長いあいだ、ジェニファーは無言のまま夕子を見おろしていた。
微動だにしないその姿は、一枚の絵画のようでもあった。
「病気?」ジェニファーはぶっきらぼうにたずねた。「どんな?」
しらばっくれてやがる。夕子はふんと鼻を鳴らしてみせた。「自己愛性人格障害。そうでしょ? あなた、わたしと同じ匂いがするもの。いつも自分を飾るだけ飾って、うぬぼれが強くて、次から次へと富とか名声とか追い求めたがる。自分にしか興味持てないんだよね。たいへんよね、この症状って。ほかに趣味らしい趣味持てないし。自分が褒められることに直結しないと、なにも楽しくない」
「……わたしがそこまで単純だと思う?」
「そりゃもう。単純も単純、シンプルの極みっていうやつ。だから、腹黒くても見え見えなんだよね。考えてること、似通ってるし。あなたが求めてるのって、わたしじゃなくて岬美由紀でしょ」
「あんな女を、わたしが仲間に欲すると思う?」
「違うって。そうだなー、強いていえば彼女の能力、千里眼の女が起こしてくれる奇跡ってやつだっけ? 岬美由紀ってすごいんだよねぇ。才色兼備で、非の打ちどころなくて、しかもどんな問題も解決するじゃん。あなたはさ、岬美由紀にわたしを救わせたがってるわけよ」
「そこにどんなメリットがあるというの?」
「大ありじゃん。あなたはわたしと同じ自己愛性人格障害。完治が極めて難しい、偏った人格の持ち主なんだよね。そんじょそこいらの精神科医や臨床心理士じゃお手上げってやつ。自分を特別な存在に祭りあげてないと気が済まないから、世紀の犯罪者か歴史をつくる神でも自負してないと、アイデンティティを保てない。完全に病気よね。でも、岬美由紀ならきっとなんとかしてくれる。メフィスト・コンサルティングって岬の天敵なんでしょ? 彼女はわたしを是が非でも助けようとする。その過程で秘密がわかる。自己愛性人格障害を治療する方法がね」
「わたしがそれを知りたがっているっていうの?」
「そうよ」胸がむかむかする。夕子はこみあげてくる怒りとともにいった。「なにさ、さんざんわたしをたぶらかして、おだてておいて、結局は自分のためじゃん。人を利用して楽しい? いえ、楽しいとかそういうことじゃないよね。生きていくための糧みたいなものだもんね。よくわかるわ、わたしも同じだから」
「まるっきり人を信用しないのね」ジェニファーは言葉を切り、それからつぶやくようにいった。「理解できるわよ。わたしもあなたを信用してない」
「……ついに認めたわね。やっぱそうだったわけ。あなたなんか、ただ人に依存したいだけの小悪党よ」
「対象を理想化しては軽蔑《けいべつ》化する。自己愛性人格障害の特徴ね」
「あなたと同様にね、ジェニファーさん」
「自己愛性人格障害は、メフィスト・コンサルティング・グループ特別顧問に必要不可欠な条件でもあるの。人を超越し、神となるべき役職だから」
「その特別顧問ってのがなにをするのかよく知らないけどさ、自己愛性人格障害を心の支えにするにも限界が生じてきたってことでしょ? 行き詰まったから、治療してそこから抜けだしたいんじゃん。自分の病を治せない神様か。医者の不養生と同じだね。っていうか、神様も最終的に頼るのは岬美由紀だったってわけ。凄《すご》すぎよねぇ岬美由紀って」
「あなたは岬美由紀に治療法を提示されたら、おとなしく従うわけ?」
なぜかかちんとくる物言いだった。
「冗談。言うとおりにするわけないじゃん。わたしは治す必要なんて感じてないし。まして、あなたの利益につながるとわかっていたらなおさら。わたし、あなたのためにモルモットになるつもりないから」
「結構ね。それなら契約に従って、メフィスト・コンサルティングに忠誠を誓わざるをえなくなる。テストに合格すればの話だけど」
「テストって……」といいかけたそのとき、夕子は背後に人の気配を感じた。
振りかえると、そこには身長二メートルを超える大男が立っていた。
男は中東の民族衣装風の服装で、実際に顔つきはアラブ系のようだった。赤と黒、黄、白の派手な色づかいのその衣装は、長く大きなスカーフを頭からかぶることで、さらに特異な雰囲気をかもしだしている。
「アントニオ」ジェニファーがいった。「例のテストを」
アラブ顔の男はうなずいて、手にしていた救命胴衣を夕子の身体に装着しにかかった。
「ちょっと」夕子はあわててたずねた。「なにすんの? やめてよ!」
ジェニファーは冷淡な態度のままだった。「そのアントニオは中央アジア支社から出向してきた判定官なの。公正かつ厳正な審査をおこなってくれるわ」
「審査ってなによ。もし受からなかったらどうなるっての?」
「わたしたちの秘密を知った以上、そのまま歴史の表舞台に復帰させることはできない。気の毒だけど、そのときには生命を摘み取るしかないわね」
「そんなことできないわよ。わたしが死んだら、あなたの自己愛性人格障害は永久に……」
喋《しやべ》ることができるのもそこまでだった。
夕子はアントニオに担ぎあげられ、ホールのなかを運ばれていった。
戸口のひとつを入ると、そこは中世の監獄のように石造りの天井と壁に囲まれた通路だった。
通路の床には正方形の穴が開いていた。
まさか。
そう思ったとき、夕子はアントニオによってその穴に放りこまれた。
落下は、甲高い自分の悲鳴とともに始まった。
ぐんぐん加速する。
まだ落ちていく。
滞空時間は限りなく長く思えた。
竪穴を落下していく自分。もがいて手足をばたつかせても、どうなるものでもなかった。
やがて、足から固いものに叩《たた》きつけられた。
そのまま身体が潰《つぶ》れてしまうのではと思ったが、そうはならなかった。視界にひろがったのは、水中の気泡だった。耳鳴りのように聞こえるのは、水のなかの音だ。
息ができず、苦しくなってむせた。水を飲みこみ、さらに息があがる。
必死でもがいたとき、救命胴衣の浮力に助けられ、夕子は水面に顔をのぞかせた。
ぜいぜいと呼吸しながら、頭上を見あげる。
深い竪穴の底。出口ははるか遠くにあった。
それでもここは、本当の底ではないのかもしれない。足が床についていない。水はどれだけ溜《た》まっているのだろう。
暗闇のなか、ジェニファーの声が響いてきた。「質問に正解すれば、そこまでのタイムラグに応じて水位が上がる。早く答えれば、それだけ上昇の度合いも大きい。反対に、不正解なら水位は下がっていく」
「ふざけないでよ!」夕子は憤りとともに怒鳴った。「なにこのTBSみたいな企画。ばっかじゃないの。罰ゲームなんて受ける気ないから。さっさとここから出して!」
ジェニファーの声はつづいていた。「穴まで浮上したら自力で抜けだせる。それまでは正解をつづけなきゃならない。見てのとおり、壁は滑りやすくて足場はいっさいない。昇ろうなんて思わないで。それと、いちどだけヘルプを使うことができる」
「ヘルプ?」
「あなたの望んだ助っ人をひとり呼び寄せることができる。わたしとアントニオ以外でね」
「へえ。誰でもいいわけ? 岬美由紀でも呼んじゃおうかしら」
「むろんかまわないわ。規則だから」
夕子は苛立《いらだ》ちを覚えた。
ジェニファーは内心、美由紀を呼ばせたがっているに違いない。彼女がわたしにどんなことを話すのか、聞き耳を立てるつもりなのだろう。
「助けなんて必要ないから」と夕子は言い放った。
しばらく沈黙があった。
コンピュータの合成音のように抑揚のない声が、竪穴のなかに響く。「広島市で夏日を観測しているのに、北広島市では大雪注意報が発令されている。理由を述べよ」
「……アホくさ」夕子はつぶやいた。「北広島市ってのは北海道じゃん。札幌の隣り。明治以降に移住して開拓した人が故郷の地名をつけたんでしょ」
一瞬の間をおいて、頭上でなにかが作動する音がした。壁面に小さな穴がいくつか開いたように見える。
直後、それらの穴から水が噴きだした。滝のような水流。水面は波うちながら、ゆっくりと上昇しはじめた。
夕子は内心、ほくそ笑んだ。この程度か。
音声が出題をつづける。「警察無線で一七七といえばなにか」
その瞬間、夕子の脳裏に忌むべき光景がよみがえった。
思いだしたくもないあの地獄のような時間。
吐き気をもよおす悪夢。怒りと憎悪、屈辱にまみれた記憶。
額から鼻にかけて、縦に大きく切り傷のある男の顔。
その気色の悪い家畜のような吐息。
すべてが克明に想起された。
夕子は頭を振り、その記憶を追い払った。
すべては過去だ。もう思いだすことではない。
「答えよ」と音声が響く。
「……性的暴行。警察無線で一七七は、その発生を意味してる」
また水位が上昇した。
ただし、回答まで時間を要したせいか、今度の水の噴出はさほど激しくはなく、ほどなく止まった。
出題はつづく。「借金をしていても、給料が全額差し押さえられることはない。差し押さえは、債権の何分の一までか」
「四分の一。ねえ、これらの質問にはどんな意味が……」
「生命保険に加入して一年以内の自殺の場合、保険金はおりない。ただし、例外もある。どんなケースか」
「加入者が精神科に通ってた場合でしょ。これ何? なにかわたしの過去に絡んだ質問なの? それとも、ただのあてつけ?」
「ランドセルの語源は?」
夕子はふたたび嫌な気分に襲われた。
だが、今度はなぜそんな気持ちにさいなまれるのか、理由が判然としなかった。
どうしてだろう。不快感を伴う質問だ。なにか記憶に関わることのような気もするが、嫌悪感の生じた原因はあきらかではない。
ただし、答えはわかる。どこで覚えた知識かもはっきりしないが、回答することはできる。
「ランセル。オランダ語。貧民が拾ったものを入れるために使ってた革袋のこと。それがランドセルの名の由来」
水が流れ落ちてきて、水位は上昇しつづける。それでもまだ、ゴールは遥《はる》か先だ。
一問答えるたびに、二メートルほど上がっている。この調子だと、出口に達するまで必要な正解数は三十から四十というところか。
そう思ったとき、音声が告げた。「自分の意見を根拠なく多数派だと思いこむ心理的作用をなんというか」
夕子は戸惑い、口をつぐんだ。
わからない。知らない。心理学などに興味はない。
「し、心理作用? わかんないよ、そんなの。パス」
そのとき、ふいにゴボゴボと水面に泡が浮上した。
波が起きる。しかし、さっきまでとは状況が違う。
水位が下がっている。出口が遠のいていく。
「ちょっと、待ってよ! 心理学用語なんて知らないって言ってるでしょ!」
まだ下降は止まらない。正解を積み重ねる以前のスタート地点まで下がっても、なおも水は減りつづけている。
「待ってってば!」夕子は叫んだ。「汚いわよ、ジェニファー! わたしに岬美由紀を呼ばせようとしてるんでしょ。そのための心理学問題でしょ。違う?」
返答はなかった。竪穴のなかに響くのは、水が抜かれていくのにともなう泡の音だけだった。
「やめてよ、とめて!」夕子は必死で怒鳴る自分の声をきいた。「こんなことしても無駄だっての。わたしは岬美由紀なんかに救いは求めない! あの女の名前を呼ぶくらいなら溺死《できし》してやる!」