激しく揺れだした。