隅田川花火大会当日の正午すぎ、青空が広がり、夏の陽射しが降り注いでいた。
岬美由紀は代々木公園にいた。広大な緑地のあちこちでフリーマーケットの出店がある。きょう、都内で催されるフリマはここしかなかった。
広場をめぐってみたが店の数は膨大で、人出も多くてとてもひとりの男を見つけられる状況ではない。
困惑して、噴水の近くのベンチに腰を下ろした。週刊インシデントを取りだして、グラビアページを開く。
南米風の男が敷物の上にアンティーク小物を並べ、商売をしている写真。手がかりはこれだけだった。この光景がきょう都内にあるとすると、おそらくここだ。しかし、その居場所を特定するのはひどく困難だった。
菖蒲町から都内に舞い戻ってからはずっとネット難民の生活だった。インターネット・カフェは便利だ、シャワーもあればコインランドリーもある。あちこち擦り切れたデニムも、ヴィンテージ風に見えて不自然さはない。
何日も個室に潜んで考えあぐねた結果、当日の動きを押さえるしかないという結論に達した。ノウレッジ出版は花火大会に大惨事を引き起こそうとしている。この未来の雑誌記事に、シナリオが断片的に明かされている。それを追うしかない。
もうすぐ午後一時、写真の店主が日本人男性と取り引きするという時間だ。ぐずぐずしてはいられない。
写真にほかに手がかりはないだろうか。美由紀は何日も眺めた写真を、食いいるように見つめた。
きょうここで起きることをあらかじめ撮ってあるのだとすると、フリーマーケットでも同じ場所に出店しているはずだ。
男の前に並んでいる小物が気になる。銀の燭台からうっすらと煙が立ち昇っていた。
撮影の寸前までロウソクに火をつけていたのだろう。あるいは、火のついた状態で撮影しようとしたのかもしれない。
なぜ消したのか。火がついていたのでは、不都合があったのか。
しばらくロウソクを眺めるうちに、その上部が斜めになっていることに気づいた。
点灯したロウソクの蝋《ろう》は溶けていき、上部は地平に対し平行になるはずだ。それが斜めになっているということは、ロウソクそのものが傾いていたのだろう。
はっと息を呑《の》んで、美由紀は立ちあがった。
坂だ。この男は坂道に出店している。写真は、坂道に垂直に立ったカメラマンによって撮影されているため、そうは見えない。しかし、ロウソクの火はまっすぐ空に向かって立ち昇ったため、場所がばれることを嫌って消したのだろう。
美由紀はフリマの案内のチラシを見た。
公園内のほとんどの領域がフリマ出店可能になっている。ほとんどが中央広場だが、展望デッキに続くなだらかな昇り坂の道沿いにも出店がある。
すぐに美由紀は駆けだした。人ごみのなかを縫い、ときおり制服警官を見かけるとなにげなく方向を変えてやりすごし、徐々に坂に接近していった。
息を弾ませながら、その坂道を登っていく。両脇には敷物が隙間なく並び、出店者がひしめきあうように座っている。
やがて、視界の端にとらえた光景に、美由紀はどきっとした。
いた。
あの写真の通りの男が、タイル張りの壁の前に座っている。壁には例の綴《つづ》りの間違った看板があった。Free Market。
並べてある商品も写真と寸分たがわない。売れ筋の物がないせいか、彼の前で足をとめる客はいなかった。
南米風の男は暇そうに伸びをした。その手が、頭上の松の木の枝に当たった。写真には写っていなかったが、この坂道の並木は松だった。
男はゆっくりと立ちあがると、木に向き直り、枝から松ぼっくりをいくつか引き抜いた。それらを手のなかで弄びながら、また敷物の上に座る。
爆弾の密造業者とは思えない怠惰な態度、隙だらけだった。やはり彼もエキストラなのだろう。
目が合いそうになったため、美由紀は手近な店を覗《のぞ》くふりをした。
しばらく時間が過ぎた。やあ、という声がふいに耳に飛びこんできた。
美由紀は呼びとめられたのかと思い、あわてて顔をあげたが、声をかけられたのは例の南米風の男だった。
頭の禿《は》げた青いスーツ姿の日本人男性が、カバンを片手に歩いてくる。サングラスをかけた目で、周りをきょろきょろと見回していた。いかにも不審な行動だ。
青いスーツの男は、南米風の男の前に立ってきいた。「例のもの、用意できたか」
「ああ」相手は流暢《りゆうちよう》に答えた。「できてるよ」
「威力のある爆発物らしいな」
「まあな。C4と同じぐらい強力だ。ダイナマイトの二倍の爆速があるんだぜ」
隣りの店を見物しているふりをしながら、美由紀は思わず苦笑しそうになり、口もとを手で押さえた。
なんという下手くそな芝居だろう。セリフまわしが不自然すぎる。表情もこわばっていた。ひとこと発するたびに、下|瞼《まぶた》と頬が同時に痙攣《けいれん》する。心の籠《こ》もっていない発言、つまり演技であることを表している。セリフも、どこかの小説をつぎはぎにしたようなものだ。
それでもふたりは、大声で爆弾に関する談義をつづけている。通行人の何人かは妙な顔をして、彼らを振りかえっていた。
怪しい男たちがいた、そういう記憶を不特定多数の脳裏に刻みこむためのパフォーマンスだった。のちに週刊インシデントが発売されたとき、そういえばこんな奴らを見たという目撃情報があればしめたものだと、版元は考えているのだろう。
南米風の男は、黒いスポーツバッグを手渡してから、松ぼっくりを投げて寄越した。「こいつはおまけだよ」
青いスーツが笑った。「爆発はしねえだろうな。じゃ、金は指定の口座に振りこんでおくからな。仕事があるんで、失礼する」
「ああ。幸運をな」
男が立ち去ろうとしている。美由紀はそれを追おうと身体の向きを変えた。
ところがそのとき、立ちふさがったアロハシャツ姿の男が、美由紀の腹部になにかをあてがった。
「なにを……」
身を退《ひ》かせる暇もなく、痺《しび》れるような痛みが全身に走った。
スタンガンだった。それも改造して電流を強化したものだ。美由紀は痙攣したまま前のめりに倒れ、男がそれを抱きとめた。
周囲の人々がこちらを見たが、すかさずアロハシャツの男が笑いながらいった。「参ったよ。陽射しが強いから帽子|被《かぶ》れって言ってるのに。救急コーナーはどこかな?」
あっちですよ、という女性に、アロハシャツは答えた。どうもありがとう。
違う。美由紀は叫ぼうとしたが、声がでなかった。腕も脚も感覚が麻痺《まひ》して、力が入らない。
男は美由紀を抱きかかえたまま歩きだした。混みあう歩道から外れて、芝生の丘陵地帯をゆっくりと下る。
耳もとで男が囁《ささや》いた。「油谷社長が会いたがってる。おとなしくついてくるんだな」
油谷。ノウレッジ出版の経営者の名だ。やはり、こんなやくざ者を雇っているのか。
わたしを探しているのは警察だけではない。迂闊《うかつ》だった。
だが美由紀は、痺れが少しずつ和らいでいることに気づいた。
意識はあるのだから心臓は停止してはいない。随意筋の運動が不能になっているが、ほんの一時的なものだ。現に、引きずられているつま先の感覚が戻りつつある。指先を動かすこともできる。
ふつうの女性なら、麻痺はもっと長くつづくのだろう。感電に伴い、精神的なショックも尾をひくからだ。だがわたしに、そんな副作用はありえないと美由紀は思った。血のめぐりとともに、神経と筋肉は正常反応に戻っていく。急速に回復していく。
美由紀は、そのことを悟られまいと、ぐったりと全身の力を抜ききった。男はわたしを警戒していない。動けなくなっていると信じている。充分回復するまで、このままにしておけばいい。
芝生を抜けてサイクリングコースに差し掛かった。
後方から自転車が接近する音がした。男はわずかにあわてたようすで、道端に避けた。
その動作の隙を突いて、美由紀は全身に力を戻し、男の腰を両腕で思いきり締めあげると、蝦反《えびぞ》りになってバックブリーカーをかけた。
男は悲鳴とともに後頭部をサイクリングロードの路面に打ちつけ、苦痛に顔をしかめながら転がった。
「このアマ!」男はスタンガンを取りだすと、美由紀の脚を狙ってきた。
だが美由紀は男の腕を力強く踏みつけ、スタンガンを奪うと、男の首にあてがってスイッチを入れた。
青白い光とともに弾《はじ》ける音がして、男は一瞬の叫びとともに大の字になってのびた。
スタンガンを投げ捨てたとき、周囲の人々が唖然《あぜん》としながらこちらを見ていた。
ずいぶん人目がある。ここで男を締めあげて吐かせることはできないだろう。通報されないうちに、別の手がかりを探したほうがいい。
美由紀は駆けだし、いま来た道を引きかえしていった。南米風の男か、その取り引き相手。どちらもエキストラに違いないだろうが、その雇い主を突き止めねばならない。
だが、坂道にまで舞い戻ったとき、南米風の男は敷物ごと姿を消していた。
周りを見渡したが、彼からバッグを受け取った男も見当たらない。
あのバッグに本物の爆発物など入ってはいないだろうが、その行方を追えないとなると……。
週刊インシデントを取りだした。該当ページを開く。記事には、午後三時の出来事が記載してあった。レインボーブリッジの下にジャケットが漂流。
走りだした美由紀は、階段を駆け降りて駐車場に向かった。移動手段は、状況によって判断するつもりだった。
駐車場を眺め渡したとき、適当な足はすぐに見つかった。薄汚れたヤマハのYZF1000Rがエンジンをかけたまま停めてある。
持ち主らしき人物は、すぐ近くのクルマを覗きこんで談笑しているツナギを着た男だろう。知人に会ったか、待ち合わせしていたかだ。どちらにしても彼にとって不幸な日には違いなかった。
美由紀はバイクにまたがった。ヘルメットがほしいところだが、持ち主が被っている以上はそうもいかない。
足つきはよくなかった。ほとんどつま先立ちだ。それでも贅沢《ぜいたく》はいってられない。美由紀はバイクを発進させた。油圧式のクラッチがかなり堅くて重い。
スロットルの音を聞きつけて持ち主が振りかえった。突然の事態に思考がついてこないのか、とっさに駆け寄ってはこなかった。美由紀が駐車場の出口にさしかかったとき、ようやく叫ぶような声がした。
明治通りを首都高速の入り口めざして走る。トルクは充分だ。ただノーヘルなだけにパトカーに見つかるとやっかいだった。料金所は突破せざるをえないだろう。
ここまできて、惨劇を発生させるわけにはいかない。明日発売の週刊インシデントがノンフィクションとなるのを、黙って見過ごすわけにはいかなかった。事件《インシデント》で泣く者がいるとすれば、それはノウレッジ出版の関係者のみだ。