ブガッティ・ヴェイロン、一千馬力のトルクを発生させる世界最大のモンスター・マシンのステアリングを握り、伊吹直哉は東名高速の横浜町田出口から相模原住宅地区に向けて疾走していた。
メーターパネルの時計を見やる。午後三時十七分。百里から霞ヶ関の外務省を経由して相模原までわずか二時間。地上の移動としては悪くない。
だが助手席におさまったスーツ姿の若者は、ピックアップしてからずっと身をちぢこまらせていた。
「あの、伊吹さん」成瀬史郎は怯《おび》えきった顔を向けてきた。「どうか、もう少し冷静な運転を……。これじゃ捕まりますよ。さっきオービスの前も突っ切ったでしょう?」
「写っちゃいないよ。四百三キロ出てたからな。被写体としてフレームにおさまっているとは思えない。パトランプ灯《とも》したやつにも二度ほど追尾されたが、振り切ってやった」
「よ、四百三キロ!? 時速四百三キロですか?」
「それ以外に何がある」
「たしかに外務省の研修で乗ったリニアモーターカーのスピード感に、近いものがある気はしてましたが……」
「ああ。気のせいじゃなかったってことだ」
「冗談じゃない! 困りますよ。お互い国家公務員の身じゃないですか。速度を落としてください」
伊吹はひそかにため息をついた。
どんなに骨のある奴かと思えば、温室育ちのお坊ちゃんそのものだ。嵯峨といい成瀬といい、美由紀の知り合う男はどうしてこうも線が細いのだろう。よほど俺とつきあっていた頃の反動が強烈なのか。
「成瀬」伊吹はアクセルを緩めず、赤信号を突っ切りながらいった。「たしかに交通ルールは守らなきゃいけない。俺も普段から警察に挑戦状を叩《たた》きつけてるわけじゃない。だが音速の二倍を超えて飛んでると、陸地の移動ってのはもどかしくてな。より大きなトルクを求めるうちに、このクルマに行き着いちまった。安心しな。これぐらいの速度なら、どこにどんな危険があるか見落としたりはしねえよ」
「あなたの動体視力と反射神経には全幅の信頼を置いてますが……」
「トロトロ走れって? 美由紀の身に危険が迫ってるのに?」
「……いえ。そうですね。早く着けるにこしたことはないです」
沈黙が降りてきた。十六気筒、八千CCのエンジンの重低音だけが車内に鳴り響く。
伊吹はクルマを飛ばしながらいった。「美由紀とデートしたことはあるのか?」
「な、なにを?」成瀬はひどく動揺していた。「どういう意味ですか? 私ごときがデートだなんて」
「そうだろうな。とても気があったのに、思いが通じなかった。そうじゃないか?」
「……はぁ。まあそういうことになりますかね。でもどうして判ったんですか」
「きみの態度を見てりゃ千里眼でなくても見抜けるだろうぜ。美由紀に惹《ひ》かれるのは、きみみたいなタイプが多いな。強い女は好きか?」
「はい。あ、いえ、そういうわけでは……。しかしそのう……伊吹さんのほうは、どういうご関係で?」
「元カレだな」
「本当ですか!? あ、その左手の薬指のって、もしかして、こ、婚約指輪?」
「これか? そうだよ。だけど相手は美由紀じぇねえよ。元カレだって言ってるだろ」
「美由紀さんとつきあってたんですか?」
「同棲《どうせい》してた。短い間だったけどな」
「そうですか……やはり幹部自衛官どうし、強い者どうしが惹かれあうんでしょうかね」
「そんなに肩を落とすな。あいつが恋愛感情に鈍いのはたしかだ。というより、本人も気づかないうちに、すっかり心を閉ざしちまってるからな」
「心を閉ざす……。つまり、どういうことですか?」
あまり詳しく説明する気にはなれなかった。というより、伊吹のほうもそれほどよく判っているわけではない。
「その話は後だ。成瀬、美由紀がきみを呼んだのは、用心棒がわりになるからっていう理由じゃないのはよくわかった。どうしてきみにご指名がかかった?」
「推測ですが……。国際文化協力室でしばしば問題になるのは、文化や福祉事業を国が推薦する際、その当事者である外国人の身元に不審な点が見つかることです。つまり国籍なり出身地を偽っている外国人……いえ、日本人も含めてなのですが、かなりの数に上りましてね。これらの国籍の混乱に拍車をかける闇の事業に警視庁が捜査を始めていて、私の部署は全面的に協力しているんです」
「闇の事業ってなんだ」
「この辺りでは結構昔から噂されていたことですが……伊吹さんはご存じないですか」
「あいにく神奈川生まれじゃないんでね。ここに来たのも初めてだ。相模原市について知ってることといえば……ほら、あの交差点の角に見える店。ARMSだっけ? 古くなった軍用品を売ってる店な。金に困った自衛官があそこに装備品を売ったりするんで、よく問題になってた。それぐらいだな」
「はないちもんめって、知ってます?」
「勝って嬉《うれ》しい花いちもんめ……ってやつか?」
「そうです。あれはもともと人身売買の歌なんです。花は女の子を指します。貧困な家庭が女の子を売りにだすとき、人買いに一匁《いちもんめ》で買い取られるという意味です。あの子がほしいとか、相談しようとか、買[#「買」に傍点]ったマケ[#「マケ」に傍点]たというのは、人買いの取り引きを表すものです」
「ああ、それなら聞いたことがある。だが、美由紀のメッセージとなんの関係がある?」
「Traffickingというのは直訳すれば交通ですが、人身売買という意味でもあるんです。警視庁は人身取引と呼んでいます。はないちもんめの地域別のフレーズの違いから、人身売買には古くから米軍施設内の住民が関与しているのではないかとみられていました」
「フレーズの違いだって?」
「はないちもんめは地方によって歌詞にいろんなバージョンがあるんですが、相模原を中心にした神奈川の一部にだけ�鉄砲担いでちょっと来ておくれ�というくだりがあるんです。厳密には他の地域でも�鉄砲�の歌詞は散見されるんですが、頻度はごく少なく、この一帯こそが発祥の地とみて間違いないんです。それも文献によれば、戦後です」
「鉄砲ってことは軍隊、つまり米軍がらみのことか」
「と同時に、銃器類の売買とセットにして行われているのではとの見方もあります。国際文化協力室はそうした調査結果を警視庁に提供しましたが、米軍施設では家宅捜索の令状をとることもできず、捜査は暗礁に乗りあげざるをえませんでした。相模原住宅地区内の相模原団地、すなわち純然たる日本人でありながら基地内の雑務を請け負うことによって生計を立てている人々の住まいは、恰好《かつこう》の隠れ蓑《みの》です」
「美由紀はその証拠を握った可能性もあるわけか」
「おそらくそうでしょう。美由紀さんを救出すれば、日本における人身売買の最大の拠点を叩くチャンスになります」
「人身売買なんてものがまだあったとはな。知らなかったよ」
「一九九六年の�児童の商業的性的搾取に反対する世界会議�の発足以降、今もなお国際的な人身売買のケースは無数に報告されています。たいていは難民や貧困層から拾った年端もいかない子供を流通させるわけですが、目的は性的搾取か臓器売買のいずれかです」
「なるほど。許せない話だな」
伊吹はクルマの速度をさげた。相模原住宅地区沿いのフェンスに車体を寄せて停車する。
前方にはゲートが見えていた。迷彩服の兵士が警備にあたっている。
「さて」伊吹はつぶやいた。「どうしたもんかな」
「あの兵士に事情を話して、取り次いでもらいましょう。事態の重さを訴えれば、理解してもらえるかもしれません」
「なぜそんなふうに言い切れる」
「なぜって……。私は外務省の人間だし、あなたは防衛省の幹部自衛官です。同盟国の人間として敬意を払ってくれるでしょう」
「馬鹿をいえ。政治家のヌルい付き合いではそうかもしれねえが、米軍が敷地内での不正なんか認めるもんか。日米合同演習で何度も先方の身勝手な言い分につき合わされてるからな、断言できるよ。動かぬ証拠でも突きつけないかぎり、奴らは考えを変えねえ」
「じゃあどうすればいいでしょう」成瀬はふいにひきつった顔を向けてきた。「言っておきますが、無茶な考えだけはなさらないほうがいいです。自衛隊の人間がゲートを強行突破すれば、日米間の深刻な問題となる恐れが……」
「ああ。そんなことは考えちゃいないよ」
「そうですか。よかった……」
「なにを安心してる? 俺が躊躇《ちゆうちよ》してる理由はな、このまま突撃しても解決に結びつかねえからだ」
「え? ど、どういうことですか」
「日本人の不法侵入への対処なんて、ここの保安部どまりだ。留置場に入れられて取り調べを受けるのが関の山だ。しかも騒ぎを聞きつけた人身売買業者どもは、当然俺たちが美由紀を助けにきたと気づいちまうだろう。美由紀も藍ちゃんも殺されちまう可能性がある」
「そうですね……」
「米軍の司令部はキャンプ座間のほうにある。少なくともそっちの士官クラスを引っ張りだせたら、相模原団地の連中も血相を変えることになるんだが……」
「では座間に説得にいきましょう」
「おめでてぇ奴だな、きみは。相手にされないって言ってるだろ。どうせ司令部からここの保安部に連絡して、調査しろと命じるだけのことさ。結果は同じだ」
平静を装っていても、内心では焦燥感に駆られる。美由紀が犯罪者どもの手中におちた。この塀の向こうにいるとわかっていて、なんの対策も講じることができない。
これが逆の立場だったら、美由紀はどうするだろう。
いつも無茶し放題のあいつなら……。
すぐに思い浮かぶ光景があった。防衛大で初めて岬美由紀を見かけたときの姿が、脳裏に閃《ひらめ》いた。
伊吹はヴェイロンを急発進させ、Uターンして道を引き返した。
成瀬が驚いたようすできいた。「どこに行くんです。なにをする気ですか?」
「美由紀のやり方に倣うんだよ」伊吹はいった。「むろん、正気の沙汰《さた》じゃねえけどな」