東京を襲った直下型大地震から、三週間が過ぎた。
昼下がりの大久保通りは、以前の活気を取り戻していた。倒壊したビルの跡地では、すでに新しい建物の建設が着工している。
美由紀は歩道にたたずみ、その驚異的な復興のスピードに半ば呆《あき》れながら眺めていた。被害に遭ったのがこの一帯だけとはいえ、まるで風邪が治るかのように街並みが回復していくなんて。地震国だからこそ培われ、蓄積された知恵も少なくはないようだ。
雑居ビルのエントランスから、西之原夕子の甲高い声が聞こえてきた。
「だからさ」と夕子はいっていた。「格安で引き取ってくれていいって言ってんじゃん。それでここの支払い、トントンになるでしょ?」
ビルのオーナーとおぼしき男性は、本来なら強気にでる立場のはずが、すっかりやりこめられたらしく憔悴《しようすい》しきっている。夕子と並んで階段を降りながら、男性はいった。「それはいいんですけどね。配管や電気に不自然な工事を施した跡があるんですよ。地下の基礎にまで補強工事がしてあって……」
「そのおかげで地震にも耐えたんだから、文句ないでしょ。賃貸物件は原状回復で引き払うのが当然だって? せっかくの耐震補強を外していくの? 馬鹿馬鹿しい。インチキなビルが優良物件になったんじゃん。感謝したら?」
「イ、インチキって……」
夕子は美由紀を見て、足をとめた。
美由紀も無言のまま、夕子を見かえした。
ビルのオーナーにあいさつもせず、夕子はつかつかと美由紀のほうに向かってきた。
笑みひとつ浮かべることなく、夕子はいった。「不動産って嫌いなんだよね。貸すときにも借主の職業やら何やら知りたがるし、返すときにはあれこれ理由つけて金銭要求してくるし。そんなに気になるのなら貸さなきゃいいじゃん」
「株式会社レイカは解散なの?」
「しないって。法人の登記は残したままにする。本社はここじゃなくなるけどね」
「どんな業務をするつもり?」
「さあ。まだ決めてない。でもさ、ほかに就職できないんじゃ、自分で会社をやるしかないじゃん。のび太と同じ。最近のドラのアニメは絵がキモすぎて好きじゃないけど。やっぱ、藤子・F・不二雄みたいな天才がいなくなっちゃ終わりだよね。仕事ってそういうものだし。仕事が先にあるんじゃなくて、まず人があってのことだし」
「でも、無理にリーダーにならなくても、誰かのもとで働く人生もあるわよ」
「わたしにはそれはないの。わかってるでしょ。自己愛性人格障害じゃ雇われ人生は無理。どうせイラつくだけだし。不本意とわかってても怒りが抑えられなくなって、上司と喧嘩《けんか》。意地を張って辞めてやると吠《ほ》えて、それで終わり。反省もしない。それがわたし」
「そうばかりでもないわ。あなたは社会に適応しつつある」
むっとしたような顔で、夕子は美由紀を見つめてきた。「岬美由紀。わたしが改心したとでも思ってる? ピュアな心になって善人になって、一緒にお友達になりましょうって? おあいにくさま。わたしは以前と変わっちゃいない」
美由紀は穏やかな気持ちのまま、夕子の言葉を聞き流していた。
どんな悪態が口を突いて出ようと、彼女の本心でないことぐらい、顔を見ればわかる。
「夕子」と美由紀はいった。「愛情を得ているあなたが羨《うらや》ましいわ。あなたはそれで変わったのよ」
「……嘘」
「どうして?」
「あなたがわたしを羨ましがるなんて、そんなことあるわけないじゃん。あんな貧乏くさい男に惚《ほ》れられるなんて、ただ迷惑なだけよ」
「そうばかりでもないでしょう? 嫌ならとっくに別れてるんじゃない?」
「もっとイケてる男のほうがよかった」
「あなたの言うことを聞いてくれなくても?」
「それは嫌。わたしのほうに協調性がないし。コーヒーいれてくれ、なんて男に言われた日には、ぶちきれて熱湯浴びせてやるところだし」
「幸太郎さんには、そんなことしてないでしょ?」
「いまのところはね」
「今後もそうよ。あなたは幸太郎さんを必要としてる。彼のほうも、あなたがいてこそ真っ当に生きていけるって自覚してる」
「なんかやだな、そういうの。ただ依存しあってるだけじゃん」
「依存じゃなくて愛情なの」
「違うって」
「どう違うの」
「だからさ」夕子は口をとがらせながら、目を潤ませていた。「そんなふうに思えないんだって。幸太郎を信頼してるなんて、わたし自身、思えない。どうせ彼に気にいらないことがあったら、すぐ別れるとかなんとかわたしのほうから言いだすに決まってる。わたし、人を利用してる。そういうふうにしか付き合えないの。誰だって自分が一番大事じゃん。追い詰められたらそうなるじゃん。だからわたしは自分に正直に生きてる。どこがおかしいっていうの?」
「夕子。あなたはね……」
「美由紀、あなたに対してもそうよ。わたし、あなたを信用したわけじゃないわ。あなたみたいに強くて支持されてる人のそばにいると有利だとか、そういう価値観ばかり働かせてる。あなたの愛情が薄くなったと感じたら、またメフィスト・コンサルティングに入ってやるとか言って、あなたを困らせようとするのよ。馬鹿でしょ? でもどうせそうなる。そういう思考パターンから抜けだせないのよ。馬鹿よ、わたしは」
本気で悩んでいる。被害者意識を露呈したところで、誰も同情してくれない。そうわかっている辛《つら》さのなかに身を置いている。
その胸の内の苦しみを共感できる人間は数少ない。わたしはそのひとりでいたい。
美由紀は夕子を抱き寄せた。
「あなたは間違っていない、夕子。ただし、あなたが見ているのは真実の一面でしかない。世の中は多面構造で、ほかの見方もあるってことは、徐々にわかってくるわ」
夕子は涙声でつぶやいた。「どうせまた馬鹿をやる……。無性にお兄ちゃんを困らせたくなったときと同じように……。メフィストとか、悪の誘いに乗ろうとするときがくる。そのときには、わたし自身、それが正しいと信じて疑わなくなる。もし猜疑《さいぎ》心が生じても、自己愛を優先させてそれを振り払っちゃう……」
「心配いらないってば。あなたがメフィスト・コンサルティングに入るときは、もう永久に来ない。わたしが彼らを叩《たた》き潰《つぶ》す」
「……本気なの?」
「ええ。彼らはわたしの大事なものを奪った。その事実を知ったいま、許すわけにはいかない」
「でも、歴史を作ってる神様だって言ってるよ?」
「あいつらが神様のわけがないわ。人類史に彼らは必要ない。壊滅させて、そのことを証明する」
とてつもなく不可能に近い挑戦に思える。
だが美由紀は、その機会が訪れる日は決して遠くはない、そう感じていた。
運命は絶えずわたしを、メフィスト・コンサルティングとの対峙《たいじ》へと向かわせる。何度かの対決を経て、彼らの実態が少なからず社会の知るところとなり、方策や組織構成も明らかになりつつある。
失われたわたしの記憶がどんなものであるか、いつ、どのようにして失ったのか、真実はまだ闇のなかだ。
しかしそれは、わたしの人生の一部だ。わたしの歩んできた道だ。誰にも所有はさせない。この手に取り戻す。堕天使たちの思いどおりにはさせない。
「美由紀」夕子はささやくようにいった。「すごい人なのはたしかだよね、あなたは……。ひと声かけただけで防衛省の信頼を得て、海上自衛隊を出動させた。その後も国土交通省に働きかけて、掘削船の沈没は事故にすぎないってことにさせた」
「まあ、いままで何度か同じようなこともあったしね」
「メフィストが歴史を歪《ゆが》めて、あなたが戻して……。その繰り返しだね。いえ、その逆かもね。歪めてるのはあなたかも」
「……そうかもね。メフィストの作った人類史を正しいものとするならば。でもわたしは、人々の健全なる欲求にこそ善があると信じる」
「そんなに人を信じられる? お人よしすぎるかもよ。わたし、自分の本質が善だなんて、これっぽっちも思ってないけど」
「いいえ。あなたは自分が思ってるより、ずっと善人よ」
「どうしてよ」
「人の命を尊いと思っているから。忘れないで。ここにいる人々、東京という都市は、あなたの機転で救われたのよ」
夕子はゆっくりと周りに目を向けた。
「わたしの……」夕子はつぶやいた。
そのとき、耳に覚えのあるエンジン音が響いてきた。
オロチが近づいてきて、歩道に寄せて停車した。
運転席側のドアが開き、スーツ姿の幸太郎が降り立った。
「どうも、岬先生」幸太郎は笑顔で近づいてきた。「夕子さん、遅れてごめん」
「遅い」夕子はぴしゃりといった。「なに考えてんの? 雇われ人の分際で。もうオーナーとの話し合い、済んじゃったわよ」
「あ……そうなの。で、どうだった? 支払いのほうは?」
「経費が必要になったら、あなたの給料から差っ引くわ」
「ちょっと待てよ。そりゃないよ」
「さっさとエンジンかけて。伊勢丹《いせたん》に買い物に行くって言ってあったでしょ。忘れたの?」
「はいはい。じゃ、岬先生。また後日、ご連絡しますから」
「ええ……」美由紀は半ば呆然《ぼうぜん》としながらきいた。「このクルマ、本来の持ち主に返さなくていいの?」
「いいんです。その持ち主が気前よく譲ってくれましたから。なにか、夕子さんがうまく交渉してくれたみたいで」
「へえ……」
幸太郎は運転席に乗りこみ、またエンジンをスタートさせた。
夕子が美由紀を見つめてきた。
「美由紀。聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「わたし、指名手配犯の西之原夕子じゃん……。通報しなくていいの?」
「顔が全然変わっちゃってるし。麗香は死んだし、あなたには新しい人生がある」
「見逃すつもりなの?」
「法の裁きから逃れることはできない。でもあなたは、現代の法規を超越した世界に片足を突っこんでしまった……。そして、あなたが立ち直るためにも、幸太郎さんの愛は必要不可欠だし。あなたにとってこれが最良の道だと、わたしは信じる……」
「後悔するかもよ」
「しない。そんな結果にはならない。絶対に」
「……美由紀。自己愛性人格障害のわたしは、本当に心から感謝することはないの。だから、お礼の言葉なんて口にしたって、そんなものはうわべだけ。それが常識でしょ。でも……」
「でも?」
「ありがとう」夕子は静かに告げた。「それだけよ」
夕子はまた潤みかけた目を伏せて、逃れるようにオロチの助手席に向かった。乗りこむと、二度と美由紀に目を合わせようとしなかった。
走り去っていくオロチを、美由紀は無言で見送った。
気持ちがどんなに揺れ動いていても、彼女は決して道を見失わないだろう。それだけはわかる。西之原夕子の真の強さはそこにある。彼女なら、人格障害を乗り越えられる。そのための第一歩を、すでに踏みだしている。