藍は団地の隅に位置する階段の暗がりに身を潜めていた。もう一度、辺りに人影がないのを確認してから、携帯電話に静かに告げる。
「団地B2の一階にいる。住民専用の診療所がそこにあって、美由紀さんはベッドに寝かされてる」
伊吹の声がたずねてきた。「美由紀はどんな状態だ?」
「衰弱してる……と思う。点滴にきっと有害な成分が入っているのよ。でもそれを外させるわけにはいかないし……。わたしひとりじゃどうにもならない」
「わかった。怪しまれるような行動はするな。俺たちもすぐに行くから」
「どうやって? 通行証ないんでしょ?」
「方法はあるよ。きみのほうはどうしてるんだ。いまも診療室か?」
「いえ。抜けだしてきているの」
「それはよくない。すぐに戻るんだ。美由紀のそばにいてくれ。そのほうが奴らも思いきった行動がとりにくくなる」
「わかったわ。あ、それから、団地はゲートからまっすぐ入って林を超えたところにあって……」
そのとき、突如のように男の怒鳴る声がした。「ここで何をしている!」
振り向いた瞬間、平手が藍の頬をしたたかに打った。
藍は足を滑らせて転倒し、その場につんのめった。携帯電話が手から飛び、床に放りだされた。
八木信弘《やぎのぶひろ》は複数の男たちを従え、階段を降りてきていた。
じろりとした目で藍をにらんだ八木は、携帯電話を見ると、それを拾いあげた。耳にあてて低い声でたずねる。「誰だおまえ」
静寂のなか、電話の向こうが沈黙しているのが藍にもわかった。やがて、電話は切れた。ツー、ツーという虚《むな》しい音が反復する。
まだ頬に痺《しび》れるような痛みがある。口のなかも切れたかもしれない。藍は怯《おび》えながら、男たちが歩み寄ってくるのを見あげた。
「おい」八木は携帯電話を突きだした。「どこにかけていた。何を話した」
「……知らないわよ」
すかさず八木の硬い靴の爪先が藍の腹を蹴《け》りこんだ。
息の詰まるような激痛が走る。藍は腹部を押さえてうずくまった。
八木が藍の髪をわしづかみにして、引っ張った。
想像を絶する痛みに自然に涙がにじんできた。揺らぐ視界に、八木が顔を近づけてきた。
「答えろよ」八木が執拗《しつよう》にきいてきた。「誰に電話したんだ」
そのとき、廊下につかつかと歩いてくる足音がした。ハイヒールの響き。女だった。
紀久子が藍を見下ろして、ため息まじりにいった。「こんなことだろうと思ったわ。心電図の記録を見たら、けさの岬《みさき》美由紀の脈拍に不自然な変化があったとわかった。たぶん自己暗示で脈の速さを変えたのね。合図を受け取って、どうしようと思ったの? 自衛隊の仲間にでも連絡した?」
激しい動揺が襲ったが、藍はつとめて顔にだすまいと決心した。
「知らないってば」藍は怒鳴った。「電話しちゃ駄目だっての? 友達にかけてただけよ」
「ふうん」紀久子はいった。「じゃあ、その友達が誰なのか聞かせてもらおうかしら」
八木が立ちあがった。「ヒックス大尉を呼ぼう。女に秘密を吐かせるのは、大尉の専門だからな」
男たちの低い笑い声が響くなか、藍はぞっとするような寒気を覚えた。
追い詰められた。もう逃れようがない……。
伊吹はあわてて迷彩服に着変えると、装備品のイミテーションを身につけ、ブーツを履いて試着室をでた。
藍からの連絡が途絶えた。妙な男が電話口にでた。つまり彼女も捕らえられたのだろう。これで猶予はなくなった。
「成瀬!」伊吹は呼びかけた。「出発だ。もう時間がない」
隣の試着室のカーテンがそろそろと開いた。
投降する兵士のような半泣き顔で、迷彩服を着た成瀬が試着室から出てきた。
「これでいいですかね?」と成瀬はきいてきた。
「完璧《かんぺき》じゃんか……。すげえ似合ってる。自衛隊の演習に的がわりに参加したらどうだ?」
「それ、褒めてるってことですか?」
「まあな」
「じゃ、ありがとうと言っておきます……」
「きみのおかげで成功の確率もあがった。行くぞ」
伊吹は店の戸口に駆けだした。
軍事マニアらしい客たちがじろじろとこちらを見る。ずいぶん気合の入ったコスプレだな、と驚き呆《あき》れるような視線。伊吹は成瀬とともにそのなかをかいくぐっていった。
成瀬が情けない声をあげた。「伊吹さん。みんな見てるみたいですけど」
「しょうがねえだろ。こっちも好きでやってるわけじゃねえ」
駐車場のブガッティ・ヴェイロンに乗り込み、エンジンをかける。
世界最高のスポーツカーを北朝鮮軍用車両と思わせるのは癪《しやく》だが、ゲートを突破するにはこれぐらいのトルクは必要だ。人目を惹《ひ》きやすいデザインも、きょうに限っては有効といえる。
「いよいよだな」伊吹はつぶやいた。「幸運を祈ろうぜ」
「はい……。将軍様《チヤングンニム》マンセー」
「その意気だ」ギアを入れ替えてアクセルを踏みこんだ。伊吹にとってはごく軽いGとともに、ヴェイロンは急発進した。
藍からの連絡が途絶えた。妙な男が電話口にでた。つまり彼女も捕らえられたのだろう。これで猶予はなくなった。
「成瀬!」伊吹は呼びかけた。「出発だ。もう時間がない」
隣の試着室のカーテンがそろそろと開いた。
投降する兵士のような半泣き顔で、迷彩服を着た成瀬が試着室から出てきた。
「これでいいですかね?」と成瀬はきいてきた。
「完璧《かんぺき》じゃんか……。すげえ似合ってる。自衛隊の演習に的がわりに参加したらどうだ?」
「それ、褒めてるってことですか?」
「まあな」
「じゃ、ありがとうと言っておきます……」
「きみのおかげで成功の確率もあがった。行くぞ」
伊吹は店の戸口に駆けだした。
軍事マニアらしい客たちがじろじろとこちらを見る。ずいぶん気合の入ったコスプレだな、と驚き呆《あき》れるような視線。伊吹は成瀬とともにそのなかをかいくぐっていった。
成瀬が情けない声をあげた。「伊吹さん。みんな見てるみたいですけど」
「しょうがねえだろ。こっちも好きでやってるわけじゃねえ」
駐車場のブガッティ・ヴェイロンに乗り込み、エンジンをかける。
世界最高のスポーツカーを北朝鮮軍用車両と思わせるのは癪《しやく》だが、ゲートを突破するにはこれぐらいのトルクは必要だ。人目を惹《ひ》きやすいデザインも、きょうに限っては有効といえる。
「いよいよだな」伊吹はつぶやいた。「幸運を祈ろうぜ」
「はい……。将軍様《チヤングンニム》マンセー」
「その意気だ」ギアを入れ替えてアクセルを踏みこんだ。伊吹にとってはごく軽いGとともに、ヴェイロンは急発進した。