廣瀬正司警部補は、覆面パトカーを道端に寄せて停めた。
夜の国道一二五号線、クルマは途切れることなく往来している。トラックが多く、ほとんどが飛ばしている。本来ならこんなところに停車すべきではないだろう。
だが、いまは事情が違った。左手に延々とつづく塀の向こうは、土浦|駐屯地《ちゆうとんち》だ。
助手席の畔取直子に目をやった。
直子はうつむいて、ハンカチで涙を拭《ぬぐ》っている。家をでてからずっとそうしていた。
「だいじょうぶかね」と廣瀬は声をかけた。
「ええ……」直子がつぶやいた。
「なあ。あなたが望んだから、ここに連れてきたんだが……。出直したほうがいいんじゃないか? あの防衛省の人に事情を聞くといっても、駐屯地には入れないだろうし……」
しばしの沈黙のあと、直子が小声でいった。「お巡りさんは、力を貸してくれないんですか」
「そりゃ、逮捕状でも出れば別だけどね」
気まずさの漂う静寂が車内に降りてきた。
直子がなにを訴えたがっているのかはわかる。ようやく、少しずつ冷静さを取り戻して、嵩原利行という男に抗議したいと感じだしたのだろう。記憶もそれだけ回復しつつあるに違いない。
夫を装って好き勝手をした嵩原に腹を立てる気持ちはわからなくはない。だが、そもそも直子も防衛省に目をつけられるような図面を手にしていたのだ。しかも、正体不明の連中に追われていた。怪しい生活に身を委《ゆだ》ねていたからこそ招いた災難ではないのか。
とはいえ、直子は凶悪犯には見えなかった。ごく一般の、どこにでもいる若い女性でしかない。それゆえに、一連の出来事にショックを受けているのだろう。
なぜ彼女はこんなことに巻きこまれてしまったのだろう。
ため息をついたそのとき、いきなり前方でなにかが衝突する音がした。
ゲートを突き破って、オレンジいろの車体が飛びだしてきた。
ガヤルドだ。国道の流れを縫うようにして対向車線に入り、そこから逆方向に走りだした。
脇を通り過ぎる寸前、運転席がちらと見えた。たしかに彼女のクルマだ。岬美由紀が乗っていた。
と、後方でガヤルドはいきなり急停車した。それからUターンに入り、フロントをこすりながら中央分離帯に乗りあげると、こちらに向かって走ってきた。
一瞬で俺たちに気づいたのか。廣瀬は唖然《あぜん》としながら、ミラーのなかでどんどん大きくなっていくガヤルドを見つめた。
美由紀のガヤルドは、廣瀬の覆面パトカーの横にぴたりと停車した。ドアが開き、美由紀が降り立った。
国道の上だというのに、これでは二重駐車になる。廣瀬は困り果ててドアを開け、外にでた。
なにがあったというのか、美由紀の服は泥だらけで、頬をすりむき、血がにじんでいた。美由紀は助手席のドアを開け、なかにいた男を乱暴にひきずりだした。
路上に放りだされたその男を見たとき、廣瀬は息を呑《の》んだ。
嵩原利行だ。美由紀以上にぼろぼろになった服、顔は痣《あざ》だらけで、苦痛に歪《ゆが》んだ顔は失神寸前に見えた。
思わず覆面パトカーを振りかえると、直子は車外に出ていた。駆け寄ってきて、衝撃を受けたようすで立ちつくした。
美由紀は嵩原の胸ぐらをつかみ、直子の前まで引っ張ってくると、押し殺したような声でいった。「ほら、あなたが迷惑をかけた人。謝ったらどう?」
だが、嵩原はほとんど息も絶えだえという状況だった。荒く呼吸を繰り返しながら、呆然《ぼうぜん》と直子を見あげるばかりだった。
そのとき、美由紀の顔に怒りのいろが浮かんだ。
「謝れって言ってるの!」と美由紀は怒鳴った。
「ご……」嵩原は怯《おび》えたように目を瞬《しばたた》かせながら、震える声で告げた。「ごめんなさい……。ほんとに、申し訳ない……」
廣瀬は、直子に目を向けた。
直子はじっと嵩原を見つめていた。
その瞳《ひとみ》が潤みだす。声をあげて泣いたりはしなかった。ただ大粒の涙が頬をつたっていた。
こんなかたちで、裁きが下されることがあるなんて……。
いや。これを裁きと認めるわけにはいかない。状況から察するに、これは略取|誘拐《ゆうかい》と脅迫罪にほかならないだろう。
美由紀の腕に手錠をかけるべきだろうか。
だが、美由紀はそんな廣瀬の迷いなど意に介さないようすで、しゃがみこんで嵩原の懐を探りだした。
「おい」廣瀬はきいた。「なにをしてるんだ?」
「こういう男は、ほかにも余罪があるとみるべきです。再犯阻止のためにもすべての犯罪を暴かなきゃ」
「よせ。この男が何人の女性に手をだしたのかはわからんが、きみに捜査権があるわけじゃないだろう。こうやって半殺しにして、被害女性の前に連れてっては謝らせるつもりか? きみは仕置き人にでもなったつもりか」
そのとき、美由紀の顔があがった。
睨《にら》みつけるその目は、廣瀬がかつて見たことのない鋭さを宿していた。
そして、どこか物悲しかった。
抗議する視線であることはあきらかだった。しかし美由紀は、なにもいわなかった。また嵩原に視線を戻し、ポケットのなかをあさりだした。
廣瀬はなにも言えなくなっている自分に気づいた。
なぜだろう。いま岬美由紀がこういう行為に及んでいることを、まったく否定できない。なぜそんなふうに思うのだろう。これはれっきとした犯罪なのに。
あの目だ。ついいましがた廣瀬を見つめたあの目。そこに理由のすべてがある。どんな意味を持つのか、まだわからないが……。
美由紀の手がポケットからなにかをつかみだした。封筒だった。美由紀は中身をあらためたが、どうやら直子が持っていた図面らしい。
ほかには、携帯電話。それに、呆《あき》れたことにパチンコの特殊景品も何枚かあった。プラスチックケースに入ったライターの石で、景品交換所で換金してもらえるしろものだった。
所持していた物は、それですべてのようだった。直子以外の女性に性犯罪を働いた証拠となりそうな物は、どこにもない。
遠くでサイレンの音が湧きだした。ゲートから、青いランプを明滅させた車両がでてくるのが見える。
駐屯地の警務隊らしい。警察にも通報がいっているだろう。間もなく、パトカーも駆けつけるにちがいない。
立ちあがった美由紀は、嵩原利行の所持品をまとめてポケットにねじこんで、ガヤルドに戻ろうとした。
「待つんだ」廣瀬はいった。「どこへ行くつもりなんだね。しかも、こいつの持ち物まで……。窃盗になるぞ」
だが、美由紀はガヤルドのドアを開けながらいった。「かまいません。どうせ警察は圧力で動けないでしょう。手をこまねいて待つくらいなら、一線を越えたほうがましよ」
運転席に乗りこんだ美由紀は、ガヤルドを急発進させた。巧みにトラックの死角に隠れて、対向車線の警務隊の車両を躱《かわ》すと、みるみるうちに遠ざかっていった。
泣きながらたたずむ畔取直子、瀕死《ひんし》の状態で路上に横たわった嵩原利行、そして廣瀬。本来は無関係なはずの三人が、奇妙な成り行きでその場に取り残された。
廣瀬はなおも呆然とせざるをえなかった。
岬美由紀は少なくとも、直子に記憶を取り戻させるまでは冷静だった。なぜ急に義憤に駆られたのだろう。どうして歯止めがきかなくなったのか。