夜の世田谷から田園調布近辺を、縦横にパトカーが走りまわっている。遠方からでも、住宅地を右往左往する赤いパトランプが見える。
多摩川沿いのサイクリングロードにたたずんで、美由紀は思った。もう警視庁に手がまわっている。ガヤルドは逃走経路とは逆方向のひたちなか市方面に乗り捨ててきたが、さほど時間稼ぎにはつながらなかったようだ。
おそらく美由紀が茨城を抜けだしたことは警察も把握済みで、首都圏全域に緊急配備網を拡大したのだろう。面子《メンツ》にこだわる防衛省が躍起になって、警視庁に早期逮捕を依頼したに違いなかった。
美由紀はなにも感じなかった。いま捕まるつもりはないし、その可能性もない。わたしは、わたしの手で真実を追求する。この道を選んだことに後悔はない。
斜面を駆け降りて、河川敷に向かった。ひとけのないグラウンドを囲む並木のなかに身を潜める。
都内でも多摩川付近は、橋が少ないせいでパトカーの行き来も限定される。とりあえずここにいれば安心だろう。
嵩原利行からせしめた封筒を取りだす。なかの紙片をひっぱりだして広げた。
暗くてよくわからない。携帯電話の液晶のバックライトで照らす。
たしかに咸鏡南道のミサイル基地らしき図面だ。文字はハングルだし、テポドン2号とおぼしきミサイルの格納庫や発射管、フェーズドアレイ式レーダー装置も描かれている。しかし……。
ため息が漏れる。こんな物を防衛省が追いまわしていたなんて。
美由紀は携帯の電話帳データから、古巣の人間を探した。五十音順で、すぐに目につく名前があった。
伊吹直哉《いぶきなおや》。その表示をしばし見つめる。
電話をかけるのはためらわれる。どうしてだろう。話したくないからか。それとも彼を、巻きこみたくないからか。
かまわない。わたしは防衛省に言伝《ことづて》を頼める人間を探しているだけだ。美由紀は通話ボタンを押した。
呼びだし音のあと、低い男の声が応じた。「はい」
「伊吹先輩? いま話せる?」
「おい、美由紀か!? どうしたってんだ。百里基地のお偉方も、おまえの話で持ちきりだぞ」
「そこブリーフィングルーム? 周りに人は?」
「いや。待機室だ。いまアラート待機中だが、相棒は装備品の交換に行ってる」
「三〇五飛行隊はあいかわらずのんびりしてるのね」
「余裕があるんだよ。精鋭揃いだからな」
「ミサイルでも飛んできてスクランブル発進の命が下ったら、イーグルで出撃ってところだろうけど、今晩はそんな心配はないって偉い人に伝えておいて」
「どういうことだ」
「防衛政策局調査課がサインドして追ってた図面があるんだけど、真っ赤な偽物よ。それもまるっきり想像で描いたものね。北米航空宇宙防衛司令部《NORAD》の基地図面をアレンジして、イラストレイターがそれらしく仕上げたものだわ。しかもこれ、色校のコピーね」
「色校?」
「カラー印刷する前に、チェックのために製版フィルムのデータを出力したものよ。要するに、どこかのゴシップ雑誌のグラビアページね」
「ああ、その手の雑誌はよく見かけるな。これが北朝鮮ミサイル基地の全貌《ぜんぼう》だ、とか。俺らからすれば失笑もんだが」
「機密情報にはほど遠いわね」
「なあ、美由紀……。どうしてその図面を持ち去ったりしたんだ?」
「真実はさっさと暴かないと、被害者の女性がいつまでも苦悩を引きずることになる。理由はそれだけよ」
「なら、もう出てきて事情を説明すればいいだろ」
「防衛省や警視庁にまかせてはおけない」
「美由紀。おまえ、法治国家に住んでるってわかってる?」
「当然でしょ」
「犯罪者になるつもりかよ」
「直子さんを少しでも早く安心させられるのなら、それも悪くないわね」
「どうしてそんなふうに強がるんだよ。昔のおまえに戻っちまったのか?」
「昔って?」
「いや……まあいいけどさ」伊吹は声をひそめた。「居場所を教えてくれ。俺ひとりで会いにいくよ」
「アラート待機中でしょ。国防の義務を放りだしてもいいの?」
「おまえを自由にさせとくほうがよほど国家の危機だよ。とにかく、ひとりでいるよりは安全だろ」
「わたしを助ける気なの?」
「まあな」
「どうして?」
「そりゃ……おまえのことを、そのう……気にかけてるからさ……」
「……心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから。じゃ」
美由紀は電話を切った。
抑えていた感情が溢《あふ》れだしそうになり、深呼吸して平静を保つべく努力する。
昔つきあっていた男と話すことが、これほど困難だとは思わなかった。胸を締めつけられるような苦痛が伴う。
わたしはいま孤独だ。そのことを認識せざるをえなかった。
しばし目を閉じて、心が落ち着くのを待つ。
仕方がなかったことだ。わたしは決して、彼を頼ろうなんて思ってやしない。わたしは、独りでも平気だ。独りでも……。
思わず涙がこぼれそうになる。頭を振ってその思いを払いのけ、嵩原利行の携帯電話に手を伸ばした。
問い詰められても悪びれることさえなかったあの態度から察するに、畔取直子のほかにも、大勢の女性を泣かせているにちがいない。許せない話だった。すべてを断罪するまで、追及の手を緩めるべきではない。
だが美由紀の予想に反し、電話帳データにはなにも記録されていなかった。それらしきメールの送受信もない。
となると、あとはネットだろうか。インターネットに接続して、フルブラウザ機能で表示する。ブックマークされているURLを選択した。
すると、怪しいサイトがあらわれた。�新・出会いの館�とある。
説明文によると、男性会員は登録女性の写真とプロフィールのなかから気に入ったものを選び、本部に問い合わせれば、その女性の住所が返信されてくるのだという。
嵩原は会員になっているらしく、女性のリストが閲覧できた。何人か選んで表示してみると、克明に映った顔写真とともに年齢、趣味、勤務先、通勤に用いる電車まで、個人情報が詳細に記載されている。
これらの女性は全員、本人の意思で登録しているのだろうか。ありえないと美由紀は思った。人数が多すぎる。表示によれば女性の登録数は二万人を超えていた。男性にのみ選択権があり、女性にその自由はないというのも、公平さに欠ける。
ふと気になり、五十音のヤ行を選んだ。
ユで始まる名前のリストに目を通す。やがて、美由紀は衝撃を受けた。
雪村藍。本名で登録がある。
選択すると、藍の写真があらわれた。駅にいるところを隠し撮りされたようだ。趣味の欄には、好きなアーティストとしてセブン・エレメンツの名があり、お気に入りのファッションブランドとしてアルバローザとセシルマクビー、サイズはSとあった。飼いたい猫はロシアンブルー、近いうちに行きたいところは箱根の温泉……。
間違いない。藍のもとに現れたストーカーたちは、このサイトの会員だ。
だが、どうしてここまで個人情報を調べられるのだろう。友人のわたしにさえ伝えていなかったことまで、どうやって……。
ここで考えあぐねていても、結論は出そうになかった。美由紀は立ちあがり、歩きだした。
現状で藍のもとを訪ねるのは危険きわまりない。だが、ためらう気など起きない。わたしは彼女を救う。この手の男たちの餌食《えじき》になるのを、黙って見過ごせるはずがない。