岬美由紀の消息が途絶えて、四日が過ぎていた。
夜七時半。嵯峨敏也は臨床心理士としての一日の業務を終えると、きょうも警視庁の捜査本部に足を運んだ。
なんの情報も得られていないとわかっていても、じっとしてはいられない。美由紀のことが気がかりだった。少しでも捜査に協力できるものなら、そうしたい。
だが、会議室に集まった捜査員たちは毎晩のごとく、テーブルにひろげられた地図を深刻そうな顔で見つめるばかりだった。
その地図も、最初は首都圏のみだったが、日を追うごとに広域のものに取り替えられ、今夜はついに日本全土になっていた。美由紀の手がかりがさっぱり得られず、どこに逃げたのかわからない。テーブルの地図はその事実を克明に物語っていた。
楠木《くすのき》という管理官は血相を変えて蒲生に怒鳴り散らしていた。「空前の捜査員数を動員しておきながら、依然として行方知れずとはどういうことだ。捜査対象の範囲を沖縄にまで広げるなんて、尋常じゃないぞ」
蒲生はうんざりした顔でいった。「ご不満なら指名手配に踏みきられたらどうですか。すべての空港や駅に警官を配置しているからといって、抜け道は無数にあります。とっくに外国に逃げてるかもしれませんよ」
「なぜそう言い切れる?」
「岬美由紀は元幹部自衛官、それも戦闘機のパイロットです。防衛大も首席卒業してる。航空自衛隊でも命令に背いて単独行動をとることが多かったそうですから、組織の監視の目を盗むことも得意としてたわけです。緊急配備網もかいくぐるぐらい、お手のものでしょう」
「感心してる場合か。岬が埼玉の菖蒲町で騒ぎを起こしたとき、埼玉県警のみならず首都圏の全パトカーに現場に急行するよう、指示を出すべきだったんだ」
「しましたよ。でも田舎すぎて場所がよくわからず、朝までにたどり着けたパトカーはごく一部でした」
「岬はあそこで何をしていた?」
「さあ。ノウレッジ出版が不法就労者を雇っていたことぐらいはわかりましたが、書籍や雑誌を印刷することは違法でもないし、それ以上の追及もできなかったので。あんな田舎に製本所を持つ必要がなぜあったのか、そこのところはおおいに疑問ですが」
「いま問題にしているのはノウレッジ出版ではなく、岬美由紀のことだ」
「ええ。わかってますよ。とにかく、防衛省で機密扱いになっていた活動とやらに端を発する事件である以上、指名手配はできないし、聞き込みできる場所も限られている。人海戦術といえど、これではお手上げです」
「いや。捜査員を隈《くま》なくパトロールさせることで、必ず情報は得られる。それが実現しないのは、きみの知識に基づいた岬美由紀の行動予測が正確ではないからだ」
蒲生はむっとして、テーブルの上にあった書類の束を楠木の前に押しやった。
「お言葉ですが」と蒲生はいった。「報告書をもう一度お読みになったらどうです。十三億人の中国人が不法入国した彼女ひとりを追っかけても、まるで捕えることができなかったんです。彼女のサバイバル戦術は独特のものであり、しかも人の感情を読む能力を身につけてます。裏をかくことなんて、そうできるもんじゃありません」
「蒲生。きみはわれわれの仲間か、彼女の味方か、どっちなんだね。だいたい、岬美由紀のかねてからの知り合いだったからには、彼女の内なる変化に気づかなかったというのは警察官としての怠慢だぞ」
「内なる変化?」
「優秀な国家公務員が、いまは国を引っ掻《か》きまわしている。よほどの心変わりがあったとしか思えん」
ところがそのとき、低い男の声が告げた。「ちょっと違うんじゃないっすか。幹部自衛官として成績がよくても、国家の犬として忠実かどうかはわかんねえっていうか」
捜査員たちがいっせいに妙な顔をして振り返った。
嵯峨も戸口を見やった。
会議室に入ってきたのは、一八〇センチほどの長身で、スポーツ選手のようにスマートでありながら筋肉質な男だった。服装をカジュアルなデニムで統一しているところは美由紀と同じだった。年齢は三十代前半、パーマのかかった長髪で、浅黒い顔は精悍《せいかん》そのものだった。
刑事にしては態度が砕けすぎているし、健康的すぎると嵯峨は思った。湘南あたりでサーフボードを積んだワゴンを転がしていそうなタイプだ。ハンサムでもあるし、女性にももてるだろう。
男は真顔のまま、飄々《ひようひよう》といった。「自衛官ってようするに、人殺し候補ですからね。警官は拳銃《けんじゆう》持ってても、トレーニングといえばせいぜい射撃訓練ぐらいでしょ? 自衛隊は幹部候補生だろうが一般学生だろうが、人型の的の眉間《みけん》を撃ちぬく練習を積むし、突進していって人形の胸を銃剣でぐさりと刺す。事務職に就く女性自衛官でも、それに合格しないとクビになるんでね。いつでも人を殺《あや》めるぐらいの能力は持ってるってことです」
楠木は眉《まゆ》をひそめた。「誰だきみは」
蒲生が男を見据えた。「本当の人殺しは、たとえ未遂でも法に裁かれる。だが、われわれは自衛官だからといって逮捕することはない」
「でしょうね」男は不敵にいった。「理由はふたつ。一、自衛隊は理由なく殺さない。二、日本人を殺さない。それだけです」
「なにがいいたい」
「自衛隊という組織で優秀だと認められたことはすなわち、侵略してきた外国人を殺すにあたり、極めて秀でているという国家のお墨付きを得たということです」
「つまり、決して褒められたものではないってことか」
「まあ、そうっすね」
「ふん」楠木が鼻を鳴らした。「きいたふうなことを。誰か知らんが、知りもしないで幹部自衛官の評価に勝手な憶測をめぐらすことは……」
「知らないわけじゃないです」男はいった。「俺もいちおう、その端くれなんで。航空自衛隊、第三〇五飛行隊の伊吹直哉一等空尉です」
ざわっとした驚きがひろがるなか、嵯峨も圧倒されていた。
あれが伊吹か。岬美由紀のかつての恋人だ。名前だけは何度か聞かされたことがある。
「ああ」蒲生も同様らしかった。「きみが伊吹君か。美由紀から電話があったって件は聞いた。すると、いまの評論は岬美由紀についてじゃなく、きみ自身を分析したものか? きみもかなり腕が立つパイロットだそうだからな」
伊吹は肩をすくめた。「蒲生さんっすよね? 部屋に入ってきてすぐピンと来ました。なんていうか、以前に美由紀の話してた特徴とぴったり一致するんで」
「岬二尉じゃなく美由紀って呼ぶのか。親しそうだな」
「さあ、ね」
「自衛官仲間という以上の付き合いなわけか?」
「べつに。非番だったんで来てみただけです」
「彼女の行方を知ってるわけじゃないんだな?」
「まあね」
「なら、なるべく捜査員の邪魔にならないところに座っていてくれるか。聞きたいことがあったらこっちから声をかける」
蒲生はぶっきらぼうにいって、書類を手にとると背を向けた。楠木も視線を逸《そ》らすと、捜査員たちはわらわらと散っていった。
伊吹は少しばかり表情を険しくしたが、苦言を呈するほどではないようだった。ぶらりとその場を離れ、こちらに歩いてくる。
嵯峨はなぜか顔をそむけてやり過ごそうとした。
ああいうタイプの男は苦手だった。臨床心理士の同僚にはひとりとして存在しない人種。いかにも力が強そうで、存在感があって、ひどくつきあいにくい。はっきりいえば粗野だ。
ところが伊吹は、嵯峨の前まで来ると、顔をのぞきこんで声をあげた。「ああ!」
「な」嵯峨はびくっとした。「なんです?」
「きみ嵯峨先生だろ? 違う?」
「そうだけど……」
「やっぱりなあ。そうじゃないかと思った。臨床心理士なんだよな? 美由紀の同僚の」
「ああ。初めまして、伊吹さん。ええと、名刺あったかな」
「いいって。職場なら知ってるよ。一度行ったことがあるし。あれだろ、日本臨床心理士会事務局だっけ、本郷の」
「正解……。伊吹さん。たしか茨城の百里基地に勤務してるんだよね? 様子見だけのために、わざわざここまで来たの?」
「質問するのかい? 美由紀みたいに顔見て考えがわかるんじゃないの?」
嵯峨は戸惑った。「そりゃ臨床心理士としては表情と感情の相関関係は勉強してるけど……。美由紀さんみたいにはいかないよ。パイロットみたいな動体視力はないしね」
「そうか。いや、安心したよ。あいつ、俺の知ってるころからはずいぶん変わっちゃってさ。誰でも、知ってる女が千里眼になったって聞いたらびびるよな。見抜かれちゃまずいことも多々あるしな。そうは思わないか?」
「まあ……そうだね。でも、本当の千里眼ってわけではないし。美由紀さんの場合は、〇・一秒以下の表情の変化も見逃さないっていうだけで、あとは臨床心理学の普遍的な知識が支えてることだよ」
なぜか喉《のど》が渇く。嵯峨は会議テーブルのミネラルウォーターを手にとり、口に運んだ。
伊吹は頭をかきながらきいた。「美由紀のいまの彼氏、嵯峨先生?」
一瞬息が詰まり、水を吐きだしそうになった。嵯峨は激しくむせた。
「おいおい」伊吹がいった。「だいじょうぶかよ」
「ああ……。冗談きついよ。なんで僕が美由紀さんと?」
「いや、おとなしくて真面目そうだから、案外合うんじゃないかと思って」
「美由紀さんに釣り合う男性はなかなかいないよ。……っていうより、彼女のほうで恋愛は拒絶すると思う」
「拒絶? どうして?」
嵯峨は声をひそめた。「美由紀さんは他人の恋愛感情についてはまるで意に介さない。つまり、恋愛の概念が理解できていないんだ。実体験に基づく感覚が乏しいから、他人がそういう感情を抱いていても、表情から読みとることができない」
「俺とはいちおう、つきあってたぜ?」
「深い仲だった?」
「ひところは同棲《どうせい》してたからな」
「いや。僕がいいたいのは、そのう……」
「……わかる」伊吹は真顔になった。「ふたりとも二十代だったってのに、別々に寝てた。中学生並みにプラトニックな関係でね。誰も信じちゃくれないが」
「僕は理解できるけどね……。ひょっとして、その結果が……」
「そう。それ以上の関係には発展せずに離ればなれだ。無理もないだろ? まるで兄妹が交わるかのような嫌悪をしめすんだから。いちど強引に誘ってみたが、撃退されてね。あいつ、本気で反撃しやがった。で、俺は肩を脱臼《だつきゆう》した」
「その種のことに激しい反発が生じるのは、美由紀さんの特徴だといえるね。解離性障害も疑ってみたんだけど、もっと複雑みたいだ……。彼女は、男性が女性を暴力で屈服させることを許さない。性的な事情が絡むと、手に負えないぐらいになる」
「まあたしかに、幹部候補生学校でも美由紀に夜這《よば》いをしかけた男が半殺しになったと聞いたな。だが、いつもそうってわけでもないだろ。百里基地にいたころ、あいつの友達の女性自衛官がストーカー被害に遭って悩んでたが、美由紀はその男をしっかり説得したそうだぜ?」
「美由紀さん自身の問題じゃなく、他人についての相談だったからだろうね。でもそういう場合でも、たびたび暴走することがある。今回のようにね」
「なにが引き金になってるんだろうな?」
「そこなんだけどね。冠摩事件のとき、篠山正平《しのやましようへい》が妻の里佳子《りかこ》さんに大きな心の傷を与えたのに、美由紀さんはあくまで理性的だった。だから暴走のきっかけは必ずしも男女間の問題が絡んだときではない。一方で、つい先日、ある出会い系サイトに関することで美由紀さんは喫茶店のウェイターを追及してたけど、胸ぐらは締めあげていても決して暴走までは至ってなかった。ところが途中から、怒りの形相に変わってね」
「どんなきっかけだった?」
「サイトの男性会員が四十代以上と聞いたあたりだったと思う。それと、かつて米軍兵士にいたずらされた須田知美さんのように、十代の少女が被害者の場合にも、美由紀さんは激しい怒りを燃やすようだ」
「じゃあ、親の世代が子の世代を弄《もてあそ》ぶとか、そういうことに腹を立てやすいってわけか」
嵯峨は首を横に振った。「氏神高校事件では五十嵐《いがらし》親子を平和的に仲裁してる。たぶんこれは被害者が少年だったからだと思う。性的犯罪でもなかったし」
「で、嵯峨先生はどんなふうに分析してる?」
「加害者が四十代以上の男性か、もしくは被害者が十代以下の少女だったりすると、最も凶暴になる。必ずしもその例に当てはまっていなくても、それに近い状況であればあるほど、激昂《げつこう》しやすいってことだね。いかなる規則を破ろうと、自分の将来を棒に振ろうとかまわないという態度になり、加害者を徹底的に打ちのめそうとする」
「ってことは……」
「そう」嵯峨はうなずいた。「これらのケースのいずれも、ある事象を連想させる。父親の、娘に対する性的暴行。美由紀さんが理性を失う原因があるとすれば、おそらくそれだ」