月明かりのない夜だった。ごつごつと岩の張りだした海岸線に高波が打ちつける。夏場だというのに吹きすさぶ風は、肌身が切り裂かれそうに思えるほど冷たかった。
北茨城《きたいばらき》市の五浦《いづら》海岸。大小の岩の壁によって天然の迷路が築かれていた。
野寺敏文《のでらとしふみ》は暗闇に目を凝らした。入り組んだ小道を、ひとりの女が逃げていくのがみえる。
白いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった二十代後半の女。岩の谷間にある六角堂の前を駆け抜け、海岸に向けて走っていく。
「畔取《くろとり》さん」野寺は呼びかけた。「畔取|直子《なおこ》さん。待ってください」
女が振りかえった。その顔には、恐怖のいろが浮かんでいる。
閃光《せんこう》が瞬いた。カメラのフラッシュに白く照らしだされた直子の姿は、暗闇に浮かぶ幽霊のようでもあった。
身を翻し、直子は逃走しつづける。
野寺は、同行している記者にきいた。「カメラのフィルム、まだ残ってるか」
「もちろん」と記者が応じる。
「録音もとってるか?」
「ばっちりだよ」
「よし」うなずいて野寺は走りだした。
だが、足場は不安定きわまりなかった。岩につまずき、つんのめりそうになる。直子との距離は、ひらくばかりだ。
「畔取直子さん!」野寺は声を張りあげた。「止まってください。図面をどこにやったんです? ただちにご返却いただかないと、大変なことになりますよ」
遥《はる》か向こうに見える岩をよじのぼっていた直子が、こちらを向いて怒鳴りかえしてきた。「なんのことよ! 図面なんて知らないっていってるでしょ!」
「……とれてるか?」と野寺は記者にたずねた。
「わからん。風の音が強いからな」
「貴重な証言だ、録音できなきゃ意味がない。もっと距離を詰めよう」
野寺は歩を早めた。岩肌に手をかけながら前進するが、海岸の浸食によってできた洞穴がいたるところに存在し、ふいにつかまる場所を失って倒れこみそうになる。しきりに浴びせかかる海水のせいで足もとも滑りやすくなっていた。
懐中電灯を行く手に向ける。直子は岩を乗り越え、その向こうに駆けだそうとしていた。
そのとき、急に悲鳴があがった。
直子の姿は、岩の陰に消えた。
野寺は息を呑《の》んで、記者と顔を見合わせた。すぐさま走りだす。足がもつれ、転倒しそうになりながら、なんとか体勢を立て直して先を急いだ。
岩に登ったとき、野寺は愕然《がくぜん》とした。
目もくらむ断崖《だんがい》絶壁がそこにあった。満潮ではないが、入江は海水で満たされ、しきりに波しぶきがあがっている。そこかしこに岩礁が突きだした海面、その浅瀬に横たわる直子の姿が小さく見えていた。
足を滑らせ、転落したのだ。仰向けになった直子の身体は、ぴくりとも動かない。
「なんてことだ」記者の声は動揺に震えていた。「すぐ救急車を呼ばないと」
無言のまま、野寺は崖下《がけした》を見つめていた。
これは事故だ。こちらに責任があるわけではない。
だが、タイミングが悪すぎる。野寺はひそかに舌打ちをした。
図面の在《あ》り処《か》をまだ吐かせていない。迷宮入りになったのでは、この追跡は意味をなさなくなる……。
茨城県警に二十年以上勤めて、四十代も半ばをすぎたころになって、ようやく東海村の安い分譲地に小さな家を買うことができた。
そんな廣瀬正司《ひろせしようじ》警部補にとって、きょう訪ねた屋敷は圧倒されるほど立派なものにほかならなかった。
蝉の合唱とともに、正午すぎの強烈な陽射しが降り注いでいる。畔取と表札のかかった純和風の門の向こうには、広大な日本庭園がひろがっている。そして、平屋ながら天守閣のように鮮やかな白亜に塗られた家屋があった。
使用人に案内され、屋敷の廊下に歩を進める。和洋折衷の造りだった。畳の部屋が多いが、板張りの部屋には机や椅子が並んでいる。
家の主《あるじ》とその妻は、そんな洋風の居間で待っていた。
静寂のなか、柱時計が秒を刻む音がいやに大きく響いて聞こえる。
医師から報告は聞いていたが、畔取直子は一見して深刻な状況に陥っているとわかる。ひどくやつれ果てて、やせ細り、青白い顔でうつむくばかりだった。退院して一週間は経つが、頭にはまだ包帯を巻いている。
夫のほうは対照的に健康そのもので、がっしりとした体格の猪首の男だった。
男は立ちあがり、会釈した。「直子の夫、畔取|利行《としゆき》と申します。このたびは直子のことで、お手数をおかけしまして……」
「いえ」廣瀬は恐縮しながら頭をさげた。「とんだことでしたな。命に別状がなかったのだけは幸いでしたが」
「ええ……」
廣瀬は直子に目を移した。「こんにちは、奥様。茨城県警刑事部、捜査第一課の廣瀬と申します」
「……廣瀬、さん?」直子はぼうっとした顔で見返した。「前に、お会いしました?」
「機動捜査隊の者は病院にうかがったと思いますが、私は初めてですよ」
「そうですか。……よく覚えていないもので……」
妙に思い、廣瀬は夫のほうにきいた。「事故の後のこともお忘れなんですか?」
「はい」と畔取利行は深刻そうにうなずいた。「すべてではないのですが、覚えていないというより、記憶そのものがうまくいっていないようなんです。医師の話ですと、ええと、宣言記憶といって、出来事だとか会った人の顔だとか、そういうものはよく覚えられない傾向があると」
「事故の後遺症の一種ですか。そのうえ、崖から転落する前のことについてはほとんど思いだせないわけですね?」
「そのようです」
「直子さん。あのう、何度も聞かれたこととは思いますが、もういちど考えてみてくれませんか。なぜ五浦海岸に行ったんです? 誰かに追われていたようだが、その人物らに心当たりは?」
しばし直子は黙りこくっていたが、やがて首を横に振った。
「わからない……。申しわけありません……」
「いえ、いいんですよ。ふとした拍子に、なにか思いだすことがあるかもしれないと思っただけのことでして。お気になさらないでください」
「警部補さん」利行がいった。「直子は、人に追われるような生活など送ってはいなかった。専業主婦だったし、ふだんつきあいがあるのも近所の顔見知りばかりです。いったい直子は誰に追われていたというんです?」
「まだわかりません。一一九番に連絡して、救急車を要請した男がその追跡者のひとりとみて、まず間違いないでしょう。渓谷の比較的乾いた砂の上にふたりの男の靴の痕《あと》が残ってました。ただ、あの海岸は断崖絶壁の付近は岩ばかりで、しかも高波のせいで痕跡《こんせき》はすっかり洗い流されてしまったようで……。男たちがどこに立ち去ったのか、はっきりしたことは何も判らないんです」
直子は両手で顔を覆った。
肩を震わせながら、直子はつぶやくようにいった。「覚えていない……。どうしたらいいの。なにひとつ思いだせない……」
「直子、心配するな。落ち着いて」利行は静かに告げて、妻の手を握った。その顔が廣瀬に向けられる。「警部補さん、病院からの報告もお聞きになっていると思いますが……家内の記憶を取り戻す具体的な治療策はないんでしょうか」
「そのことなんですが、奥さんの頭部に外傷はあったものの、脳血管障害などの機能異常はみとめられなかったようで……。器質性ではなく心因性の健忘の可能性が高いと」
「というと、崖から落ちたときの恐怖というか、ショックで記憶喪失になったわけですか」
「あるいは追い詰められたがゆえの絶望感だとか……。脳神経外科医と精神科医の報告書を読みましたが、いまだ判然としません。そういう経緯もありまして、医師とは別の専門家を呼ぶべきとの声があがっていましてね」
「別の専門家?」
「臨床心理士です。カウンセリングによって道が拓《ひら》ける可能性もあるということらしいんですが……。ただ、そのう、人選がどうもね……」
「どうかしたんですか?」
「いえ。どういう理由かわからないのですが、本庁が日本臨床心理士会と協議した結果、ある特定の臨床心理士を派遣すると通達してきましてね。われわれの管轄内で起きた事件だというのに、こんなことは前代未聞ですよ」
「警視庁が選んだ臨床心理士ってことですか。なぜ?」
「だから、それがわからんのです。腑《ふ》に落ちないので病院にも問い合わせてみたんですが、そちらのほうにも圧力がかかってるらしくて、本庁の決定に従うべきだというんです」
「そこまでして、どうして臨床心理士を指定したいんでしょうね? よほどのベテランとか?」
「ところがそれが、そうでもないようでして。弱冠二十八歳の女性です。まあ病院の話じゃ、臨床心理士っていう資格制度が整ってきたのもごく最近のことだし、資格を取得してそれほど長く経験を積んだ人がいるわけでもないという話ですがね」
「ますますおかしな話ですね」
「ええ、まったく。しかし、もしよろしければその臨床心理士をここにお招きして、カウンセリングを施してみるべきということですが……。どうなさいますか?」
夫妻は顔を見合わせた。ふたりとも戸惑っているようだったが、やがて直子が小さくうなずいた。
利行は廣瀬に向き直っていった。「いいでしょう。私たちとしては、直子が元に戻る可能性があるならあらゆる手を尽くしたい。この際、贅沢《ぜいたく》はいってられません」
「そうですか。じゃあ連絡をとってみます」
廣瀬は腰を浮かせて、携帯電話を取りだした。ふたりに背を向け、いったん廊下に出る。
連絡先は、本庁から届いたファックスに記されている。廣瀬は懐に入っていたその用紙をだして、広げてみた。
二十八という実年齢よりずっと若くみえる女の顔写真がそこにあった。大きな瞳《ひとみ》に、どこかすましたように感じられるつんとした鼻、薄い唇がバランスよくおさまり、ウェーブのかかった髪にふちどられている。見れば見るほど美人だ。まるでファッション雑誌の表紙をかざるモデルのようでもあった。
プロフィールには身長百六十五センチ、体重四十八キロと記載されている。理想的なプロポーションといえるだろう。小顔のようだが、それだけの背丈があれば八頭身か九頭身といったところかもしれない。
気になるのは、その履歴だ。十八歳で防衛大学校に入学。二十二歳で首席卒業、幹部候補生学校を経て航空自衛隊に入隊、すなわち幹部自衛官だったわけだ。二十五で除隊、以後臨床心理士に転職し、現在に至るという。名前は、岬美由紀《みさきみゆき》。
防衛省出身であることを最も重視しての人選だと、本庁はその意向を伝えてきている。臨床心理士は資格制ゆえに、以前の職業は多種多様だという。そのなかから、なぜ防衛省出身者を選ぶ必要があったのか。まるで理由が見えてこない。
首をひねりながら、廣瀬は用紙に記された番号を携帯電話に入力していった。二十八で国家公務員の道を外れた女、か。地方公務員の俺にとっては理解しがたい人生だ。心のなかでそうつぶやいた。
そんな廣瀬正司《ひろせしようじ》警部補にとって、きょう訪ねた屋敷は圧倒されるほど立派なものにほかならなかった。
蝉の合唱とともに、正午すぎの強烈な陽射しが降り注いでいる。畔取と表札のかかった純和風の門の向こうには、広大な日本庭園がひろがっている。そして、平屋ながら天守閣のように鮮やかな白亜に塗られた家屋があった。
使用人に案内され、屋敷の廊下に歩を進める。和洋折衷の造りだった。畳の部屋が多いが、板張りの部屋には机や椅子が並んでいる。
家の主《あるじ》とその妻は、そんな洋風の居間で待っていた。
静寂のなか、柱時計が秒を刻む音がいやに大きく響いて聞こえる。
医師から報告は聞いていたが、畔取直子は一見して深刻な状況に陥っているとわかる。ひどくやつれ果てて、やせ細り、青白い顔でうつむくばかりだった。退院して一週間は経つが、頭にはまだ包帯を巻いている。
夫のほうは対照的に健康そのもので、がっしりとした体格の猪首の男だった。
男は立ちあがり、会釈した。「直子の夫、畔取|利行《としゆき》と申します。このたびは直子のことで、お手数をおかけしまして……」
「いえ」廣瀬は恐縮しながら頭をさげた。「とんだことでしたな。命に別状がなかったのだけは幸いでしたが」
「ええ……」
廣瀬は直子に目を移した。「こんにちは、奥様。茨城県警刑事部、捜査第一課の廣瀬と申します」
「……廣瀬、さん?」直子はぼうっとした顔で見返した。「前に、お会いしました?」
「機動捜査隊の者は病院にうかがったと思いますが、私は初めてですよ」
「そうですか。……よく覚えていないもので……」
妙に思い、廣瀬は夫のほうにきいた。「事故の後のこともお忘れなんですか?」
「はい」と畔取利行は深刻そうにうなずいた。「すべてではないのですが、覚えていないというより、記憶そのものがうまくいっていないようなんです。医師の話ですと、ええと、宣言記憶といって、出来事だとか会った人の顔だとか、そういうものはよく覚えられない傾向があると」
「事故の後遺症の一種ですか。そのうえ、崖から転落する前のことについてはほとんど思いだせないわけですね?」
「そのようです」
「直子さん。あのう、何度も聞かれたこととは思いますが、もういちど考えてみてくれませんか。なぜ五浦海岸に行ったんです? 誰かに追われていたようだが、その人物らに心当たりは?」
しばし直子は黙りこくっていたが、やがて首を横に振った。
「わからない……。申しわけありません……」
「いえ、いいんですよ。ふとした拍子に、なにか思いだすことがあるかもしれないと思っただけのことでして。お気になさらないでください」
「警部補さん」利行がいった。「直子は、人に追われるような生活など送ってはいなかった。専業主婦だったし、ふだんつきあいがあるのも近所の顔見知りばかりです。いったい直子は誰に追われていたというんです?」
「まだわかりません。一一九番に連絡して、救急車を要請した男がその追跡者のひとりとみて、まず間違いないでしょう。渓谷の比較的乾いた砂の上にふたりの男の靴の痕《あと》が残ってました。ただ、あの海岸は断崖絶壁の付近は岩ばかりで、しかも高波のせいで痕跡《こんせき》はすっかり洗い流されてしまったようで……。男たちがどこに立ち去ったのか、はっきりしたことは何も判らないんです」
直子は両手で顔を覆った。
肩を震わせながら、直子はつぶやくようにいった。「覚えていない……。どうしたらいいの。なにひとつ思いだせない……」
「直子、心配するな。落ち着いて」利行は静かに告げて、妻の手を握った。その顔が廣瀬に向けられる。「警部補さん、病院からの報告もお聞きになっていると思いますが……家内の記憶を取り戻す具体的な治療策はないんでしょうか」
「そのことなんですが、奥さんの頭部に外傷はあったものの、脳血管障害などの機能異常はみとめられなかったようで……。器質性ではなく心因性の健忘の可能性が高いと」
「というと、崖から落ちたときの恐怖というか、ショックで記憶喪失になったわけですか」
「あるいは追い詰められたがゆえの絶望感だとか……。脳神経外科医と精神科医の報告書を読みましたが、いまだ判然としません。そういう経緯もありまして、医師とは別の専門家を呼ぶべきとの声があがっていましてね」
「別の専門家?」
「臨床心理士です。カウンセリングによって道が拓《ひら》ける可能性もあるということらしいんですが……。ただ、そのう、人選がどうもね……」
「どうかしたんですか?」
「いえ。どういう理由かわからないのですが、本庁が日本臨床心理士会と協議した結果、ある特定の臨床心理士を派遣すると通達してきましてね。われわれの管轄内で起きた事件だというのに、こんなことは前代未聞ですよ」
「警視庁が選んだ臨床心理士ってことですか。なぜ?」
「だから、それがわからんのです。腑《ふ》に落ちないので病院にも問い合わせてみたんですが、そちらのほうにも圧力がかかってるらしくて、本庁の決定に従うべきだというんです」
「そこまでして、どうして臨床心理士を指定したいんでしょうね? よほどのベテランとか?」
「ところがそれが、そうでもないようでして。弱冠二十八歳の女性です。まあ病院の話じゃ、臨床心理士っていう資格制度が整ってきたのもごく最近のことだし、資格を取得してそれほど長く経験を積んだ人がいるわけでもないという話ですがね」
「ますますおかしな話ですね」
「ええ、まったく。しかし、もしよろしければその臨床心理士をここにお招きして、カウンセリングを施してみるべきということですが……。どうなさいますか?」
夫妻は顔を見合わせた。ふたりとも戸惑っているようだったが、やがて直子が小さくうなずいた。
利行は廣瀬に向き直っていった。「いいでしょう。私たちとしては、直子が元に戻る可能性があるならあらゆる手を尽くしたい。この際、贅沢《ぜいたく》はいってられません」
「そうですか。じゃあ連絡をとってみます」
廣瀬は腰を浮かせて、携帯電話を取りだした。ふたりに背を向け、いったん廊下に出る。
連絡先は、本庁から届いたファックスに記されている。廣瀬は懐に入っていたその用紙をだして、広げてみた。
二十八という実年齢よりずっと若くみえる女の顔写真がそこにあった。大きな瞳《ひとみ》に、どこかすましたように感じられるつんとした鼻、薄い唇がバランスよくおさまり、ウェーブのかかった髪にふちどられている。見れば見るほど美人だ。まるでファッション雑誌の表紙をかざるモデルのようでもあった。
プロフィールには身長百六十五センチ、体重四十八キロと記載されている。理想的なプロポーションといえるだろう。小顔のようだが、それだけの背丈があれば八頭身か九頭身といったところかもしれない。
気になるのは、その履歴だ。十八歳で防衛大学校に入学。二十二歳で首席卒業、幹部候補生学校を経て航空自衛隊に入隊、すなわち幹部自衛官だったわけだ。二十五で除隊、以後臨床心理士に転職し、現在に至るという。名前は、岬美由紀《みさきみゆき》。
防衛省出身であることを最も重視しての人選だと、本庁はその意向を伝えてきている。臨床心理士は資格制ゆえに、以前の職業は多種多様だという。そのなかから、なぜ防衛省出身者を選ぶ必要があったのか。まるで理由が見えてこない。
首をひねりながら、廣瀬は用紙に記された番号を携帯電話に入力していった。二十八で国家公務員の道を外れた女、か。地方公務員の俺にとっては理解しがたい人生だ。心のなかでそうつぶやいた。