夜九時をまわった。
この時間になると、銀座四丁目交差点も人通りが少なくなる。高級ブランド品を扱う店が軒並み閉店するからだ。
夕子にとって銀座は、渋すぎて足を運ぶ機会のない場所のひとつだった。ブランドに興味はあっても、品揃えがしっくりこない。見るからに育ちのよさそうな人間が往来しているのも鼻持ちならなかった。
和光の時計台へと、ポアは夕子を誘《いざな》っていった。
ポアは立ちどまり、夕子に告げた。「グレート・ジェニファー・レイン女史は松屋銀座でのお買い物がお好みです。先日もロレックスのレディースウォッチを購入されました」
「ふうん。牛めしの松屋なら詳しいんだけどね。肉野菜|炒《いた》め定食がなかなか美味《おい》しいんだけど。わたしがなにをいいたいか判る?」
「ええ」ポアはにこりともせずにいった。「庶民に縁遠いセレブぶった態度がお気に召さない、そう仰りたいのでしょう。ご忠告しておきますが……」
「なによ」
「松屋の肉野菜炒め定食は八百六十六キロカロリーもあります。豚|生姜《しようが》焼定食なら七百二十二キロカロリーに抑えられますから、メフィスト・コンサルティングとしてはそちらを推奨します。豚汁一杯だけでも二百七十八キロカロリーもあることもお忘れなく」
夕子は沈黙せざるをえなかった。
大衆向け食堂から物置の品揃えまで、あらゆることに精通しているのはたしかなようだ。
それでも、本当に人類の歴史を動かしているという証明にはならない。というより、そのような突拍子もない話には、どこか胡散《うさん》臭さがついてまわる。
ジェニファーらが特殊な地位にいることはあきらかだが、歴史の操作が可能なほどの権限を有しているとは信じがたかった。
すると、ポアがまた夕子の心のなかを察したようにいった。「案ずることはありません。メフィスト・コンサルティング・グループ各社の特殊事業課がこの世の未来を担っているというのは、紛れもない事実なのですから」
「へえ。ねえちょっと、ポア」
「なんでしょうか」
「あなた、たびたびわたしの気持ちを見抜いているようなんだけど。テレパシーでも身につけてる?」
「表情や声のトーンから感情を推し量る技能を有しているというだけです。レイン女史もあなたの心は正確にお読みになられますから、真意と異なる返答は慎まれたほうがいいですよ」
嘘などつくなという警告。言葉は丁寧だが、いちいち遠まわしに強制力を発揮したがる。
「それで、歴史を作る人とこんなところで待ち合わせ?」
「いえ。いますぐにお連れします」
ポアがそう告げて、和光前の石畳の床を軽く靴のかかとでノックした。
いきなり、がくんと落下する衝撃が襲った。
夕子は悲鳴すらあげられなかった。
垂直の落下は唐突かつ急激なものだった。足場を失ったわけではない。踏みしめる石畳ごと、夕子とポアの周囲一メートル四方ほどがエレベーターのように下降したのだ。
足場は、夕子がバランスを崩さないていどに減速し、暗い地下で静止した。
直後に、吐き気のようなものがこみあげてきた。
「初回はやむをえません」ポアがいった。「慣性の法則によって、内臓がわずかに押しさげられます。嘔吐《おうと》感をともなうこともございます」
「ございますじゃなくて、現に気分悪いんだけど」
「息を大きく吸ってください」
いわれたとおりにしながら、頭上を見あげた。
地上への出入り口はすでに閉ざされ、天井は真っ暗だった。
「銀座の地下を掘りかえして、こんな場所造ったっての?」
「ここはいわゆる幻の地下街です。わたしたちが手を加えたのは、いましがた利用した油圧式の侵入路だけです」
「幻の……。ああ、東銀座方面につづく地下二階の通路だっけ? いちども使われたことなく閉鎖されてるとか」
「そうです。昭和に入り、消防法が改正された結果、地下街の末端には地上への出入り口を設けねばならなくなりました。この地下街にはそれがなかったので、放置されたままなのです」
「行く手はダンジョンにでもなってるの? 武器屋でロトの鎧《よろい》でも買ってこっかな」
「……ロトの鎧は防具屋だと思いますが」
いちいち冗談の通じない性格だ。
夕子は歩きだした。「魔法の鍵《かぎ》がなきゃ開かない扉とかないでしょうね。っていうか、化け物倒すぐらいの力あるなら扉ぐらいこじ開けろってんだよね、あの手の勇者は」
と、ポアは立ちどまったまま頭を垂れた。「いってらっしゃいませ」
「一緒に来ないの?」
「レイン女史は、夕子様お独りとお会いしたいと」
ますますRPGじみている。
そう思わせることにもなんらかの意図があるのか。
「じゃ、またね」夕子はぶらりと歩を進めた。
しだいに目が慣れてきて、薄暗いなかにも通路の行く手はおぼろげに浮かびあがっている。
昭和三十年代か四十年代を思わせる古臭い印象漂う商店街。看板にはなんの文字も入っておらず、シャッターもすべて閉ざされている。それでも床は綺麗《きれい》だった。わずかな明かりを反射して輝いている。
やがて、大きな観音開きの扉へと行き着いた。
夕子がその扉に達する寸前、扉は音もなく自然に開いた。
その向こうは、洋館のエントランスホールを思わせる空間だった。吹き抜けの天井にぶらさがったシャンデリアが灯《とも》す明かりで、辺りのようすははっきりとわかる。
床はエンジいろの絨毯《じゆうたん》。そこかしこに調度品が並んでいる。中世から近世にかけての北欧調だった。
壁の額縁に掲げられた絵画にはなぜか、この内装にそぐわない極端に前衛的なものが含まれている。
螺旋《らせん》階段が上方に伸びていて、二階のバルコニーが見えている。
そこに、ひとりの女がたたずみ、こちらを見下ろしていた。
深紅のドレススーツを着た、スーパーモデルのようなプロポーションを持つ派手な女。年齢は三十代半ばぐらい。化粧の濃さはこの距離からも明確に見てとれる。やたらと大きな瞳《ひとみ》、寸前にセットしたかのような長い髪のウェーブは、女性雑誌の表紙から抜けだしてきたかのようだった。
「ひさしぶりね」ジェニファー・レインは、どこか冷ややかな響きのこもった日本語で告げてきた。
「ま、そうね」夕子はその場にたたずんだまま、ジェニファーを見あげた。「こんなところに住んでんの? 銀座の一等地じゃん」
「ここはわたしたちの利用するカンガルーズ・ポケットのひとつにすぎないわ」
「カンガルーズ・ポケット?」
「あなたにもそのうちわかるわ。もしあなたが、わたしたちの仲間として迎えられることがあればね」
「もし? どういうことよ。こうして戻ってきてあげたんじゃん。もとはといえば、あなたがわたしに興味をしめしたんでしょ」
「以前はね。いまはどうかわからないわ」
「なによそれ」
「夕子。なぜ明朝、鳥沢幸太郎に会う約束をしたの」
「そんなのわたしの勝手でしょ。プライベートにまで口をはさむつもり?」
「鳥沢幸太郎は岬美由紀と一緒にいる。好ましい選択とは思えないわ」
「嫌なら帰るわよ。わたし、ポアとの交渉で、あなたたちのもとに戻るってことを約束させられたけど、なにもかも言われるままに従うとは言ってないわよ。仮契約の四十億円がわたしの口座に振りこまれたのをネットバンキングで確認したから、まあ受けてもいいかって思っただけ」
「あなたはメフィスト・コンサルティング・グループの一員となる契約に同意した。いまさら撤回はきかない」
「レッドソックスの松坂なみに期待されてるみたいね。悪い気はしないけど」
ジェニファーは表情ひとつ変えなかった。「夕子。あなたはメフィストになにを求められているかわかる?」
「さあね。歴史を変えるとかなんとか、そのために必要な詐術に加担してくれっていうだけでしょ。あなたたちはわたしをこっそり見張ってて、男を手玉にとったり賃貸物件をタダで借りたりする手並みを見て、スカウトする気になった。しょせん詐欺師の親玉と子分の関係。そんなもんでしかない」
「ずいぶんわたしたちの存在を軽んじているのね。それに、あなた自身の存在も」
「そりゃそうでしょ。わたし、そこまでの器じゃないじゃん。っていうか、極悪非道な知能犯だったら他をあたれば? それでもわたしに執着するのは、ジェニファー・レインさん、あなたに個人的な理由があるからじゃない?」
「なんのことかしら」
夕子は思いつくままにいった。「あなたさ、わたしと同じ病気でしょ」