インド国籍の掘削船、アヴァニ号。全長二百七メートル、幅三十七メートル。満載喫水九・二メートル。すなわち、十メートルの深さがある海なら自由に航行できる。
中央に高さ百メートルを越える掘削|櫓《やぐら》を擁し、周囲を四本の巨大なクレーンが囲む。ドリルパイプ置き場の近くには七階建ての甲板タワーがあって、この鋼鉄の人工島全体を見渡せる。
ジェニファー・レインはその最上階のバルコニーに立ち、夕陽に照らされてオレンジいろに染まった大海原を眺めていた。
東京湾沖、陸から三十一・三キロメートル。ここの真下を通る海底活断層は房総半島南部の海域にまで延びている。日本の国土交通省も関東地方に大震災をもたらしかねない危険な活断層と認識しているが、ここ数年は微震すら発生していないため安心しきっているだろう。
実際には、その均衡を人の手によって崩しうることも理解できていない。
掘削班はすでに断層の奥深くにまで竪穴を掘り進んでいる。あとは七百メガトンの破壊力を持つベルティック・プラズマ爆弾を、水中スクーターに搭載して運び、竪穴の中に投入するだけだった。
その作業も、海中工作班によって着々と進められている。完了しだい、ヘリポートに待機中のツインローター式大型ヘリで退避せねばならない。
海中工作班の大部分は爆発の瞬間までここに残ることになるだろう。計画に犠牲はつきものだ。全員が退去してしまったのでは自然災害に見えなくなる。この不自然な掘削船がなんの作業に従事していたかが洗いだされ、ほどなく人工地震の疑惑が再燃してしまうだろう。
歴史上かつてないほど広範囲にS波が伝わり、首都圏全域を壊滅に至らしめる巨大地震だ。これが人為的なものだと記録に残るのはまずい。
シルクのドレススーツに泳ぐ潮風は心地よく感じられたが、陽が傾くにつれて寒くなってきた。
ジェニファーはバルコニーからぶらりと室内に戻った。
赤い絨毯《じゆうたん》の広々としたリビングルームは、ダンスホールのように天井が高く、ソファも壁ぎわに寄せてあって部屋の中央にはなにもない。ふだんならなにもない空間を眺めるのみだが、きょうは新人の教育《エデユケーシヨン》という余興がある。
床に犬のように這《は》い、びくつきながら身をちぢこませているのは、手術着のような無地のワンピース一枚を羽織った西之原夕子だった。
さすがに応《こた》えてきているらしく、無駄口も叩《たた》かなくなった。身体を痙攣《けいれん》させているのは、炭素電極棒が効いて全身の麻痺《まひ》が始まっているからだろう。
夕子の周囲には、頭部からつま先までをゴム製の防護服ですっぽりと覆った四人の男が立っていた。四人は夕子の周りをゆっくりと回りながら、両手に一本ずつ握った長さ一メートルほどの炭素電極棒を突きだし、夕子の肌に触れては感電させる。夕子はそのたび、悲鳴に似た叫びをあげて身体をのけぞらせる。
見慣れた儀式だ。目新しくもない。見物する喜びもない。
ジェニファーは退屈さを噛《か》みしめながら、窓際のミニバーに向かった。グラスにワインを注ぎいれ、葉巻の先で掻《か》きまわす。その湿った葉巻に火をつけ、濁った煙を胸の奥にまで吸いこんだ。
教育班の四人は、感電する夕子の反応を見ては、冷静な口調で交互に報告をする。傍|脊椎《せきつい》交感神経部、正常反応。舌下神経、頸部《けいぶ》交感神経幹、正常反応。骨盤|末梢神経《まつしようしんけい》、正常反応……。
そろそろ小休止ね。ジェニファーは歩み寄った。あまり連続すると脳神経への負担が大きくなりすぎて、感覚神経繊維にダメージを与えてしまう。
合図を送ると、四人は電極棒を夕子の身体から離し、部屋の隅に退いた。
床に横たわった夕子の姿は哀れなものだった。発汗が促進させられた肌はびしょ濡《ぬ》れになっていて、血管が病的なほどに浮きあがって脈うっている。目の瞳孔《どうこう》が開きっぱなしで、涙と一緒に鼻水と涎《よだれ》が絶え間なく溢《あふ》れだしている。陸にあげられた魚のごとく、口がぱくぱくと開閉しては、苦しげな呼吸音を漏らす。
それでも、まだ意識はあるようだ。ジェニファーはきいた。「気分はどう?」
「なんで……」夕子は蚊の鳴くような声でいった。「なんで、こんなことを……」
「説明してもわからないでしょうけどね。神経シナプスを作り変えてるの。受容器電位をわずかに上まわる電圧で細胞の働きをコントロールして、脱分極が頻繁に起きるようにする」
「だから……それがいったい何の……」
「寿命が延びるのよ。長生きできるわ」
ふっ。夕子が吐息を漏らした。
それから夕子は、ぐったりと寝そべったまま、小刻みに身を震わせて笑いだした。
ジェニファーは面食らった。全身が麻痺状態に近い現状で、笑いの衝動が起きるとは意外だ。
「なにがおかしいの?」とジェニファーはきいた。
「べつに。……なにかと思ったら、これ、アンチエイジング? 死ぬほどの思いをして若づくりしろって? 馬鹿じゃないの。わたし、皺《しわ》伸ばしとかしてるジジババとかって嫌い。見るからに不自然でキモい」
「特別顧問となって働くからには、老化を可能な限り遅くしなきゃならないの。見た目だけじゃなく、体内すべての細胞の劣化を遅らせることができるのよ」
「キモ。最低。ジェニファーさん、ひょっとしたらあなたも百歳過ぎてるババアとか?」
かちんときたが、それを言葉にはしなかった。ジェニファーは身を退かせながらいった。「エデュケーションを続行」
四人がまた夕子を取り囲む。儀式は再開した。
電極棒をあてたときのビリッという音、焦げ臭い匂い、そして夕子の悲鳴。
実際には、この作業の目的は体内変化の促進だけではない。メフィスト・コンサルティングに生涯をささげる、その誓いの代償を神経細胞に刻んでいるのだ。
自己愛性人格障害が特別顧問に向いているとはいっても、本来は協調性に欠け、忠誠心など持ちにくいとされる人格だ。そのままでは雇用できない。身柄を組織に繋《つな》ぎとめておく物理的手段が必要になる。
その手枷《てかせ》足枷があればこそ、わたしはマインドシーク・コーポレーションの特別顧問をつづけている。
いや、わたしに限らず、グループ内の正社員は誰でも多かれ少なかれ……。
「ばーか!」ふいに夕子が怒鳴った。
教育班らが驚いたようすで静止する。
「な……なにが特別顧問よ」夕子は息も絶えだえに告げた。「ふざけろっての。そんなものに就職したいなんて誰がいった?」
憤りがこみあげる。ジェニファーは苛立《いらだ》ちとともにいった。「いまさら契約の破棄はできないわよ」
「勝手にそう思ってたら? わたしはね、自分や幸太郎が警察に追われないようにしてくれるっていう、あなたたちの工作とやらに期待しただけ。もうそれ済んだんでしょ? じゃ、もうここまでよね。お付き合いは終わり。言っとくけど、あなたたちがここで何をしようとしてるのか、もうばらしちゃったし。人工地震だっけ? そんなのもう無理。さっさと尻尾《しつぽ》巻いて逃げだしたら?」
「立場がよくわかっていないようね。誰に何を暴露したっていうの? あなたはずっとわたしたちの監視下にあったのよ」
「はん! これだから外人女は使えないっての。この船の名前がヒンディー語だったのが運の尽き。わたしが唯一知ってる外国語だっての」
船名のアヴァニは、たしかにヒンディー語で大地、地球という意味だ。だが、それがどうしたというのだ。
「誰かにその意味を伝えたとでもいうの? ハッタリはよしたらどう? わたしたちはあなたの言葉のすべてを、ひとこと漏らさずチェックしてる」
「ジェニファーさんって何か国語|喋《しやべ》れるんだっけ? あのアントニオとかっていう奴とも聞きなれない言葉で喋りあってたよねぇ。けどさ、ケロン語知らなかったってのは致命的だよね。それでよく東京に地震起こすなんて息巻いてられたよね?」
「なんの話? ケロン語ですって? そんな言語の分類、聞いたことが……」
そのとき、突きあげる衝撃が襲った。
地震ではない。掘削船がパイプを活断層に打ちこんでいるからといって、揺れが発生するものでもない。
だが、振動は大きくなる一方だった。轟音《ごうおん》とともに床が傾いた。教育班の四人がいっせいにバランスを崩し転倒した。
傾斜した床を滑ってくるバーカウンターを、ジェニファーは間一髪|躱《かわ》した。だが足を滑らせ、うつ伏せにつんのめった。腹這《はらば》いに床に叩きつけられ、傾斜した床を転がる。
なにが起きたというのだ。掘削はきわめて慎重におこなわれ、事故の発生する確率は万にひとつもないというのに。
警報が響き渡った。監視班のアナウンスがスピーカーから響く。「至急、重大、緊急。海上自衛隊護衛艦三隻接近。うち一隻、アスロック発射機よりミサイル発射。本船|右舷《うげん》に被弾、浸水中」
「浸水中ですって!?」ジェニファーは叫びに似た自分の声を聞いた。「どういうことなの。なぜ自衛隊が攻撃してきたっていうの!?」
だが、その問いに答える者はその場にいなかった。
反射的に、ジェニファーは夕子を見た。夕子は、ぼんやりとした目でこちらを見かえしていた。
夕子の口もとに、かすかな笑みが浮かんだ。
まさか……。
ジェニファーは立ちあがり、窓辺の手すりにしがみついた。
強化ガラスの向こう、アナウンスどおり海に浮かんだ三隻の船が見えている。たちかぜ、ゆうぎり、いかづち。いずれも進路をこちらに向けていた。
アスロック発射機から白煙とともにミサイルが射出された。と思った次の瞬間、掘削船の甲板に真っ赤な火柱があがった。一瞬遅れて、耳をつんざく爆発音が轟《とどろ》き、船体が激しく揺れた。その振動は、直下型大地震さながらだった。
室内にあったあらゆる物が倒れ、落下した。直後にガラスにひびが入り、轟音とともに砕け散った。
嵐のような突風が室内に吹き荒れる。風は熱を帯び、肌をも焼き焦がさんばかりの高温となった。煙が充満し、目に痛みが走る。
馬鹿な。こんな馬鹿なことが。ジェニファーは、薄くなった酸素を求めて喘《あえ》いだ。
視界がはっきりしない。室内をさまよい、なにかにつまずいて倒れそうになったところを、誰かにつかまった。
たぶん教育班の四人のうちのひとりだろう、そう思ったが、すぐに違うと悟った。ゴムの防護服を着ていない。
特殊な不燃素材の迷彩服。防弾ベストも羽織っている。自衛隊の装備とわかるが、やけにほっそりとした身体だ。背も高くない。
その顔を見たとき、ジェニファーはぎょっとして立ちすくんだ。
岬美由紀は、かつてないほどの至近距離でこちらを見つめ、冷ややかな口調でいった。「ケロロ軍曹の故郷、ケロン星の言葉でペコポンは地球って意味よ。よく覚えておくことね」