廣瀬正司警部補は当惑を禁じえなかった。
畔取夫妻とともに屋敷の客間で待つこと二時間、ようやく現れた岬美由紀なる臨床心理士は、写真で見るよりもさらに若々しく、ほとんど女子大生といっていい風体だった。スーツではなくジーンズの上下というカジュアルな装いのせいかもしれないが、本庁がなぜこの人選を押しつけてきたのか、ますます理解に苦しむ。
それにしても、弱冠二十八の若さでランボルギーニに乗るうえに、廊下を歩いてきたときの油断のない豹《ひよう》のような身のこなしといい、絶えず油断なく辺りを監視するかのような大きな瞳といい、どこか変わっている。美人には違いないが、隙というものがまったく存在しない。こんな臨床心理士がいるのだろうか。
岬美由紀はこの屋敷を訪れるとすぐ、畔取利行から事情を聞き、彼の妻の直子に起きた一部始終の説明に耳を傾けていた。それが終わると、記憶喪失についての簡単なテストがあった。
美由紀は直子にいくつか質問をし、直子はそれに答えていった。都道府県名をすべていえますか? はい。昨晩なにを食べたのか覚えてますか? いいえ、よく思いだせません。
「なるほど」と美由紀はいった。「宣言記憶のなかでも意味記憶については健忘は生じてませんが、出来事記憶は記銘の段階でうまくいっていないようですね。精神科医の見立てどおりです。そして、五浦海岸での転落事故以前の記憶喪失については、逆行健忘の時間|勾配《こうばい》を伴っている。はるか昔に起きたことは覚えていても、事故の日が迫るにつれて記憶が曖昧《あいまい》になっている」
夫の利行がきいた。「つまり、家内の記憶喪失は本物というわけですか」
「そのとおり。奥様の言葉に嘘偽りはありません。ところで、旦那《だんな》様のほうですが……」
「私はサインドだよ。ご存じと思いますが」
「ああ……それなら知ってます。なるほど」
廣瀬は妙に思った。
いま岬美由紀と畔取利行のあいだで交わされた会話の意味はなんだろう。美由紀はなにを問いかけようとし、どんなことに納得したのか。利行の口にしたサインドという単語も耳に馴染《なじ》みがない。
利行は真顔で美由紀を見つめた。「医師の話では心因性ということでしたが……」
「そうですね。でも奇妙なことに、直子さんは質問に理路整然と答えたり、規則正しく暮らすことには苦痛を覚えていないようです。強迫性障害に端を発しているのなら、こうしたことを行うにあたって駆り立てられているかのような強迫観念が生じるんですが、そうでもないようです」
「というと?」
「何者かに追われたことへの恐怖が記憶喪失の原因ではないようです。崖《がけ》まで追い詰められて危険な目に遭ったというのに、追っ手に対する恐怖心はさほどでもなく、ただ転落したことで生じた外傷後ストレス障害のみが原因と考えられます。状況から察するに、こんな症例は考えにくいんですが……」
「私としては、とにかく家内の記憶が戻ることがなにより重要です。どのような療法が効果的なんですか?」
「強迫性障害なら医師による薬物療法をお勧めしますが、この場合は……。お屋敷のなかで目につく物だけでは、直子さんの記憶を呼び覚ますきっかけにならなかったわけですから、ほかになにか重要な物でもありませんか? 直子さんが大事にしていた物で、事故後まだ目に触れていない物は」
「品物ですか……。ああ、そうだ、あれはどうでしょう」
利行は立ちあがって、近くの書棚から古くなった封筒を引き抜いてくると、テーブルに置いた。
封筒の表にはボールペンで走り書きがしてあった。FIFA女子ワールドカップ第十四回アジア予選。サイアムシティ五月二十七日〜。
美由紀がきいた。「なかを見ても?」
「どうぞ」と利行がいった。
廣瀬は美由紀の手もとを覗《のぞ》きこんだ。封筒から取りだされたのは、航空券にアジア予選大会の観戦チケット、それに一万円札の束だった。二十万円ほどある。
「なんですか?」廣瀬はたずねた。
「ヘソクリですよ」利行は笑った。「私も知らなかったが、何年も前に家内がこっそり貯めたもののようです。隠したまま、忘れてしまってたんでしょうね」
「へえ」美由紀は直子を見つめた。「第十四回ってことは、二〇〇三年ね。このことは覚えてる?」
ところが、直子は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せるばかりだった。「さあ……」
「女子ワールドカップの選手の名前は? 誰か知ってる?」
「……いいえ。わかりません」
「サイアムシティって、バンコクのシーアユタヤ通りに面してるホテルよね? たしか予選大会はバンコクで六月に開催されたし、ここにある物を見るかぎりでは、あなたはタイに長期滞在するつもりだったみたい。かなり思い入れがあったのね。ファンというか、立派なサポーターだったはずだけど……。なにも覚えてないの?」
「……思いだせないんです。すみません……」
「いえ。謝らなくてもいいんですよ。けれど、どうもヘンね……」
美由紀はしばらくのあいだ、チケットや紙幣を見つめていた。
やがて、なにかに気づいたように、片方の眉《まゆ》がぴくりとあがった。中身を封筒に戻してから、それを直子に押しやる。
「奥様」美由紀は告げた。「ごく最近のことなんですけど、この封筒をあなたに渡した人がいますね? 昔から持っていたことにしてくれと、誰かが頼んだはずです」
利行が面食らったようすできいてきた。「ごく最近?」
「そうです。これは偽装です。封筒も中身も古びているように見せかけてありますが、少なくとも当時用意されたものではありません」
「なぜです?」
「これを見てください」美由紀は封筒から紙幣を取りだした。「下のほうに小さく、国立印刷局製造と記してあるでしょう?」
「ああ……たしかに」
「二〇〇三年の四月に財務省印刷局が、独立行政法人国立印刷局となりました。それを反映して六月以降、紙幣にはこのように記されるようになったんです。その前は財務省印刷局製造、もしくは大蔵省印刷局製造となっていました」
廣瀬は息を呑《の》んだ。「じゃあ……」
美由紀はうなずいた。「五月二十七日からバンコクに滞在するために貯めたお金に、この紙幣が交ざっているはずがないんです」
「だ、だが」畔取利行はあわてたようにいった。「この封筒は、たしかに家内が持っていた物だよ。キッチンに隠してあったのを、私が数日前に見つけたんだ。誓ってもいい」
「ええ」と美由紀は微笑した。「わかってますよ。旦那様が嘘をおっしゃっていないことは、お顔を見ればわかります」
どうしてそう断言できるのだろう、と廣瀬は思った。美由紀の言葉は自信に満ち溢《あふ》れていて、なにもかも見透かしているかのようだ。
「だから」美由紀は直子に向き直った。「これは旦那様のしわざじゃなく、奥様の偽装です。とはいえ、奥様がみずから考えたことなら、自分が興味を持たない女子ワールドカップを旅行目的とは設定しないでしょう。もし奥様がサポーターだった場合は非陳述記憶といって、無意識のうちに湧き起こる衝動や行動として、現在の記憶の片隅に残っているはずです。言葉を話したり、椅子に腰掛けたりといった非陳述記憶に障害はなさそうですからね。だからこれは奥様以外の人間が考えたんです。これを押しつけてきて偽装を強要した人物がいたのです」
直子は呆然《ぼうぜん》とした目で見かえした。「強要……」
「誰かがあなたに言ったはずです。二〇〇三年に女子ワールドカップ観戦に行くはずだったのに行けなかった。そういう事実を頭に刻みこめ、と」
しばらくのあいだ、直子は無言で美由紀を見つめていた。
沈黙は長くつづいた。柱時計の音だけが秒を刻んでいく。
やがて、直子はぼんやりとつぶやいた。「思いだした……」
「なに?」利行が身を乗りだした。「本当か? 直子」
「わたし……。そう。この封筒を渡されて、そう言えって指示された。女子サッカーのファンだから、タイまで観戦しに行くって……。行けなくて残念だったって、さも悔しがれとも言われた……」
美由紀がきいた。「五浦海岸で何者かに追いかけられた夜のこと、思いだせる?」
直子の目は虚空をさまよっていたが、すぐにその表情に恐怖のいろが浮かんだ。
「怖かった」直子は怯《おび》えきった顔で告げた。「逃げなきゃいけないって思ってたけど、足がすくんで……。ほんの一メートル先も見えない暗闇だったし、どこから崖なのかわからないし……。それで、わたし、足を踏みはずしちゃって……」
「追いかけてきたのが誰なのかわかる? その人はあなたに何か言った?」
「ええと……。止まれって。それと、ああ、そうだわ。図面をどこにやったのかって」
「図面?」
「すぐに返さないと、大変なことになるって」
利行が直子の肩に手をかけた。「その図面だが、どこにあるのか判るか」
「……ええ。わかる。それも渡された物だから……」
直子は、サイドテーブルに置いてある自分のハンドバッグに手を伸ばした。それを逆さにして、中身をテーブルの上にぶちまける。
からになったハンドバッグの底を、直子は手でさぐった。それから、びりびりと底に張ってある布を剥《は》がしだした。
その隠し場所から、折りたたまれた紙片が取りだされた。
廣瀬はただ唖然《あぜん》とするばかりだった。いったい何が起きているんだ。この女はいったい何者だ。
だが、廣瀬が手を伸ばして紙片を受け取ろうとする前に、利行がサッと妻の手からそれを奪いとった。
畔取利行は、紙片を広げることもなく、懐にしまいこんだ。すぐに立ちあがり、きわめて事務的な口調で告げた。「じゃあ私はこれで」
その態度は、いままでの妻の身を案じていた夫という立場とは、まるで相容《あいい》れないものだった。まるで演劇を終えて舞台を降りる役者のように、さばさばとした物言いだけがそこにあった。
直子も異変に気づいたらしい。利行の顔を見あげ、呆然とした面持ちでいった。「あなた……誰? わたし、結婚なんかしてないわよ」
頭を殴られたような衝撃が廣瀬を襲った。
夫婦ではなかったというのか。そんな馬鹿な。身元は署のほうで確認済みのはずだ。
直子の夫になりすましていた男は、険しい目つきで廣瀬を見つめ、軽く頭をさげた。「防衛省内部部局、防衛政策局調査課の嵩原利行《たかはらとしゆき》。急ぎますので、これで失礼します。土浦駐屯地《つちうらちゆうとんち》で報告書をまとめますので、出来上がりしだい、茨城県警のほうにも文書でご説明させていただきます。それでは」
それだけ言い残すと、嵩原と名乗った男は直子に目もくれず、足ばやに退室していった。
「ちょっと」廣瀬は立ちあがった。「待ってくださいよ。いったいこれはどういう事情で……」
ところが、岬美由紀が座ったまま冷静な声をかけてきた。「警部補さん。行かせてあげてください。彼には彼の仕事がありますから」
「……お知り合いだったんですか?」
「いいえ。きょう初めて会いました」
「ほんとに? 岬先生はこれがどんな状況か、理解してるんですか?」
「この部屋に入った瞬間、わたしはあの人が直子さんの夫ではないと気づきました。彼は演技をしていて、記憶を失っている直子さんに夫だと思わせようとしていると」
「ど、どうしてそう見抜けたんですか?」
「……まあそれはいいとして、嵩原さんに悪意がないことは、彼の言葉でわかりました。|SAIND《サインド》と言ってたでしょう? Secret Action In National Defense、つまり国防上における機密行動ってことです」
「そうすると……諜報《ちようほう》員みたいな方だとか?」
美由紀はにこりともせずに首を横に振った。「日本政府にはそのような国内向けの潜入捜査員制度はありません。だから内部部局の人間が抜擢《ばつてき》され、その役割を担うんです」
「さっきの図面って、ありゃいったい何ですか」
「わかりません。わたしたちが知る必要もないでしょう。政府は、記憶喪失に陥っていた畔取直子さんから、あの図面をなんとしても取り戻さねばならなかった。それでサインドとして防衛省の人間が付きっきりになった。夫を装ったのは、直子さんに不自然がられずに行動を共にするためでしょう」
「なんてことだ。違法かどうかは知りませんが、感心しないやり方ですな」
「それだけ緊急性の高いことだったんでしょう。警視庁も全面的に協力したんでしょうね。医師の勧めで精神療法のために臨床心理士を呼ぶことになったけれども、ごく一般の人間では機密|漏洩《ろうえい》の心配を余儀なくされるので、わたしが呼ばれたんです」
なるほど。それで元自衛官か。サインドとやらの芝居につきあって口車を合わせてくれる人材を選んだわけだ。
すると俺は事情も知らされず、ただ踊らされていただけか。しかも、なんの役にも立っていない。とんだピエロに仕立てられたものだ。
そのとき、直子が椅子から滑りおちて、床にうずくまった。
押し殺したような声ですすり泣きながら、直子は身を震わせている。
美由紀がゆっくりと直子に歩み寄り、しゃがみこんで声をかけた。「落ち着いて。直子さん。ショックだったでしょう? もう心配ないわ」
「だ……だけど……あの……」
「夫のふりをしていたあの人の行動を、悪く思わないで。防衛省の人もみな、罪悪感と戦いながらその職務を遂行しているの。認知症のおじいさんの記憶をたどるために、息子のふりをしたりする人もいたわ。後日、きちんとした謝罪と御礼があるだろうから、不安がらないで」
まだ直子は泣きやまなかった。それどころか、いっそう顔を赤くして泣きじゃくりだした。
「わたし……。なんで、こんなことを……してたのか……」
「いまは気にしないで。あなたがどんな人で、何に関わっていて、どういう経緯であの図面を持つことになったのか、それはいまは問題じゃないの。事件性のあることについては、防衛省と警視庁にまかせておけばいいわ。あなたの人権はきちんと守られてる。いまは、あなた自身が健康を取り戻すことが重要なのよ」
「人権……? そんなの……もうないじゃない……」
ようすがおかしい、と廣瀬は思った。
美由紀も、直子の異変に気づいたらしい。表情を険しくしてきいた。「直子さん。どうかしたの?」
「……あの人、夫じゃなかったんでしょ? でもわたし、そう信じこまされてた……。だから毎晩、一緒に過ごしたし……あの人……」
「まさか……」
「あの人、わたしと一緒に寝たのよ! わたし、なにも思い出せなかったから、逆らえなかった……。あの人が夫だっていうから、だから、それで……」
またしても廣瀬は衝撃を禁じえなかった。
嵩原という男、この女性に手をだしたというのか。直子が彼を夫だと信じた、そこに乗じて己の欲望の捌《は》け口《ぐち》にしたのか。
大声をあげて泣く直子を、美由紀はじっと見つめていた。
美由紀は直子の身体を抱きしめた。硬い顔をしたまま、美由紀はつぶやいた。「もう泣かないで。わたしが味方よ」
それから美由紀は立ちあがると、つかつかと戸口に向かっていった。
廣瀬はあわててその前にまわりこんだ。「待ってくれ」
「そこをどいてくれませんか、警部補」
「いや、駄目だ。なにがどうなっているかきちんと説明してくれるまでは、ここを一歩も動かんぞ」
「なにを聞きたいんですか」
「すべてだよ。誰が真実を語っているか、さっぱりわからない。いまも奥さんの言葉を鵜呑《うの》みにしていいものか……」
冷ややかな目つきが、廣瀬をとらえる。心臓をも凍りつかせるような美由紀の視線。廣瀬は思わず、ぞっとして立ちすくんだ。
「それなら保証します」美由紀は静かに告げた。「彼女は、嘘をついてません」
また断言した。根拠もいっさい示すことなく、ただそう言い切った。
だがそれだけで、廣瀬はなにも言えなくなっている自分に気づいた。
自信に満ちた鋭い眼光。その気迫に押され、思わず後ずさる。
美由紀は廣瀬の脇を抜けて、歩を進め、部屋をでていった。
深く、長い自分のため息を廣瀬はきいた。
なぜだろう。彼女には逆らえない。この世のあらゆる真実をことごとく看破している、そんな気がする。