伊吹直哉は百里基地の第七航空団共有のブリーフィングルームにいた。
防衛大の教室を思わせる室内にはフライトスーツ姿のライバルたちが机を並べ、真剣な面持ちで教官の言葉に聞き入っている。
「F2の場合だが」教官は黒板を指差した。「このエンベロープを見ればわかるように、米軍のF16と推力やロール性能に似通ったところがある。フライ・バイ・ワイヤー式を採用したわけだが、こいつがなかなか厄介だ。欠陥が起きて系統が切れても、レバーの重さが変わらない。油圧やリンクを手応《てごた》えで把握していた諸君は戸惑うだろう」
隣の席の口ひげを生やした大男、岸元涼平《きしもとりようへい》一尉が伊吹にささやいてきた。「対艦ミサイルを四発も搭載できるのはいいが、対空兵装はどうなってる? AAM4や5が難なく運用できるようになってほしいもんだ」
伊吹はつぶやいた。「機体色からして海上迷彩だ、対艦攻撃力を重視してんだろ。専守防衛の理念から言えば間違っちゃいねえ」
「敵がゆっくり船に乗って来てくれるとも限らないんだがな。巡航ミサイルにも対処できなきゃ宝の持ち腐れだ」
「飛んでくる弾道弾を戦闘機で撃ち落してまわるつもりか? まるで岬美由紀だな」
岸元は口を歪《ゆが》めた。「かもな。長いこと一緒に飛んだせいで考え方まで毒されちまったみたいだ。あれがいなくなって、二〇四飛行隊も寂しくなった」
「平和になったんだよ。|三○五《うち》じゃ基地の抱える最大のトラブルメーカーが去ったってんで、連日お祝いだった」
「……伊吹。前から聞きたかったんだが、おまえは美由紀については……」
教官はむっとしたようすでいった。「岸元一尉。なにか意見でもあるのか」
「いいえ」岸元は告げた。「パイロットとして、いかなる操縦方法にも適応していく所存です」
「操縦方法? いま話しているのは|二十ミリ機関砲(JM61A1)に関してだぞ」
失笑が広がるなか、岸元はばつの悪そうな笑いを浮かべた。
そのとき、伊吹の胸ポケットの携帯電話が短く振動した。
メールの着信か。電話を取りだして液晶画面を見やる。
驚いたことに、差出人は美由紀だった。
メッセージを表示したとき、伊吹は凍りついた。
すぐさま立ちあがり、机上のF2の最新資料を小脇に抱えて、後方の扉に向かう。
「おい」教官が呼びとめた。「伊吹一尉。どこへ行く」
「べつに。ちょっと電話をしてきます」
教官の小言を聞き流しながら、伊吹は扉を押し開け、通路にでた。
足ばやに歩を進めながら、藍からのメッセージを確認し、添付してあった画像を開く。
画像の筆跡はたしかに美由紀の字だ。
美由紀……。
第七航空団司令部の二階通路の突き当たり、パイロットに使用が許可されている簡易オフィスに足を踏みいれる。
空いているデスクにおさまると、伊吹は受話器をとった。
外務省の�なるせしろう�という人物にまず連絡をとらねばならない。部署も役職も不明だし、携帯電話では取り次いでもらえないだろう。その点、このオフィスの電話からなら話が早い。発信者番号が百里基地とわかれば向こうも真剣になる。
果たして、電話にでた女性の声は緊張を帯びていた。「外務省です」
「航空自衛隊第七航空団、第三〇五飛行隊の伊吹直哉一等空尉です。成瀬《なるせ》という方に緊急の用件があります。つないでください」
「成瀬……ですね。お待ちください」しばらく間をおいて女性がいった。「文化交流部、国際文化協力室の成瀬|史郎《しろう》でよろしいでしょうか」
「……はい。お願いします」
回線がつながるのを待つあいだ、伊吹は首をかしげた。国際文化協力室だと。そんなところに何の用だろう。
「成瀬です」と若い男の声が応じた。
「伊吹といいます。じつは岬美由紀からあなた宛に、ヘルプのサインが届いているんでね」
「み、岬美由紀さんですか……? あ、それはどうも。でもどうして私に?」
それを聞きたいのはこっちだ。美由紀と成瀬のあいだにどんな関係があるのかも知りたい。
だがいまは、優先すべきことがある。伊吹はいった。「理由はわからないが、美由紀はいま相模原団地って場所で監禁または軟禁状態にあるらしい」
「相模原団地。相模原住宅地区内の日本人居住区ですね」
「米軍施設か? なにが起きたかはわからないが、とにかくきみをご指名だ」
「なぜでしょう。私は在日米軍の担当というわけでは……」
「Traffickingって言葉と何か関係があるかもしれない」
電話の向こうで息を呑《の》む気配があった。
「岬さんがそう言ったんですか?」と成瀬の声がきいた。
「伝言にはそう記してあるな」
「わかりました、すぐ出かける用意をします」
「俺もいくよ。午後の予定は別のパイロットに変わってもらう。ほかに何か、気に留めておくことは?」
「……くれぐれも慎重な行動をお願いします、伊吹さん」成瀬の声が告げた。「これは戦後六十余年の、日米間にとって最大級の国際問題に違いありません」