午後七時すぎ。町田駅のロータリー前は、帰宅を急ぐ人々の波でごったがえしていた。
雪村藍は歩道をうろつきながら、何度も携帯電話のリダイヤルボタンを押していた。
美由紀に電話をしても、いっこうにつながらない。電源が切れているか、電波の届かないところにいるためかかりません、そのメッセージだけが応じる。
会社が終わってから来ることは伝えてあったはずなのに、メールを送っても返事すらない。
この時刻に、町田駅にクルマで迎えに来てくれるはずなのに……。
じれったくなり、藍はタクシーで直接、目的地に向かうことにした。通行証は受け取っている。現地にいけば美由紀と会えるだろう。
日が暮れているせいで、市街地をでるとタクシーの窓から見える風景は真っ暗だった。小田急線の沿線沿いに走っていることがわかるぐらいで、民家の光もまばらだった。
ただ、基地の街であることをしめす断片はあちこちに見受けられる。ARMSという看板を灯《とも》した店舗もそのひとつだった。明るい店頭に並んでいるのは、迷彩服やヘルメットなど軍隊で使われるものばかりだ。
「兵隊さんが買うんでしょうか?」と藍は運転手にきいた。
運転手は笑った。「まさか。あれは中古品やイミテーションだよ。モデルガンも売ってる。マニアが買いにくるんだよ」
へえ。藍は気のない返事をした。誰が着たのかわからない軍服でコスプレをしたがる人もいるのだろうか。理解しづらい世界だった。
やがて、暗闇のなかに金網のフェンスが見えてきて、さらにゲートに行き着いた。警備しているのは、映画で観るようなアメリカ人の兵士だ。銃を携えている。これは本物に違いない。藍は妙に緊張した。
通行証をしめすと、タクシーごと乗りいれてもいいと言われた。
これまた映画を彷彿《ほうふつ》とさせる住宅街を抜けていき、雑木林に入る。
その向こうは一転して、ひどく地味な団地が広がっていた。
「おや」と運転手がいった。「なにかあったのかな。基地の保安部が繰りだしてきてるみたいだ」
前方に目を向けると、青いランプを明滅させたジープが連なっている。兵士たちが林のほうに集まっていた。
馴染《なじ》みのオレンジいろの車体を見たとき、藍は愕然《がくぜん》とした。
「ここでいいです、停めてください」藍はそういって、金を払った。
釣りを受け取るのももどかしい。ただちにドアから駆けだした。
兵士といえど、彼らの仕事は警察の交通課による事故処理と同じことのようだった。メジャーで現場の距離を測り、図表に書きこんでいる者。車両を写真撮影している者。しゃがんでタイヤ痕《こん》を確認する者。そして、現場を警備する者。
藍が走り寄ろうとすると、その警備の兵士が手をあげて制止した。「立ち入り禁止です」
カタコトの英語で、藍は必死に訴えた。「ザット、イズ……マイ・フレンズ・カー。オーケー?」
兵士は無表情のまま、行っていいと親指でしめした。
動揺を抑えきれないまま、藍はガヤルドに近づいていった。
道を大きく外れたガヤルドは、太い木の幹に突っこんで、ボンネットは大破していた。フロントガラスは粉々に砕けていて、エアバッグが作動した痕《あと》がある。運転席には人影はなかった。
辺りを見まわしながら、藍はいった。「美由紀さんはどこ? ホエァー・イズ・マイ・フレンド」
そのとき、遠巻きに眺めていた野次馬のような普段着姿のなかから、髭《ひげ》づらのたくましい身体つきの男が進みでてきた。「きみ、このクルマに乗ってた女の人の友達?」
「あ、はい……。よかった、日本の人ですか?」
「そうだよ」と男は愛想よくいった。「八木信弘っていうんだ、よろしく。この団地の住人でね。きみは?」
「雪村藍っていいます。なにがあったんですか?」
「子供が飛びだしたのを避けようとして、ハンドルを切りすぎたみたいだな。ずいぶん飛ばしてたみたいだし」
そんな……。あの岬美由紀が運転ミスだなんて。とても信じられない。
「美由紀さんはどうなったんですか?」
「脳|震盪《しんとう》を起こして、意識不明でね。団地の診療所に運ばれてる」
「どこですか。いますぐ会いたい……」
「いいとも。こっちだよ」
まるで現実感がない。悪い夢を見ているようだ。藍は呆然《ぼうぜん》としながら八木の後につづいていった。
団地の建物をまわりこむと、古いたたずまいの商店街にでた。往来する人々は藍を見ると、笑顔とともに頭をさげてくる。
いい人たちばかりのようだ。だがこちらとしてはとても笑いを取り繕える心境にない。
八木がきいてきた。「事故を起こしたお友達のご両親は、どちらにお住まいで?」
「ええと……いえ、美由紀さんに家族はいません。結婚もしてないし、独りでした」
「そう。じゃあ、万一の場合は……」
「身内の代わりなら、わたしが責任を持って務めますけど……ああ、でも、どうしよう……。とても信じられないよ。美由紀さん……無事でいてほしい」
商店街を抜けてしばらく歩き、B2と大きく記された団地のエントランスに入った。蛍光灯におぼろげに照らしだされた一階の廊下を進んでいくと、扉のひとつに相模原団地診療所の看板がでていた。
こんな粗末な部屋に運びこまれているのか。ただちに病院に運ぶべきでは……。
扉の前で八木が振りかえった。「携帯持ってる?」
「ええ」
「じゃあ電源を切ってくれないかな。医療機器に影響を与えるらしいから」
藍はハンドバッグから携帯電話を取りだすと、電源ボタンを押した。液晶画面が消灯すると、藍はいった。「消しました」
「よし。中に入って」
八木が扉を開けた。
靴のままで部屋にあがれるようになっている。狭い室内は開業医の診療所そのものだった。住民への検診の案内や健康診断の日程表が貼ってある。待合の長椅子には、誰もいなかった。
衝立《ついたて》の向こうに歩を進めたとき、藍は衝撃とともに身動きできなくなった。
心電図が弱い鼓動を断続的な電子音に変えて響かせている。その機械の前に横たわっているのは、岬美由紀に違いなかった。
頭に包帯を巻き、目を閉じた美由紀は、ベッドの上で仰向けになったまま、ぴくりとも動かない。
「美由紀さん!」藍は呼びかけた。
「静かに」と白衣姿の女がいった。
藍はその女を見た。日本人だった。にこりともせず、心電図のデータをクリップボードに書き写している。
「すみません……」藍はつぶやきながら頭をさげた。「お医者さんですか?」
「いいえ。わたしは薬剤師なの。塚本紀久子《つかもときくこ》っていうの。団地の薬局で働いているんだけど、急患がでたっていうから手伝いに呼ばれてね」
「じゃあお医者さんはどこに……」
「この診療所には専属のドクターはいなくてね。火曜と木曜に基地の嘱託医が来るだけなの。もちろん急患が発生したらドクターも飛んでくるけどね。さっきまでいたけど、わたしにこの仕事を預けて引き揚げていったわ。容態が悪化したらただちに知らせてくれって」
「ちゃんとした病院に運ぶべきじゃないでしょうか。救急車を呼ぶとか」
「わたしもドクターにそう言ったんだけどね、駄目だって。事故を起こした直後、この女性はまだ意識があって、ふらつきながらもこの診療所まで足を運んだの。事故の時点でいちど脳震盪を起こしているんだけど、ここに来てから意識を失ってね。これは医学的には二度連続の脳震盪らしくて、セカンド・インパクト・シンドロームっていうそうよ。非常に危険な状態で、動かすことはできないって」
「それなら、専門医を呼ぶべきじゃないでしょうか。脳震盪ってことは、脳神経医とかそういう人を……」
「基地のドクターは脳神経外科が専門よ。その彼がいうには、脳がダメージを受けている可能性があるから、精密検査が必要だけど、機材をそろえてここに持ちこむには時間がかかるって。なんにせよ、いまは安静にしている以外に方法はないそうよ」
「どこにも運べないってことですか?」
「断言できることは、彼女自身が意識を回復しないかぎり、手の打ちようがないってこと」
「そんな……。美由紀さん……」
藍はふらふらと美由紀に近づいた。
呼吸ひとつしない美由紀の顔を眺めているうちに、その視界は揺らぎだした。涙がこぼれ落ち、胸を締めつけるような悲しみがこみあげてきた。
「美由紀さん」藍は両|膝《ひざ》をついて、ベッドの傍らにすがりついた。「嘘でしょ。目を覚ましてよ。美由紀さん……」
自分のすすり泣く声だけが室内に響く。藍は絶望の淵《ふち》にいることを悟った。絶対に失いたくない人の命が危険に晒《さら》されるなんて。どうすればいいのかわからない。