返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 作品合集 » 正文

千里眼129

时间: 2020-05-27    进入日语论坛
核心提示:美しく青きドナウ意識が少しずつ戻ってきた。美由紀はぼんやりと目を開いた。奇妙な感覚だ。浮遊している。足が地面を踏みしめて
(单词翻译:双击或拖选)
美しく青きドナウ

意識が少しずつ戻ってきた。
美由紀はぼんやりと目を開いた。
奇妙な感覚だ。
浮遊している。
足が地面を踏みしめていない。
それに、この籠《こ》もったような音。耳鳴りのようでもある。
顔に水滴がかかり、美由紀ははっとして目を凝らした。
そこは薄暗い竪穴のなか、首まで水に浸かっていた。
水面に顔をだしたまま、沈まずに浮かんでいるこの感覚。幹部候補生学校でのポンドという巨大なプールにおける訓練で経験した、その記憶のままだった。
浮力は、救命胴衣によって生じている。
襟もとに手をやる。救命胴衣の下は、マンションから連れ去られる前に着ていたスーツのままだった。
ずぶ濡《ぬ》れになって水を吸った服はそれ自体が重い。
薬品の効き目が残っているせいもあってか、身体の動きは鈍かった。
夕子の声が響いてきた。「ようやくお目覚めか。呑気《のんき》なものね」
美由紀は声のしたほうに身体の向きを変えた。
夕子はすぐ近くに、やはり救命胴衣を身につけて浮かんでいた。
「西之原夕子」美由紀は呆然《ぼうぜん》としてつぶやいた。「ここはいったい……」
「どこなのかって? さあね。銀座四丁目地下の幻の商店街の先にある、お屋敷のホールみたいなところのそのまた地下。メフィスト・コンサルティングとやらのテストだって」
「テスト?」
「そう。採用試験みたいなものかな」
そのとき、頭上から機械的な音声が聞こえてきた。「自分の意見を根拠なく多数派だと思いこむ心理的作用をなんというか」
「……なにこれ?」と美由紀はいった。
「早く」夕子が急《せ》かしてくる。「答えてよ」
「クイズに正解すればいいわけ?」
「まあそういうことね。正しければ水位があがってゴールが近づき、間違えば下がって遠のく。助っ人をひとり呼び寄せることができるってルールらしくてさ。で、あなたを呼んだわけ」
「わたしを? どうして」
「心理学の問題だし、それを望んでる女がひとりいるみたいだから」
「女……。ジェニファー・レインのこと?」
「いいから、さっさと答えて。正解してくれないと、あなたを呼んだ意味もないでしょ」
美由紀は頭上に目を向けた。
はるか遠くに四角い出口が見える。あそこまで達すればいいわけか。
それにしても、こんな方法が採用試験とは、つくづく常軌を逸している。いったいなにを調べようというのだろう。
ふたたび音声が告げてくる。「答えよ。自分の意見を根拠なく多数派だと思いこむ心理的作用をなんというか」
「フォールス・コンセンサス効果」と美由紀はいった。
壁づたいに水が流れおちてきて、水位が少しずつ上がりはじめる。
夕子は安堵《あんど》のいろを浮かべ、ため息を漏らしていた。
すぐに次の出題があった。「言い間違いや忘れ物などのミスは、その人の本音が表にでたものと考えられるが、これをなんと呼ぶか」
美由紀は夕子にきいた。「わたしが答えていいの?」
「ええ。何問でもヘルプにまかせていいって、アントニオとかいう男がいってた」
ふうん。美由紀はつぶやいた。
夕子はアラビア語を聞き取れるわけではない。アントニオは日本語も喋《しやべ》れるわけか。わたしに対してはなぜそうしなかったのだろう。
ぼんやりと考えながら、美由紀は出題に回答した。「失錯行為」
音声はただちに新しい問題を告げてきた。「好きなものを嫌いといってしまう心理的作用を……」
「反動形成」
「自分は汚くても他人の汚さは許せない心理のことを……」
「プリッグ症候群」
間髪をいれずに答えつづけたせいか、流れ落ちてくる水の量が一気に増えた。
滝のように浴びせかけられる水によって息もできないほどだ。おかげで水位も急上昇しつつある。おぼろげに見えていた出口も、はっきりと視認できるようになってきた。
しばし出題が途切れ、沈黙があった。
降り注ぐ水のなかで美由紀は夕子にきいた。「心理学の知識を試されてるわけ?」
「そうばっかりでもないわ。ほかのことも聞いてくる。一貫性がないように思えるけど……」
「けど、何?」
「べつに。なんでもない」
顔をそむけた夕子を、美由紀はじっと見つめていた。
どうしたのだろう。嫌悪のいろがわずかに浮かんだことはあきらかだ。
夕子は、なにかに気づいている。意識の表層までには昇っていなくても、無意識の領域では感じとっている。出題者の意図を。彼女にとって、忌むべきなんらかの状況にいざなわれつつあることを。
合成音が響いてきた。「北国の野うさぎを見れば季節がわかるというが、なぜか」
これまた妙な質問だ。
美由紀はいった。「そりゃわかるでしょ。全身が白くなっているのは冬の時期だけで、夏は薄茶色に生えかわるわけだし」
水は流れ落ちつづける。ゴールがまたわずかに近づいてくる。
質問も続行された。「服に付着した血をふき取るために有効な野菜は?」
「大根ね」
「その根拠は?」
「大根に含まれている成分のひとつ、ジアスターゼが血液を取り除くからよ」
「沖縄で使っていた量りを、北海道に運んだときにはどう調整すべきか」
「最大〇・一八グラム減らすの。北海道と沖縄ではそれだけ重力が違うから」
「失踪《しつそう》後七年経つと、人はどう扱われるか」
美由紀は思わず沈黙した。
なんだろう。ふいに自責の念に似た、妙な感覚がこみあげてきた。
自分自身になんらかの落ち度があっただろうか。
いや、ここまでのところ、なんのミスもないはずだ。
それでも、胸騒ぎを覚える。この心の不安定さはどこから生じたのか。
夕子に目を向けた。夕子も黙りこくって、心配そうな顔で見返してくる。
彼女がおぼろげに感じている懸念や心もとなさが理解できる気がした。たしかにこの出題には、なんらかの意図が見え隠れしている。
それもまぎれもなく、回答しようとするわたし自身に向けられたものだ。わたしのこれまでの人生に関わりがあること、そんなふうに思えてならない。
だが、具体的にはなにひとつ記憶に浮かんではこない。
「答えよ」音声は執拗《しつよう》に問いかけてくる。「失踪後七年経つと、人はどう扱われるか」
「し……死んだと同じ扱いになる」
音声は沈黙した。
しかし、美由紀の口にした答えは正しかったらしい。
水流はとめどなく、竪穴のなかの水かさを増やしていく。
そのとき、夕子がささやくようにいった。「気分が悪い……」
「だいじょうぶ?」美由紀は夕子の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「駄目みたい……。もう何時間も水に揺られて、吐きそう。プールでも一時間にいちどは休憩タイムがあるのに……」
夕子は咳《せき》こんだ。見るからに辛《つら》そうだ。
「しっかりして」美由紀は立ち泳ぎの要領で夕子に近づいていった。「熱でもあるの?」
美由紀は夕子に顔を近づけた。
ところがその瞬間、夕子は思いがけない行動にでた。
ふいに美由紀の唇に吸いつくようにしてキスしてきた。
突然の行為に、美由紀はあわてて身を引こうとしたが、身体は動かなかった。
夕子に抱き寄せられたまま、しばらくその姿勢で静止していた。
抵抗の意志が生じないこと自体、まったく不可解なことだ。
それでもほかに、どうすることもできなかった。
夕子にどんな意図があるのかも判りかねる状況で、突き放すことはできない、そう判断しているのかもしれない。
とはいえ、夕子が舌を絡めようとしてきたとき、さすがに美由紀はこのうえない不快感を覚え、もがくようにして夕子から離れた。
「なにをするの!」と美由紀は怒鳴った。
夕子は目に涙をためて、いまにも泣きだしそうな顔でつぶやいた。「わからない。でも寂しい。寂しくて、虚《むな》しいよ……。なんだかわからないけど、不安でたまらない」
美由紀は呆然《ぼうぜん》として、夕子を見つめた。
その言葉に嘘がないことはわかる。
けれども、なぜ彼女がこんな心理状態に至ったのか、それについては見当さえつかない。
むろん、このような閉塞《へいそく》感のある場所に閉じこめられて、長時間にわたり水責めを受けていれば、精神的負担はかなりのものになるだろう。
だがいまは、美由紀が連続して正解したことでゴールが近づきつつある状況だ。
それなのに、夕子の心は希望とは逆のベクトルへと向かっている気がする。
「どうしたっていうの、夕子。いまのはなぜ……」
「キスしたのは……別にあなたが好きってわけじゃないのかも。ユダだって、裏切りの前にイエスにキスをしたんだし」
「……不自然な喩《たと》えね。どうして聖書なんか持ちだすの? あなたらしくもない」
「ええ、ほんとにそう。なにもわからない。ただ……」
「なに?」
夕子は耳をすますような表情になった。「音楽が聴こえる。ワルツが……」
音楽。そんなものは、この空間には……。
いや。聴こえる。
たしかに、耳に届いている。
弦楽器トレモロによる伴奏、ホルンの奏でる主旋律。
しだいにそれが、ワルツのリズムを刻んでいく。
美しく青きドナウ。ニ短調の主部がしだいに大きく聴こえてきた。
さらに音量があがり、壮大なオーケストラによるワルツのメロディーが、竪穴のなかに反響する。
その向こうで、ぼそぼそと声がするのを聞きつけた。
出題の合成音声。しかし、ワルツが大きすぎてよく聞き取れない。
選択的注意の技能を試す気か。この音楽のなかで音声だけを聞き分けろというのだろう。
「美由紀……」夕子がささやいた。
「待って」美由紀は夕子を制し、聴覚を研ぎ澄まそうとした。
だがそのとき、美由紀のなかでなにかが警鐘を鳴らした。
わたしは、注意を向けるべき相手を間違っている。この状況に惑わされてはならない。
夕子に目を戻す。夕子はいつしか、顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。
美由紀はいった。「夕子。なんでも言って。わたし、あなたの言葉に真っ先に耳を傾ける。そう決心したから」
「嘘」夕子は泣きながらつぶやいた。「いまも無視したじゃん」
「ごめんね。でも、もうしない。約束するから。誰がなにを話しかけてきても、どんな状況でも、わたしはあなたを後まわしにしたりしない」
「どうしてそこまで言いきれる? 口だけかも」
「いいえ。わたし、あなたを助けるって心に決めたの。ほんとよ」
常識で考えれば、夕子を救うためにもまずはこの状況を抜けださねばならない。それには音声の告げてくる質問内容を聞き取り、正解しつづける必要がある。
夕子が理性的ならば、そのことを理解するはずだ。
だが、夕子はそんな状況を受けいれられない。彼女はどんな状況であれ、自分が望んだとおりになることを求めてやまない。
自分が問いかけたら相手が答える。その答えは、自分をあらゆる面で肯定し、褒め称《たた》え、勇気づけ、賛美するものでなければならない。
本能の充足。
子供と同じ。
夕子はことさらに、愛情というものに飢えている。だから理屈はともあれ、人の目が自分に向くことを望む。幼いころに、親に対してそう望んだように。そして、親が決してその期待に応《こた》えてくれず、願望だけが育ち、肥大化した。その夢想のままに。
ワルツはなおも音量をあげていき、騒々しいほどだった。その向こうで、読経のようにかすかに聞こえる音声がある。
その音声に集中するためには、夕子に注意を向けることを一時的にも断つ必要がある。
しかし美由紀は、その道は選ぶまいと決心した。夕子は物心ついて間もない幼児と同じだ。母親を必要としている。この場でその役割を受け持つことができるのは、わたししかいない。
ふと気になることがあった。
夕子が依存心を持つ相手は、本来わたしではない。彼女には、どうあっても愛情を通わせたい相手がいたはずだ。
「夕子。聞いて。あなたのお兄さんのことだけど……」
「お兄ちゃん? どこにいるの?」
「いえ、ここにはいないの。でも、呼ぼうと思えばできたはずよ。ヘルプは誰でもいいって、そういわれたんでしょ?」
「お兄ちゃんは刑務所のなかじゃん……」
「でも、メフィスト・コンサルティングなら、それも可能だったはずよ。あなたも、あいつらがとてつもない力を有していることを知ってるでしょ? なぜお兄さんを呼ばなかったの?」
「そんなの、駄目よ。できるわけないじゃん。こんなところで、水にゆらゆらと浮き草みたいになるなんて……」
「お兄さんをそんな目に遭わせたくないってことね? 心から愛してるのね」
「……違うって。あなたは根本的に考えがずれてるよ、岬美由紀。そりゃ、お兄ちゃんのことは好きだけどさ。わたしのこの惨めな恰好《かつこう》を見せたくないっていうだけ。こんなざまを、お兄ちゃんに見せられるわけないじゃん」
兄に自分の姿、それも自己の美意識を充足させる姿を見せつけたいという、飽くなき欲求とこだわり。
それが兄からの愛情を得るために不可欠な要素と信じているのだろうか。
美由紀はきいた。「どんな状況で、お兄さんと会いたいと思う?」
「決まってるでしょ。頭の上からつま先まで、完璧《かんぺき》なファッションに身を包んでさ。高級ブランド品で全身を固めて、お兄ちゃんよりかっこいい彼氏連れて、会いに行くの。お兄ちゃん、きっと羨《うらや》ましがる。豚箱でくさい飯食ってる自分が情けなくて、泣きだすよ、きっと」
「それを望んでるの? ……ひょっとして、明日横浜で幸太郎さんと待ち合わせしたのは……」
「そうよ。オロチで府中刑務所に乗りつけてやってさ、ふたりでお兄ちゃんと会うの。あ、その前に、横浜でたっぷり買い物してかなきゃ。服はぜんぶ新調しなきゃね。美容院も行かないと。朝一番に予約してあるけど、間に合うかな」
「夕子。お兄さんをさんざん羨ましがらせたとして、そのあとはなにがあるの?」
「あとって? べつに……。なにも考えてない」
「あなたは指名手配犯なのよ。顔は変えたけど、幕張メッセからクルマを盗んだ罪もある。刑務所にいって、ただで済むと思う? 逮捕されちゃうわよ」
「なんで? わたし、メフィスト・コンサルティングってのに入るのに。そのためにこのテストに合格しなきゃいけないし、だからあなたも呼んだのよ。ジェニファー・レインさんの後ろ盾を得たらさ、日本の警察なんて赤子同然よ」
「万能の力を得て、自分の誇大感を完璧に充足させて、お兄さんを蔑《さげす》む。それがいまあなたの望んでいるすべてなの?」
夕子の顔がこわばった。「だったらなによ」
美由紀は頭上を見あげた。出口はまだ遠い。
ワルツは、なおも鳴り響きつづけている。
「ねえ夕子。この音楽の向こうにわずかに聞こえる声、聞き取れる?」
「はあ? 声なんか聞こえる?」
「さっきからずっと、質問の声はつづいてる。その声のトーンにのみ集中することができれば、聞き取れるのよ」
しばし夕子は耳をすましていたが、すぐに首を横に振った。「馬鹿いわないでよ。たしかになんか、ぼそぼそ喋《しやべ》ってる声が聞こえてる気もするけど、あんなのがちゃんと聞き取れるなんて冗談もいいとこ。あなたは聞けるっての? 千里眼だけじゃなくて地獄耳でもあるって言いたいわけ?」
「夕子。あなたがメフィスト・コンサルティングに入ったら、いままで不可能に思えていたことも可能になる。この声も聞けるようになるわ。けれども、忘れないで。それは人として生まれ持った能力を訓練で伸ばしただけでしかない。だからメフィストに属さずとも発揮できる力なの。決して、メフィストが与えてくれる特殊な魔法なんかじゃない」
「そんなこと……」
「いま証明してみせるわ」
美由紀は目を閉じた。
身体の力を抜き、自己暗示によって軽度のトランス状態に誘導する。理性の働きを鎮め、本能を表出させていく。
聴覚、数分前までは明瞭《めいりよう》に聞こえていたあの抑揚のない声のトーンに注意集中する。
ほどなく、イコライザーを調整するように、ワルツの演奏のなかから音声だけが漉《こ》して取りだされてきた。
「答えよ」音声は告げていた。「東京駅の駅長と一緒に食事をした。あくる日、同じく東京駅の駅長と会ったが、彼はきのう一緒に食事をした記憶はないという。なぜか」
「別の人だから」美由紀はいった。「東京駅には駅長がふたりいるの。東日本旅客鉄道の駅長と東海旅客鉄道の駅長」
ざあっと音をたてて、壁から水が噴きだした。
「嘘でしょ」夕子が驚きの声をあげた。「正解したの? どうやって聞き取ってるの?」
美由紀は答えなかった。
無視すれば夕子の機嫌を損なうとわかっていて、あえて聴覚への集中をつづけた。大人の能力をみせつけ、信頼を高めるのも母親の仕事。美由紀はそう思った。
質問の声がつづいた。「人間の体温は三十七度ほどなのに、同じ三十七度の気温のなかでも暑苦しく感じる。その理由を述べよ」
「人体は、生きているだけでエネルギーが発生し放熱を必要とするのよ。だから体温と同じ気温では不快に感じる」
「子供向け玩具《がんぐ》の対象年齢は日本玩具協会の検査に基づいて決められるが、その基準となる三点はなにか」
またしても、なんらかの記憶の傷跡に触れた感覚がある。
積み木が目の前をちらついた。
赤い積み木。小さな子供の手が、積みあげられたそれを崩す……。
そこから先を想起することはできなかった。
フラッシュバックのように一瞬浮かんだ光景にすぎない。それが現実の記憶かどうかさえもさだかではない。
美由紀は混乱を振りきって質問に答えた。「怪我、誤飲、引火のしやすさの三点よ。十八か月未満の赤ん坊対象のものは、のどの太さまでも考慮して決められる」
「関東地方で雷が多い理由は?」
「群馬県の山地で温められた空気が、上昇気流を生んで雷雲に発達しやすいからよ」
「|1《ワン》から|99《ナインテイナイン》まで、数字を英語で表記したとき、使用しないアルファベットは?」
「Aよ」
「では一から九十九までをローマ字表記した場合、使用しないアルファベットは?」
「Eね」
立て続けに正解したためか、落ちてくる水の量が恐ろしく増大した。水位がどんどん上昇しているのがわかる。
美由紀はうっすらと目を開けた。
あんなに遠くに見えていた出口は、もう頭上十メートルほどのところにまで迫っている。
夕子がはしゃいだ声をあげた。「あと二問も正解すりゃ出られるじゃん!」
ワルツはひときわ大きく奏でられていた。
美由紀は聴覚を研ぎ澄まし、声に集中した。
音声は問いかけてきた。「飼い猫の……」
その瞬間、美由紀の脳裏にひらめくものがあった。
離島。高齢者がほとんどの島。穏やかな青い海。
その潮の風に、わたしはたたずんでいた。
島のどこにいこうと、猫がいた。
しかしそれらは、野良猫ではなかった。
これを問いかけられることは、わかっていた気がする。
雷、そして積み木。AとE。
いずれもわたしの記憶になんらかの断片を残している。そしてこれも……。
「東京都の小笠原《おがさわら》村、沖縄県の竹富《たけとみ》町」美由紀は、質問を聞かずして答えた。「それが飼い猫の登録を条例で定めている地域よ」
水流の音が正解を告げてきた。
「あと一問!」と夕子が甲高い声をあげた。「あと一問!」
美由紀は唖然《あぜん》としていた。
どうして問題の先が読めたのだろう。
勘などではない。わたしは、この設問に沿った人生を送ってきている。紛れもなくそうだ。そう感じる。
けれども、そんなことはありえない。わたしは離島になど住んだことはない。積み木も家にはなかった。
まるで別人の記憶が混在したかのようだ。
ふいに、ワルツはぴたりとやんだ。
静寂が訪れ、水流の音だけが竪穴に響いている。出口は、ほんの数メートル上にまで迫っている。
抑揚のない声がたずねてきた。「妊娠したとき胎盤となり、ホルモンが放出される部位は?」
美由紀は絶句した。
その顔を見て、夕子が愉快そうに笑った。「わたしが替わって答えるわ。絨毛《じゆうもう》、でしょ。岬美由紀。あなたってたぶん、その種の話題ってタブーよね? 避けてるなぁって前から思ってたもん。察するに、男と寝たことないんでしょ?」
しばし時間が静止したようだった。
水位が上昇をつづけ、もう出口は間近に迫っている。夕子が正解したからだろう。
出口の向こうには、暗い天井が見えていて、シャンデリアがさがっている。
ここから抜けだせるときがきた。
だが、達成感はない。救われたという喜びもない。
絶望だけがあった。
それは、かつて感じた死の恐怖に等しい記憶の再来だった。
視界が揺らいだ。
いつしか美由紀の目には涙があふれていた。それが頬をつたうのを感じる。
夕子は美由紀の異変に気づいたようすだった。夕子は聞いてきた。「ちょっと、どうしたの? なんで泣いてるの?」
「……わたしは」美由紀はつぶやいた。「わたしは、処女じゃないわ」
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%