西之原夕子は事務所の机に頬杖《ほおづえ》をついていた。
さっきから外が騒々しい。ポアが怪獣のごとく暴れまわっているようだった。岬美由紀を追いまわし、駆除しようとしているに違いない。
いい気味。あんな女、死んでくれたほうが胸がすっとする。
ただし、気分はいっこうに昂揚《こうよう》しなかった。
楽しくない。
ポアはジェニファー・レインの送りこんできた部下のようだったが、どうしてわたしにその事実を伏せていたのか。わたしを監視し、値踏みするつもりだったのか。
ポアも状況によっては、正体を明かさないまま姿を消すことも考えていたのだろうか。
騙《だま》されるのはなにより嫌だ。馬鹿にされているようで腹が立つ。
「なあ」と幸太郎が声をかけてきた。「いまからでも遅くはないよ。警察に行ってさ……。そのう、自首っていうか……」
思わずため息が漏れる。「幸太郎、あんた馬鹿? 容疑者が特定されてるときは自首じゃなくて、出頭になるの。たいして減刑にもつながんないし」
「それでもさ……ずっとこんな場所に隠れているわけにもいかないし……」
「だから、この世の常識を超越した領域に行くって言ってるでしょ」
「どこなんだよ、それは」
「さあ。場所じゃなくて、立場っていうか、まあ何が待っているのかよく判らないんだけどね。トム・スレーターの恋人になるのはもううんざりだから、ほかになにか希望ださなきゃ。なにがいいかなー」
「きみはメフィ……っていうか、ポアさんの仲間に迎えられるかもしれないけど、俺のほうはどうなる?」
夕子は黙りこんだ。
幸太郎の今後。考えたこともなかった。
「さあ……ね。あなたは別に、特筆するに価する才能もないみたいだし、要らないんじゃない?」
「ちょっと待てよ。そんな無責任な……」
そのとき、戸口に足音がした。
全身、砂埃で真っ白になったポアが、息を弾ませながら入室してきた。
頬を擦りむき、目は血走り、あたかも戦場から帰ってきた兵士のようでもあった。
「お聞きしました」ポアはオートマチック式の拳銃《けんじゆう》をとりだすと、その銃口を幸太郎に向けた。「あなたがなんらかの意図があって選抜した人材かと思っていましたが、違うようですね。ここで処分します」
幸太郎は恐怖のいろを浮かべ、身をちぢこませた。「な、なんだって? ちょっと。ポアさん、冗談きついよ」
「そうよ」夕子はあわてる自分の声をきいた。「なにも殺すことないんじゃない?」
ポアは、心外だというような目で夕子を見やった。「おや。グレート・ジェニファー・レイン女史から伺っていたあなたの人格では、他者を踏み台にして使い捨てることになんの躊躇《ちゆうちよ》もしめさないはずですが。お心変わりでも?」
夕子は戸惑いとともに押し黙った。
幸太郎が焦燥のいろを浮かべていう。「か、変わったと言ってくれよ、京城さん、じゃなくて、夕子さん。こんなのってヘンだよ。人を撃つとかそんなことさせちゃいけないよ。花火だって人に向けちゃいけないのに、こんな物騒なものを向けてくるなんて……」
「いいから黙って!」と夕子は怒鳴った。
しんと静まりかえった室内。夕子は、怯《おび》えきった幸太郎を見つめていた。
こんな男、関係ない。
わたしはいままで大勢の男を切り捨ててきた。利用価値がなくなったら、それまでだ。
向こうがどれだけすがりついてきても、決して振りかえろうとはしなかった。
罪悪感もない。騙されるほうが悪い、それが世の中だ。
でもいま、幸太郎は殺されようとしている。
命まで奪うなんて、考えたこともなかった。
それでも、切り捨てた男が生きようが死のうが、いっこうにかまわなかったはずだ。
いまになって、どうしてこんなに迷いが生じるのだろう。
いや、迷っているわけではない。わたしの気持ちははっきりしている。
わたしは……。
そのとき、窓からなにかが飛びこんできたのを夕子は見た。
風のように迅速に、それは幸太郎のもとへと疾走した。
豹《ひよう》を思わすような身のこなし。
一瞬のちに、岬美由紀だとわかった。
ポアは美由紀に向けて発砲したが、着弾は一瞬ずつ遅れていた。美由紀が通過した直後に、その向こうの事務机が弾《はじ》け飛び、書類が宙に舞った。
美由紀は幸太郎を抱きかかえるようにして、戸口に向かって突進した。
なおもポアがその背後に銃弾を浴びせようとする。
数発発砲、狙いは逸《そ》れた。
ようやく仕留められるかというとき、カチリという鈍い音がした。
弾切れのようだった。
拳銃を投げ捨てて、ポアはふたりを追うべく戸口を駆けだそうとしている。
とっさに夕子は声をかけた。「ポア!」
ポアは足をとめ、振りかえった。
「そのう」夕子はいった。「わたしを……独りにしていいの? あなたはわたしを守りに来たんでしょ」
しばし黙りこくっていたポアは、真顔でかしこまって頭《こうべ》を垂れた。「仰せの通りに」
そんなポアのようすを見て、ようやく夕子はほっとため息をついた。
いいところに岬美由紀が飛びこんできてくれた。
あのままだったら、幸太郎は……。
どこか訝《いぶか》しそうなポアの視線に気づき、夕子はそ知らぬ顔をつとめた。「と、とにかく、あなたたちが何を望んでるのか知らないけどさ。わたしに来てほしかったら、あんまり騒動を大きくしないでくれる? わたし、騒がしいの嫌いなんだよね。わたしのために争わないでよ」
ポアは夕子をじっと見返していたが、机につかつかと向かうと、引き出しからマイクを取りだした。
そんなものが事務机のなかに用意されていたとは意外だったが、ポアは無表情でそのマイクを夕子に差しだしてきた。
「なにこれ?」と夕子はきいた。
「ここにはカラオケの設備もあります。気分が乗ったときには、歌をお歌いになるそうですから、ご用意しておきました」
そういってポアが指を鳴らすと、どういう仕組みになっているのかBGMが鳴りだした。
なんとも古めかしいイントロだった。
ほどなく河合奈保子の『けんかをやめて』という曲だと気づく。
「けんかをやめてー、二人を止めてー……」少しばかり歌ったあと、夕子は嫌気がさしてマイクを投げだした。「アホらし。やめてよ」
もういちどポアが指を鳴らし、BGMはやんだ。
「お気に召しませんか?」とポアがきいた。
「ええ。全然」
それよりも気になることがある。ここにはスピーカーもなければカラオケの機器もない。どこから音が聞こえてきたのだろう。指を鳴らしてスイッチをオンにできる仕組みなのだろうか。
考えあぐねていると、ポアが夕子の心のなかを見透かしたようにいった。「わたしどもはあらゆる物理的トリックで環境を変異させ、そこにいる対象人物の心理を操作します。どのような準備も可能であり、しかも物証を残しません」
「きのうの地震と同じように?」
「そのとおりです」
「まあトム・スレーターと引き合わせてくれた時点で、あなたたちに不可能がないってのはわかってるけどさー。でも、なんかつまんなかったんだよねー。で、帰国しちゃったわけだし。やっぱ、普通に生活してるほうがましって気分」
「ご冗談を。あなたは戻りたいと思っておられる。ジェニファー・レイン女史のもとに。そうでしょう?」
夕子は内心いらいらしていた。
ポアも岬美由紀と同じように、こちらの思考を読んでいるかのような態度をとる。
「西之原様」とポアがいった。「レイン女史があなたに対し何をお望みなのか、そもそもわたしたちが何を目的としているのか、興味がおありでしょう。わたしたちは人類の歴史を作っているのです」
「歴史……?」夕子は苦笑してみせた。「あいにく、地理歴史の成績って最悪だったんだよね。南フランスで発見された人類化石は何人《なにじん》か、って問題があってさ。正解はクロマニヨン人だっけ? でもわたし、何人《なんにん》かって読んじゃって、百人って答えたんだよねー」
「ウィットに富んだ秀逸なお答えです」
「……無理に褒めようとしてない?」
「いいえ」とポアは真剣なまなざしで夕子を見据えた。「過去の歴史など学ぶ必要はありません。歴史は、わたしたちの手で創造するのですから」
風のように迅速に、それは幸太郎のもとへと疾走した。
豹《ひよう》を思わすような身のこなし。
一瞬のちに、岬美由紀だとわかった。
ポアは美由紀に向けて発砲したが、着弾は一瞬ずつ遅れていた。美由紀が通過した直後に、その向こうの事務机が弾《はじ》け飛び、書類が宙に舞った。
美由紀は幸太郎を抱きかかえるようにして、戸口に向かって突進した。
なおもポアがその背後に銃弾を浴びせようとする。
数発発砲、狙いは逸《そ》れた。
ようやく仕留められるかというとき、カチリという鈍い音がした。
弾切れのようだった。
拳銃を投げ捨てて、ポアはふたりを追うべく戸口を駆けだそうとしている。
とっさに夕子は声をかけた。「ポア!」
ポアは足をとめ、振りかえった。
「そのう」夕子はいった。「わたしを……独りにしていいの? あなたはわたしを守りに来たんでしょ」
しばし黙りこくっていたポアは、真顔でかしこまって頭《こうべ》を垂れた。「仰せの通りに」
そんなポアのようすを見て、ようやく夕子はほっとため息をついた。
いいところに岬美由紀が飛びこんできてくれた。
あのままだったら、幸太郎は……。
どこか訝《いぶか》しそうなポアの視線に気づき、夕子はそ知らぬ顔をつとめた。「と、とにかく、あなたたちが何を望んでるのか知らないけどさ。わたしに来てほしかったら、あんまり騒動を大きくしないでくれる? わたし、騒がしいの嫌いなんだよね。わたしのために争わないでよ」
ポアは夕子をじっと見返していたが、机につかつかと向かうと、引き出しからマイクを取りだした。
そんなものが事務机のなかに用意されていたとは意外だったが、ポアは無表情でそのマイクを夕子に差しだしてきた。
「なにこれ?」と夕子はきいた。
「ここにはカラオケの設備もあります。気分が乗ったときには、歌をお歌いになるそうですから、ご用意しておきました」
そういってポアが指を鳴らすと、どういう仕組みになっているのかBGMが鳴りだした。
なんとも古めかしいイントロだった。
ほどなく河合奈保子の『けんかをやめて』という曲だと気づく。
「けんかをやめてー、二人を止めてー……」少しばかり歌ったあと、夕子は嫌気がさしてマイクを投げだした。「アホらし。やめてよ」
もういちどポアが指を鳴らし、BGMはやんだ。
「お気に召しませんか?」とポアがきいた。
「ええ。全然」
それよりも気になることがある。ここにはスピーカーもなければカラオケの機器もない。どこから音が聞こえてきたのだろう。指を鳴らしてスイッチをオンにできる仕組みなのだろうか。
考えあぐねていると、ポアが夕子の心のなかを見透かしたようにいった。「わたしどもはあらゆる物理的トリックで環境を変異させ、そこにいる対象人物の心理を操作します。どのような準備も可能であり、しかも物証を残しません」
「きのうの地震と同じように?」
「そのとおりです」
「まあトム・スレーターと引き合わせてくれた時点で、あなたたちに不可能がないってのはわかってるけどさー。でも、なんかつまんなかったんだよねー。で、帰国しちゃったわけだし。やっぱ、普通に生活してるほうがましって気分」
「ご冗談を。あなたは戻りたいと思っておられる。ジェニファー・レイン女史のもとに。そうでしょう?」
夕子は内心いらいらしていた。
ポアも岬美由紀と同じように、こちらの思考を読んでいるかのような態度をとる。
「西之原様」とポアがいった。「レイン女史があなたに対し何をお望みなのか、そもそもわたしたちが何を目的としているのか、興味がおありでしょう。わたしたちは人類の歴史を作っているのです」
「歴史……?」夕子は苦笑してみせた。「あいにく、地理歴史の成績って最悪だったんだよね。南フランスで発見された人類化石は何人《なにじん》か、って問題があってさ。正解はクロマニヨン人だっけ? でもわたし、何人《なんにん》かって読んじゃって、百人って答えたんだよねー」
「ウィットに富んだ秀逸なお答えです」
「……無理に褒めようとしてない?」
「いいえ」とポアは真剣なまなざしで夕子を見据えた。「過去の歴史など学ぶ必要はありません。歴史は、わたしたちの手で創造するのですから」