首都高三号渋谷線から一ノ橋ジャンクションに向かい、都心環状線に入ったところで、美由紀は退避用の側道にバイクを乗り入れ、通行するクルマから見えないように手前の壁にぴたりと這《は》わせて停めた。
いったんバイクを降りて、美由紀自身も死角に隠れて座った。付近に監視カメラはない。ここでなら、しばらく休める。
上着が発見されるのは午後三時だ。あまり早く出かけても時間の無駄になるし、警察の目につく可能性も高まる。
二時半をまわったころ、美由紀はふたたび始動した。バイクに乗って側道をでると、浜崎橋ジャンクションからレインボーブリッジへと向かう。
美由紀はスロットルを全開にして橋へのスロープを昇っていった。花火大会当日だ、上下線とも交通量は多いが、バイクはすり抜けて走ることができる。遅れをとることはなかった。
橋に入ってすぐ、二箇所ある主塔の芝浦側で、バイクを路肩に寄せて停めた。主塔はこの真下に伸びている。腕時計を見ると、午後三時まであと七分足らずだった。
橋の上に延びるこの高速道路に歩道はない。人が降りることを想定していないため、縁の手すりは低かった。美由紀はそれを乗り越えると、主塔の側面にある鉄製のはしごにしがみついて、海面へと降りていった。
高さは五十メートル、風はひどく強い。潮のせいか足場も滑りやすくなっていた。遠目には美しく映えるレインボーブリッジも、顔をくっつけんばかりにして見れば錆《さび》とひびだらけだった。足場もあちこち外れている。踏み外したら一巻の終わりだった。
それでも、昇るよりは楽なのはあきらかだった。美由紀は猛然とはしごを降り続け、遂に主塔下部のコンクリートの上に降り立った。
満潮のようだった。海面までほんの数メートル、緑いろの苔《こけ》が足もとにひろがっている。磯の香りが鼻をついていた。波打つ東京湾の海面はヘドロでどす黒く染まり、魚一匹生息できそうにない。それでも、餌を求めてウミネコが飛び交っている。
そんな海面に美由紀は目を凝らした。午後三時にこの辺りで目撃情報があるのだとすれば、もう見えるはずだ。
やがて、シーバスが通り過ぎていった航跡の白い泡のなかに、青く浮かぶ布きれのようなものが見えた。
ここから約三十メートル。迷っている状況ではなかった。
美由紀は海に飛びこんだ。クロールで泳ぎ、漂う物体を目指した。
水中で目は開けられるものではない。実際、この海水は油のように、半固形で身体にまとわりつくように感じる。服が水を吸って急速に重くなっている。早く辿《たど》り着かないと身体が持ちそうにない。
やっとのことで、まだ泡の残る一帯に漂っていた目当ての物体を確保した。たしかに上着だ。それも、さっき代々木公園にいた頭の禿《は》げた男が着ていたものだった。
それを手に美由紀はさらに泳ぎつづけ、芝浦ふ頭近くにある波消ブロックが積みあげられてできた人工島に行き着いた。
ひどく重みを感じる身体を引き揚げて、コンクリート製ブロックの上に座る。
手にいれた上着のポケットのなかをまさぐった。これを警察に回収させるつもりだったのだから、事件に結びつく手がかりを故意に放りこんであるだろう。
サイフがあった。なかには濡《ぬ》れた札束と、数字を走り書きしたメモ、コインロッカーの鍵《かぎ》、赤いポーカーチップがあった。
美由紀はため息をついた。もっともらしく謎めいたアイテムばかりだが、これらの品々は雑誌記事にも書いてあった。すなわち、故意に用意されたものだ。読者に謎を投げて興味を引くためのものでしかない。やがてなんらかの解答が与えられるのだろうが、それも雑誌側がこしらえたフィクションにすぎない。
結局、後手にまわってノウレッジ出版のシナリオをなぞっているだけだ。真実を看破することはできないのか。
雑誌記事には、上着が「これより早い時間に勝鬨橋の下に漂っているのを見たという目撃証言も多く、隅田川方面から流れてきた可能性が高い」とあった。実際に隅田川で上着を放りこみ、ここまで漂流させたのだろう。潮の流れは案外速い。充分にありうる。
頭の禿げた男が次になんらかの工作を働くつもりで隅田川に向かったのだとすると、上着を放りこんだ地点は重要な意味を持っているにちがいない。
しかし、その場所を特定することはとても不可能だ。勝鬨橋より上流の十キロメートル以上がその対象になる。
これまでか……。
そう思ったとき、上着のポケットから転がりでたものがあった。
松ぼっくりだった。
あの南米風の男が暇つぶしに松の木からもぎ取っていた物か。頭の禿げた男と接触し、爆弾の引き渡しの芝居を演じたあと、ついでにと渡していた。
あれは決められた演技ではなく、アドリブだった。ふたりの表情筋が一瞬、緩んだのを覚えている。本人たちも冗談めかして、ふざけあったのだろう。
ふと、美由紀のなかにひとつの仮説が浮かんだ。
指先に力をこめて、松ぼっくりを割った。
なかから、液体がにじみでてくる。
美由紀はその液体を指先につけ、なめてみた。
からい。海水だった。つまりこれは……。