「岬先生」男の声がする。「岬先生。起きてよ」
美由紀ははっとして目を開けた。
まばゆい陽射しが視界に飛びこんでくる。
身体を起こした。
ベンチに座っているとわかる。
外気、それも夏の朝の、まだ気温のあがらないすがすがしさが身体を包んでいた。
そこは広々とした公園だった。
港の埠頭《ふとう》がみえる。そして、古めかしい赤レンガの倉庫が連なっていた。
行き交う人の姿はまばらだが、雲ひとつない青空が広がっている。
たぶんこれから、大勢の人々が繰りだしてくるだろう。それが横浜という街だ。
ひとしきり辺りを見まわしてから、ようやく幸太郎に目をとめた。
幸太郎は心配そうに、美由紀の顔を覗《のぞ》きこんでいた。
「だいじょうぶ?」と幸太郎はきいた。「こんなところで寝てるなんて。びっくりしたよ」
「幸太郎さん……。どうしてここに?」
「聞きたいのはこっちだよ。きのう、岬先生の部屋に泊めてくれて……でもマンションの周りを見回るとかいって、そのまま上がって来なかっただろ?」
「ええと……そうだっけ」
「心配したけど、キーを持ったまま外出もできないし、そのまま休ませてもらったんだけど……。なにか用でもあったの? ここで待ち合わせるのなら、連絡してくれればよかったのに」
「そうね、ごめん。あ、それで西之原夕子は……」
幸太郎は肩をすくめた。「すっぽかされたみたいだね。もう十時近いよ。姿はみせてない」
夕子が約束を反故《ほご》にした。
いや、そうではない。彼女は来られなかったのだ。もう夕子は、一般人ではないのだから。
わたしは夕子を助けられなかった。彼女がメフィスト・コンサルティングに入るのを止められなかった。
自己愛性人格障害から立ち直るきっかけを与えられたことが、せめてもの希望かもしれない。だがそれも、わたしの一方的な思いこみかもしれない。彼女がそれを、自立の道と信じることがなければ、回復するのも難しい。
だが、どうも前後の記憶が判然としない。
夕子はどうして、心変わりをしたのだろう。
水位の上下する竪穴のなか、救命胴衣で浮かびながら、彼女はわたしにキスをした。ユダと同じく裏切りのキスかもしれない、夕子はそういった。
アントニオに飲まされた薬品の効果で眠りに落ち、気がついたら夕子に口づけされて、急速に排水がおこなわれる状況のなかで、彼女の人格を説いて聞かせた。
その後、またも失神して、目が覚めたらここだった。
それだけのことだったろうか。
たしかわたしは、ジェニファー・レインに会った。
彼女はあのイラクでのトランス・オブ・ウォーの広まりを陰で画策していた、そううそぶいていた。
けれどもそれが、竪穴に落ちる前のことだったのか、それとも後の出来事かははっきりしない。
夢ではなかったはずだ。記憶にしっかり刻みこまれている。
想起しようと目を閉じたとき、今度は妙な景色が浮かんできた。
公営住宅。五階建ての古びた鉄筋コンクリート。緑豊かな地域にある。たしか神奈川県内……。
美由紀は呆然《ぼうぜん》としながら目を開けた。
幸太郎がきいた。「なにか思いだした?」
「ええ。でも……」
なんだろう。
以前に見た風景。というより、前にもこんなふうに頭に浮かんできた記憶の断片。景色だけでなく、場所もわかっている。相模原《さがみはら》市……。
頭痛がする。
なにか肝心なことを忘れている気がしてならない。
そのとき、ばたばたと駆けてくる靴音がした。
「ひっ」と幸太郎が声をあげた。「まずい。逃げたほうがいいよ、岬先生」
見ると、公園に隣接する駐車場のほうから、警官が大勢走ってくる。
その先陣をきっているのは千葉県警の福原警部補だ。
ほかにも見知らぬ私服が何人もいる。
駐車場には知らないうちに、無数のパトランプが瞬いていた。駐車中のオロチはパトカーに囲まれている。不審車両を確保するため、サイレンを消して接近したのだろう。
逃走しようとする幸太郎の腕をつかみ、美由紀は引き留めた。「待って」
「どうしてだよ……。捕まっちゃうよ」
「あなたは窃盗の主犯じゃないでしょ。やましいことがないのなら、堂々としていればいいわ」
「けど……」
「心配しないで」
警官らが目の前にまで迫ってきた。
「鳥沢幸太郎さんだね」と福原が厳しくいった。
「は、はい」幸太郎は観念したように、情けない声をあげた。「そうです」
美由紀は話しかけた。「警部補……」
「あ、これはどうも。岬先生も一緒でしたか」福原の態度は、一転して和やかなものになった。「またも人知れず救出劇を演じておられたとは。勇気と行動力には感服しますが、ぜひ今度からは私どもをもっと信頼していただきたいですな。こう見えましても、私は通報には迅速に対応するほうなんですよ」
「救出劇……?」
「ええ。この鳥沢幸太郎さんを京城麗香から救いだしたんでしょう。オロチも無事のようだ。ご協力、感謝申しあげます」
美由紀は幸太郎を見た。
幸太郎も、口をぽかんと開けて美由紀を見かえした。
「あのう」幸太郎は福原にきいた。「西之原……いえ、京城麗香さんがなにか自白したんですか?」
「自白? いえ。しかし、逃走中にあのようなことになるとは……」福原は妙な顔をした。「おふたりともまだ、ご存じない?」
「なんですか」美由紀はたずねた。「事故って……」
「けさ早く、京城麗香は盗んだワンボックス車に乗り、アクアラインの反対車線を暴走しましてね。十トントラックと正面衝突し、即死しました」
幸太郎が衝撃を受けたようすで、悲鳴に似た声をあげた。「即死!? そ、それは、本当に……。けど、ヘンだよ。彼女は免許を……」
美由紀は幸太郎の肩にそっと触れた。
刑事たちが去ったら、話したいことがある。しぐさでそう伝えた。
「それで」美由紀は福原を見た。「遺体は、京城麗香と確認されたんですか?」
「むろんです。すぐに司法解剖をおこない、結論もでました。彼女はつい先日、歯科の検診を受けてましてね。そこで撮ったレントゲン写真によると、鼻に人工軟骨を入れていたり、顎《あご》を削った痕《あと》があったりと、ずいぶん金をかけて美容整形していたようですな。遺体も損傷が激しかったのですが、やはり整形の痕がありました。DNA鑑定の結果はまだですが、本人に間違いないでしょう」
「京城麗香っていうのは、どんな人物だったんですか?」
「それを調べるのはこれからです。歯科医に提出した保険証も偽造とわかりましたし、株式会社レイカ設立のための各種書類も本物ではなかった。とはいえ、それらは彼女自身の手製のようで、背後に黒幕がいる可能性はほとんどないと思われます。なにしろ彼女の住んでいた部屋から、偽造に使われたパソコンやプリンター、コピー機が山ほど押収されてますからね」
「というと、住居があったわけですか」
「当然でしょう。偽造免許証の住所でわかりました。墨田区のワンルームマンションでしたね。実家だとか、血縁についちゃまだわからない。たぶん偽名でしょうから、本名も割りださねば。とはいえ、家宅捜索のおかげで鳥沢さんの容疑が晴れたことは、不幸中の幸いでした」
幸太郎は目を見張った。「俺はもう、無罪放免ですか?」
「あなたも人質だったんでしょう? 彼女のメモにそう書いてありましたよ。ハローワークで男性をひとり人質として確保して、盗みに協力させる。拒否すれば家族の命はないと脅す……メモにはそうありました。計画的犯行ですな。しかし幸太郎さん、ご安心ください。彼女には共犯などいなかったから、ご実家には危害ひとつ加えられていません。たまたま発生した地震で連絡がとれなかったのはお気の毒ですな。ふつうなら、すぐにでも無事を報《しら》せられたのに」
「ええと……そうですね。まったくです」幸太郎はそういって、美由紀をちらと見た。
美由紀も幸太郎に微笑みかえした。
福原は敬礼をした。「では、クルマのほうの検証に戻りますので、いったん失礼します。のちほど、お話をうかがいますよ」
「はい」美由紀はうなずいた。「こちらでお待ちしてます」
警官らは踵《きびす》をかえし、駐車場に向かって歩き去った。
幸太郎は悲痛のいろを浮かべた。「事故だなんて。夕子さんは運転なんかできなかったはずだ」
「そうよ」と美由紀はいった。「死んだのはまったくの別人。メフィスト・コンサルティングの工作にすぎない」
「え? そんなこと……」
「できるの。人工地震を起こすほどのやつらでしょ。それぐらい、わけないと思わない?」
「どうだろ……。けど、信じたくないよ。夕子さんが死んだなんて……」
メフィスト・コンサルティングは、候補をスカウトする時点で替え玉を用意する。
友里佐知子にもふたりの影武者がいた。
本人が整形を受けていたため、影武者の遺体に整形の痕跡《こんせき》があっても問題視されないという点も、友里のときと同じだった。
マンションの部屋も、丸ごと偽装にすぎないのだろう。
西之原夕子は、あの株式会社レイカとして借りた一室以外に住む場所などなかった。
いつかは別世界にいざなわれる、彼女はそう信じていた。それゆえに、この世での安住の地など求めなかった。家がなくても平気だった。
「夕子さん」幸太郎は泣きだした。震える声でつぶやきながら、海を見やった。「もう会えないのかな。せめてもういちど、買い物につきあってあげればよかった。ドライブしてあげたかった……」
「死んでないってば。夕子は現に……ジェニファー・レインと一緒にいたし」
「……会ったの? 夕子さんと?」
「ええ。思いだした。意識を失う寸前、彼女が近づいてきたのを見た……」
「夕子さんは、どうしてた?」
「わたしに……怒りをぶつけてた。助けると約束したのに、わたしは今度も……」
辛《つら》い気分になり、美由紀は言葉を切ってうつむいた。
ひょっとしたら彼女は、わたしに対して最後の希望を抱いてくれたのかもしれない。一瞬だけでも、心を開きつつあったのかもしれない。
その心をふたたび閉ざしてしまったのはわたしだ。わたしはまたしても、彼女を裏切ってしまった。
汽笛が響いた。
ゆっくりと出港していく船がある。その煙突から立ち昇る白煙が、空へと消えていく。
空が遠かった。
秋のきざしか。それとも、わたしにとって空が遠のいた、その事実ゆえのことだろうか。
静けさのなかで、美由紀の感じている失望を悟ったらしい、幸太郎は物憂げにつぶやいた。「大地震の震源地も、わからずじまいだね」
「そうね……」
関東地方を巨大地震が襲う。夕子は、きょうにもそれが起きると言っていた。
マンションの駐車場でアントニオという男に連れ去られた時点で、午前零時をまわっていた。日付はきょうになっていた。地震が起きるのはこれからだ。
だがその震源もあきらかではない。未曾有《みぞう》の大災害が起きるとわかっていて、なんの手段も講じられない……。
絶望とともに悲しみがこみあげてきた。美由紀はこぼれおちそうになった涙をぬぐった。
こんなふうに希望が絶たれるなんて……。わたしはいったい、なにをしたというのだろう。夕子ばかりか、大勢の人々の命を危険に晒《さら》そうとしている。
今度こそ、メフィスト・コンサルティングが勝利をおさめるのか。何度もぎりぎりの賭《か》けで踏みとどまってきたのに、わたしの力が及ばないばかりに……。
「岬先生」幸太郎がきいてきた。「夕子さんが東京壊滅を望んでるなんて思えない。彼女は無茶をするようでいて、実はやさしいところがあるんだよ。他人の命を危険にさらしたりはしない」
「あなたがそう思うだけかも……。でも、そうね。わたしも彼女に命を救われたんだし……。夕子がメフィスト・コンサルティングに入らなければ、わたしは殺されてた」
「ねえ、そんな夕子さんが大地震が起きるのを見過ごすかな? 岬先生に期待をかけてたのなら、なんらかの方法で接触してくるかも」
「もう無理よ。夕子の身柄は、ジェニファー・レインの手中にあるし」ふと、美由紀の脳裏を妙な感触がかすめた。「あ。だけど……」
「なに?」
「夕子、おかしなことを言ってたわ。ペコポンがどうとか、宇宙探偵の時間……とかって……」
幸太郎は目を見張った。
「み、岬先生」幸太郎は緊張の面持ちでつぶやいた。「確認したいことがあるんだけど……。漫画喫茶に寄る時間ある?」