美由紀はぼんやりと目を開けた。
白い天井。だが、あの忌まわしい団地の診療所ではない。
まだ麻酔の効力は残っているらしく、脚に痺《しび》れがある。けれども、視界は戻った。首も動かせる。辺りを見まわすことができた。
病院の診察室。広々としていて真新しく、設備が行き届いている。大勢の看護師が右往左往しながら、患者が横たわったストレッチャーを次々に運びこんでいる。
その患者たちは子供ばかりだった。団地で見かけた、栄養失調ぎみの子供たち。
安堵《あんど》のため息が自然に漏れた。みんな救出されたのか。
外からはひっきりなしに救急車のサイレンが聞こえる。まだ子供たちの搬送はつづいているようだ。
近くを女性看護師が通りがかった。「先生が、こっちの子たちは内科に移してって。すぐに栄養を補給してあげたいそうよ。向こうの子は怪我の手当てが先。急いで」
看護師は同僚に指示を送ってから、こちらに目を向けた。
美由紀と視線が合うと、看護師は微笑んだ。「具合はどうですか?」
「……ええ」美由紀は力のない自分の声をきいた。「最悪」
「先生を呼んできます。すぐ診察してもらえるから、待っててくださいね」看護師はそういって立ち去りかけた。
「あ、すみません。ここはどこなの?」
「飯田橋の東京警察病院。もし起きあがれそうでも、まだ動かないでください。じゃ、あとで」
歩き去る看護師の背を見送ってから、美由紀は天井に目を戻した。
ここに運ばれた経緯を覚えているだろうか。麻酔のせいで瞼《まぶた》が開かなかったから、音しか聞こえなかった。救急車に乗せられた記憶はある。ほどなく、眠りにおちてしまった。
なぜ眠ったのだろう。
答えはすぐに思い当たった。安心したからだ。伊吹が一緒に救急車に乗った。彼の声を聞くうちに、緊張が解け、疲れがどっと溢《あふ》れた。
そしていま、麻酔が解け、自然に目が開いた。
美由紀は、入院患者用のベッドに寝ているわけではないことに気づいた。まだストレッチャーの上だ。あまりに大勢の子供たちが一度に救助されたせいで、ひどくあわただしい。
隣りにもストレッチャーが並べられていた。そちらに視線を向けたとき、美由紀ははっとした。
横たわっているのは藍だった。藍はこちらをじっと見つめていた。
「藍……」美由紀はつぶやいた。
すると、藍の目にみるみるうちに涙の粒が膨れあがっていった。口もとに微笑が浮かんだが、こみあげる衝動を抑えられなくなったように、藍は泣きじゃくりだした。
「美由紀さん」藍がささやいて、手を差し伸べてきた。
抱きしめてあげたかったが、動けなかった。寝返りひとつ打てない。美由紀も手を伸ばし、藍の手をしっかりと握った。
「藍。ありがとう、本当に。あなたがいなかったら、わたしは死んでた……」
「……美由紀さん」藍はぼろぼろと涙をこぼした。「怖かったよ。ほんとに怖かった……」
「わたしもよ。よく頑張ったね。藍」
震える藍の手が、離れまいとするように絡みついてくる。美由紀も離れたくはなかった。握る手に力がこもった。
随意筋のすべての運動が効かなくなり、まるで死体のようになった自分の身体に心だけが封じこめられるという経験が、いかに恐ろしいものであるかを実感した。藍が騙《だま》され、危険な目に遭い、苦しめられているのに、わたしにはどうすることもできなかった。
藍がわたしと同じように麻酔注射を強制されたとき、わたしは泣き叫ぶ藍の声に耳を傾けていた。怒りと悔しさで胸が張り裂けそうだった。
「ごめんね」美由紀もいつの間にか泣きだしていた。「わたしがしっかりしていたら、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのに」
「美由紀さん……。美由紀さんは以前、わたしを助けてくれた……。命の恩人だから、わたしも最後まで努力しなきゃって思ったのよ。けど、本当に怖くて、気持ち悪くて。伊吹さんが助けてくれなかったら、どうなってたかわからない……」
「そうね。藍。心から感謝してる。あなたは最高の友達よ」
「助かってよかった、美由紀さん。よかった、美由紀さんが生きていてくれて」
ようやく藍は心が鎮まりだしたかのように、深いため息をついた。目を閉じると、涙がまた零《こぼ》れ落ちた。
美由紀も瞼の重さを感じ、目をつぶった。藍の手の温もりを感じながら、眠りに落ちていくのを悟った。
ストレッチャーのキャスターが転がる音がして、かすかな振動を感じる。美由紀は眠りから覚めた。
自分が廊下を運ばれているのに気づく。ストレッチャーを押している看護師の顔を、美由紀は見あげた。
「どこに行くの?」美由紀はかすれた声できいた。「藍はどこ?」
「心配いりませんよ、岬さん」と看護師はいった。「治療の合間に、たしかめてほしいことがあるらしくて、お連れするように言われただけです。雪村さんのほうは先に入院棟に移動してます」
「そうですか……」
たしかめてほしいこと。いったい何だろう。
看護師がストレッチャーを運びこんだのは、診察室とは異なる雰囲気の部屋だった。
医療器材置き場のようだが、ソファが並んでいて客間にもなっている。職員の仮眠室か当直室かもしれない。
室内にはふたりの男がいた。そのうちひとりはスーツ姿の白人。もうひとりは日本人で、見慣れた顔だった。
Tシャツにデニム姿の、たくましい二の腕をした浅黒い男。伊吹直哉が歩み寄ってきて、美由紀の顔をのぞきこんだ。
「やあ、美由紀」伊吹は静かに語りかけてきた。「無事かい?」
また泣きそうになる。
涙をこらえながら、美由紀はつぶやいた。「伊吹先輩……。来てくれると思った」
「まあな。……それにしてもひどい顔だな。防衛大の第三学年のころ、勝手に学生舎抜けだしてヤケ酒をかっくらって戻ってきた日のこと、覚えてるか」
「ああ……あの人生最悪の朝……」
「そのときを彷彿《ほうふつ》とさせる顔だ。でもな、生きててよかったよ。ほんとに」
伊吹の厚い手が美由紀の額に触れ、そっと撫《な》でた。
自然に涙がこぼれる。昔の男の前では泣きたくなかったのに、こらえられなかった。
「ありがとう」美由紀はささやいた。「伊吹先輩」
「礼なら外務省の成瀬にいいなよ」
「成瀬君も……団地に来てたの?」
「ああ。事情の説明だけじゃなくて、救出作戦にもおおいに貢献してくれたよ。ただし、見舞いには当分来れないと思うけどな。いまは外務省に呼びだされて大目玉を食らってるからな」
「そんな……。わたしのために……」
「心配ないって。キャンプ座間の司令官から日本政府に事情説明があったからな。アメリカなら緊急事態だったと見なされて容認される範疇《はんちゆう》だと伝えてくれた。羨《うらや》ましい寛容さだよな。成瀬も減俸処分ぐらいは痛いと思わないだろうぜ。愛する女のために死ぬ覚悟もできてたぐらいだからな」
「愛する女って? 成瀬君の恋人も団地に捕らえられていたの?」
「……ったく、恋愛についちゃ大ボケかましまくりだな。これじゃ成瀬の努力も永遠に浮かばれねえな」
そのとき、伊吹の肩越しに白人の男が声をかけてきた。「よろしいですか」
「ああ」伊吹は男にうなずいてから、美由紀に告げてきた。「こちらはアメリカ大使館の職員で、相模原団地事件の担当になった……」
「ジョージ・ドレイクです、よろしく」男は控えめな笑顔とともに会釈した。「早速で恐縮なのですが、Tongue Printをとらせていただきたいんですが」
「Tongue?」美由紀はきいた。「舌ですか? 指紋《フインガープリント》じゃなくて?」
「舌なんです。日本語では、舌紋とでも言いましょうか。これも指紋と同じく人によって異なっているんですよ。幼児のころに記録したパターンは、サイズが大きくなってもパターンそのものは一生不変というのも、指紋と同じです。舌紋を指紋がわりにしている公的機関は私の知るかぎりないのですが、アラヒマ=ガスでは採用してましてね」
「アラヒマ=ガスって?」
「あの団地の人身売買組織の名です。東アジアを中心に展開していることは各国の警察も認識していたんですが、その拠点がまさか相模原団地とはね。ただし、判ってしまえば簡単なことでした。組織の名の由来も……」
「ええ」美由紀は気づいたことを口にした。「アラヒマ=ガス。相模原をアルファベットで綴《つづ》って、逆から読んだだけ」
伊吹が唸《うな》った。「その調子じゃ脳のほうも正常だな」
ドレイクは美由紀にうなずいた。「団地は第一軍団の歩兵によって制圧し、司令部が派遣した調査部隊によって隅々まで調べられています。十二歳以下の子供は百二十二人見つかったんですが、ヒックス大尉の持っていたメモリーカード内のデータによれば、うち七割の子が人身売買の商品扱いだとわかりました。貧困家庭から買い取ったり、孤児を連れてきたりして商品に登録する際、舌の模様を記録したんです。指紋にしなかったのはどうやら、両手のない子も度々いたからという理由らしいです」
「そうですか……。でもどうして、わたしの舌紋をとるの?」
「美由紀」伊吹が真顔でつぶやいた。「いいから、言うとおりにしてくれ」
困惑を覚えたが、美由紀はうなずいた。
「では」ドレイクが透明なセロファンの小片を差しだしてきた。「これを舌にあててください。軽く一度当てるだけで結構です」
美由紀は上半身を起こした。貧血を起こしたように頭がくらくらする。
セロファンを受け取り、舌をだして指示どおりにした。
「結構です」ドレイクは美由紀からセロファンを渡されると、部屋の隅に歩いていった。「少々お待ちください」
ソファに面した客用テーブルに、ノートパソコンとプリンターのような機材が置いてある。ドレイクはその機材にセロファンを読みこませ、パソコンのキーを叩《たた》いた。
「ねえ」美由紀は伊吹にきいた。「伊吹先輩は百里《ひやくり》基地に連絡をとったの?」
「とるも何も、向こうから飛んできたさ。津島《つしま》一佐って知ってるか。前に飛行隊長やってて、いまは管理のほうにまわってる人だが」
「ああ。あの怖い人」
「そう。それがもう、鬼のような顔つきにさらに磨きがかかっていてな。俺の胸ぐらをつかんできて、いまこの場で銃殺してやりたいところだと怒鳴りやがった。北朝鮮の軍服を着ている以上、射殺しても自衛官に落ち度はないとか物騒なセリフを吐いてな」
「大変だったのね……。まさか、処分は……」
「いや。査問はこれからだが、二週間ほどの謹慎で済むらしい。基地のエリクソン少佐が仲裁に入ってくれたんで、津島一佐の怒りもなんとか和らいでな。アメリカじゃ目的が手段を正当化するっていう意味のことを、何度も繰り返し説明してた。自衛隊もそうですねと口をはさんだら、おまえは黙ってろって津島一佐にどやされたけどな」
「なんとか特例を認めてくれたのね。安心した……」
「ま、司令の美濃《みの》空将からも、次からは空でやれって釘《くぎ》を刺されたけどな。始末書は各方面向けに十枚ほど書かされたが、そんなに多くないだろ? おまえはたしか……」
「ええ」美由紀は思わず微笑した。「三十枚以上書いたことあるし」
伊吹が笑った。ようやく、ふたりで笑いあうことができた。
ふと思いついたことを、美由紀はたずねた。「伊吹先輩。大輝《たいき》君は元気?」
「ああ。……どうして?」
「伊吹先輩、再婚するの?」
「……なぜわかるんだ? そんなことまで表情から読みとれるのかい?」
「いいえ。知ってるでしょ、恋愛感情だけは読めなくて」
「じゃあなぜ?」
「左の薬指に指輪の跡があるから」
しばしの沈黙のあと、伊吹は指先に目を落とした。「ああ。このところずっと陽射しが強かったからな。うっすらと白く跡が残ってる。女の目は鋭いな。ってか、千里眼はごまかせるわけないか」
ポケットから取りだした指輪を、伊吹は自分の薬指にはめた。
美由紀は視線を逸《そ》らした。
伊吹がつぶやくようにいった。「すまない……」
「どうして謝るの? ねえ。その婚約相手の人って、大輝君のことは……」
「だいじょうぶだよ。大輝の本来の母親だからな」
「よりを戻したってこと?」
「そういうことになるかな。定期的には連絡をとりあってたんだが、しだいに会う時間が増えてきて……。いっそのこと一緒になったほうがいいって話になった」
「よかったね。伊吹先輩。大輝君にとっても……」
「そうだな。だけど、美由紀」
「いいから」美由紀は涙をこらえていた。「わたしのことは、いいから」
静寂だけが流れた。
伊吹との出会いから過ごした日々のことを、美由紀は考えまいと努めた。
どうせ、すべて過去だった。わたしにとっては、どうなることでもなかった。
しばらくして、ドレイクが近づいてきた。
「すみません」ドレイクが神妙に告げた。「よろしいでしょうか」
「どうぞ」と伊吹がいった。
「岬さんの舌紋ですが……。売買データに残ってます」
自分が廊下を運ばれているのに気づく。ストレッチャーを押している看護師の顔を、美由紀は見あげた。
「どこに行くの?」美由紀はかすれた声できいた。「藍はどこ?」
「心配いりませんよ、岬さん」と看護師はいった。「治療の合間に、たしかめてほしいことがあるらしくて、お連れするように言われただけです。雪村さんのほうは先に入院棟に移動してます」
「そうですか……」
たしかめてほしいこと。いったい何だろう。
看護師がストレッチャーを運びこんだのは、診察室とは異なる雰囲気の部屋だった。
医療器材置き場のようだが、ソファが並んでいて客間にもなっている。職員の仮眠室か当直室かもしれない。
室内にはふたりの男がいた。そのうちひとりはスーツ姿の白人。もうひとりは日本人で、見慣れた顔だった。
Tシャツにデニム姿の、たくましい二の腕をした浅黒い男。伊吹直哉が歩み寄ってきて、美由紀の顔をのぞきこんだ。
「やあ、美由紀」伊吹は静かに語りかけてきた。「無事かい?」
また泣きそうになる。
涙をこらえながら、美由紀はつぶやいた。「伊吹先輩……。来てくれると思った」
「まあな。……それにしてもひどい顔だな。防衛大の第三学年のころ、勝手に学生舎抜けだしてヤケ酒をかっくらって戻ってきた日のこと、覚えてるか」
「ああ……あの人生最悪の朝……」
「そのときを彷彿《ほうふつ》とさせる顔だ。でもな、生きててよかったよ。ほんとに」
伊吹の厚い手が美由紀の額に触れ、そっと撫《な》でた。
自然に涙がこぼれる。昔の男の前では泣きたくなかったのに、こらえられなかった。
「ありがとう」美由紀はささやいた。「伊吹先輩」
「礼なら外務省の成瀬にいいなよ」
「成瀬君も……団地に来てたの?」
「ああ。事情の説明だけじゃなくて、救出作戦にもおおいに貢献してくれたよ。ただし、見舞いには当分来れないと思うけどな。いまは外務省に呼びだされて大目玉を食らってるからな」
「そんな……。わたしのために……」
「心配ないって。キャンプ座間の司令官から日本政府に事情説明があったからな。アメリカなら緊急事態だったと見なされて容認される範疇《はんちゆう》だと伝えてくれた。羨《うらや》ましい寛容さだよな。成瀬も減俸処分ぐらいは痛いと思わないだろうぜ。愛する女のために死ぬ覚悟もできてたぐらいだからな」
「愛する女って? 成瀬君の恋人も団地に捕らえられていたの?」
「……ったく、恋愛についちゃ大ボケかましまくりだな。これじゃ成瀬の努力も永遠に浮かばれねえな」
そのとき、伊吹の肩越しに白人の男が声をかけてきた。「よろしいですか」
「ああ」伊吹は男にうなずいてから、美由紀に告げてきた。「こちらはアメリカ大使館の職員で、相模原団地事件の担当になった……」
「ジョージ・ドレイクです、よろしく」男は控えめな笑顔とともに会釈した。「早速で恐縮なのですが、Tongue Printをとらせていただきたいんですが」
「Tongue?」美由紀はきいた。「舌ですか? 指紋《フインガープリント》じゃなくて?」
「舌なんです。日本語では、舌紋とでも言いましょうか。これも指紋と同じく人によって異なっているんですよ。幼児のころに記録したパターンは、サイズが大きくなってもパターンそのものは一生不変というのも、指紋と同じです。舌紋を指紋がわりにしている公的機関は私の知るかぎりないのですが、アラヒマ=ガスでは採用してましてね」
「アラヒマ=ガスって?」
「あの団地の人身売買組織の名です。東アジアを中心に展開していることは各国の警察も認識していたんですが、その拠点がまさか相模原団地とはね。ただし、判ってしまえば簡単なことでした。組織の名の由来も……」
「ええ」美由紀は気づいたことを口にした。「アラヒマ=ガス。相模原をアルファベットで綴《つづ》って、逆から読んだだけ」
伊吹が唸《うな》った。「その調子じゃ脳のほうも正常だな」
ドレイクは美由紀にうなずいた。「団地は第一軍団の歩兵によって制圧し、司令部が派遣した調査部隊によって隅々まで調べられています。十二歳以下の子供は百二十二人見つかったんですが、ヒックス大尉の持っていたメモリーカード内のデータによれば、うち七割の子が人身売買の商品扱いだとわかりました。貧困家庭から買い取ったり、孤児を連れてきたりして商品に登録する際、舌の模様を記録したんです。指紋にしなかったのはどうやら、両手のない子も度々いたからという理由らしいです」
「そうですか……。でもどうして、わたしの舌紋をとるの?」
「美由紀」伊吹が真顔でつぶやいた。「いいから、言うとおりにしてくれ」
困惑を覚えたが、美由紀はうなずいた。
「では」ドレイクが透明なセロファンの小片を差しだしてきた。「これを舌にあててください。軽く一度当てるだけで結構です」
美由紀は上半身を起こした。貧血を起こしたように頭がくらくらする。
セロファンを受け取り、舌をだして指示どおりにした。
「結構です」ドレイクは美由紀からセロファンを渡されると、部屋の隅に歩いていった。「少々お待ちください」
ソファに面した客用テーブルに、ノートパソコンとプリンターのような機材が置いてある。ドレイクはその機材にセロファンを読みこませ、パソコンのキーを叩《たた》いた。
「ねえ」美由紀は伊吹にきいた。「伊吹先輩は百里《ひやくり》基地に連絡をとったの?」
「とるも何も、向こうから飛んできたさ。津島《つしま》一佐って知ってるか。前に飛行隊長やってて、いまは管理のほうにまわってる人だが」
「ああ。あの怖い人」
「そう。それがもう、鬼のような顔つきにさらに磨きがかかっていてな。俺の胸ぐらをつかんできて、いまこの場で銃殺してやりたいところだと怒鳴りやがった。北朝鮮の軍服を着ている以上、射殺しても自衛官に落ち度はないとか物騒なセリフを吐いてな」
「大変だったのね……。まさか、処分は……」
「いや。査問はこれからだが、二週間ほどの謹慎で済むらしい。基地のエリクソン少佐が仲裁に入ってくれたんで、津島一佐の怒りもなんとか和らいでな。アメリカじゃ目的が手段を正当化するっていう意味のことを、何度も繰り返し説明してた。自衛隊もそうですねと口をはさんだら、おまえは黙ってろって津島一佐にどやされたけどな」
「なんとか特例を認めてくれたのね。安心した……」
「ま、司令の美濃《みの》空将からも、次からは空でやれって釘《くぎ》を刺されたけどな。始末書は各方面向けに十枚ほど書かされたが、そんなに多くないだろ? おまえはたしか……」
「ええ」美由紀は思わず微笑した。「三十枚以上書いたことあるし」
伊吹が笑った。ようやく、ふたりで笑いあうことができた。
ふと思いついたことを、美由紀はたずねた。「伊吹先輩。大輝《たいき》君は元気?」
「ああ。……どうして?」
「伊吹先輩、再婚するの?」
「……なぜわかるんだ? そんなことまで表情から読みとれるのかい?」
「いいえ。知ってるでしょ、恋愛感情だけは読めなくて」
「じゃあなぜ?」
「左の薬指に指輪の跡があるから」
しばしの沈黙のあと、伊吹は指先に目を落とした。「ああ。このところずっと陽射しが強かったからな。うっすらと白く跡が残ってる。女の目は鋭いな。ってか、千里眼はごまかせるわけないか」
ポケットから取りだした指輪を、伊吹は自分の薬指にはめた。
美由紀は視線を逸《そ》らした。
伊吹がつぶやくようにいった。「すまない……」
「どうして謝るの? ねえ。その婚約相手の人って、大輝君のことは……」
「だいじょうぶだよ。大輝の本来の母親だからな」
「よりを戻したってこと?」
「そういうことになるかな。定期的には連絡をとりあってたんだが、しだいに会う時間が増えてきて……。いっそのこと一緒になったほうがいいって話になった」
「よかったね。伊吹先輩。大輝君にとっても……」
「そうだな。だけど、美由紀」
「いいから」美由紀は涙をこらえていた。「わたしのことは、いいから」
静寂だけが流れた。
伊吹との出会いから過ごした日々のことを、美由紀は考えまいと努めた。
どうせ、すべて過去だった。わたしにとっては、どうなることでもなかった。
しばらくして、ドレイクが近づいてきた。
「すみません」ドレイクが神妙に告げた。「よろしいでしょうか」
「どうぞ」と伊吹がいった。
「岬さんの舌紋ですが……。売買データに残ってます」
「嘘」美由紀はいった。「そんなの……」
「たしかなことです」とドレイクはいった。「二十五年前に一度売られ、三か月後にアラヒマ=ガスに買い戻されて相模原団地に帰っています。それから半年後、また売られました」
美由紀は耳を疑った。
いったいなんの冗談だろう。わたしが売買されていたなんて……。
ストレッチャーから降りて、美由紀はソファに向かおうとした。
だが、激しいめまいに襲われ、膝《ひざ》から崩れ落ちそうになった。伊吹がとっさに手を差し伸べて、かろうじて倒れるのをまぬがれた。
「だいじょうぶか」伊吹がいった。「まだ寝ていたほうが……」
「いいの。ドレイクさん、そのデータというのは……」
「このモニターに表示されています」ドレイクはノートパソコンをまわして、画面を美由紀に向けた。
そこには�舌紋�の画像データと、英語で打ちこまれた履歴の記載があった。
美由紀は一行目に大書された文章を読みあげた。「ガールJ42947」
ドレイクがうなずいた。「アラヒマ=ガスにおけるあなたの名前です……。Jは日本人という意味で、番号は取り引き順だったようですね。人身売買の商品は、売られて初めて顧客によって名前が与えられる。事前に名前をつけると、その名に馴染《なじ》んでしまうために、アラヒマ=ガスではあえて記号で呼ぶのみとしていたようです」
伊吹がドレイクにきいた。「顧客の名前はわからないのか?」
「記録に残してませんね。ここにDestinationとあるでしょう? 目的地というか、この場合は出荷先という意味ですが……。一度目は岩手県|大槌《おおつち》町、二度目は東京都小笠原となってます」
「なぜ一度売られて戻されたんだろう?」
「このような言い方は恐縮なのですが……。女の子の場合、人身売買は性的搾取を目的とすることがほとんどです。顧客は幼女への性的興味があるタイプと、そのまま育てて一生を性の奴隷とするタイプに分かれます。前者の場合は、次々に新しい幼女を求めます。いうなれば、あるていど支配したら飽きて……次の幼女に買い換えるんです」
「……岩手の客はそうだったってことか」
「小笠原のほうも同様でしょう。いちど身体に傷がついた商品は……、いえ、こんな言い方は適正ではないのですが、すでに性的搾取を受けた幼女は、それ以外の用途では売れないというのが業界の通例らしいです。小笠原の客も買った商品に飽きて、捨てた。仮にそうだとすると、その時期は二十四年と十か月前になりますから……」
「そうか。美由紀のその後と一致するな」
「待ってよ」美由紀はたまりかねていった。「いったい何の話をしてるの? わたしが三歳か四歳のころ、売り買いされていたって? なにかの間違いよ。そんな記憶は全然ないわ」
ドレイクが渋い顔をした。「幼いころの記憶ですから、失われていることも……」
「いいえ。わたしは神奈川県藤沢市にいる実の両親のもとで育ったのよ。わたしの略歴を見ればわかるでしょ?」
ところが、美由紀にとっては意外なことに、伊吹が真顔でじっと見つめてきた。
「美由紀」と伊吹はいった。「ドレイクさんはおまえのためを思って協力してくれてる。アメリカだけじゃなく、日本側も問題の解決に力を貸してくれるよ。だから隠さなくてもいいんだ」
「……なにをいってるの? 伊吹先輩。隠すって、なにを?」
「防衛大、幹部候補生学校、航空自衛隊の履歴が事実と違っていることは、半ば公然たる事実だ。誰もがわかっていて、口にださないだけの話だが……。おまえを傷つけるつもりはない。でもいまだけは、ありのままの美由紀でいればいいんだ。過去に目を向けることは辛《つら》いだろうけど、真実は知っておいたほうがいい」
激しい混乱が美由紀を襲った。
伊吹の表情に、嘘をついていることをしめすサインは皆無だった。わたしを欺こうとしているわけではない。それだけは明らかだ。
にもかかわらず、その発言内容はまったく理解不能だった。あたかも、わたしが過去を偽っているような言いぐさだ。いったい伊吹はなにを主張したいのだろう。
「わからない」美由紀は訴えた。「わからないわよ、何をいってるのか。わたしの父は岬|隆英《たかひで》、藤沢市の商社に勤める会社員。母は岬|美代子《みよこ》、旧姓は船田《ふなだ》、専業主婦。正真正銘、わたしの両親よ。実家は神奈川県藤沢市江の島三丁目二十一番四号。そこで生まれて、そこで育ったの。それ以外に何があるっていうの?」
「美由紀……」伊吹はいった。「おまえは三重県の児童養護施設にいて、四歳のころに里親の認定を受けた岬夫妻に引き取られた。ほどなく養子縁組に至って岬夫妻の娘になったけど、幼稚園にはそれについて特に知らせる必要はなかったし、防衛大も事実は知っていても略歴からは削ってくれたんだろ? 里親制度から養子縁組という過去を持つ孤児は、そうやって職場による保護を受けることもある」
「な……なによそれ。いったいどうしたっていうの、伊吹先輩? どこからそんな話を……」
「おまえだよ、美由紀……。同棲《どうせい》してたころ、俺にも打ち明けてくれたじゃないか。というより、おまえは隠そうともしていなかった。仙堂芳則《せんどうよしのり》空将も、おまえの相棒の岸元涼平《きしもとりようへい》一尉も……百里基地の人間はほぼ全員知ってるはずだ」
稲妻に打たれたような衝撃が美由紀を襲った。
そんな……。わたしが孤児だなんて……。
相手の嘘を見抜くことができなければ、ショックも和らいだかもしれない。あくまで自分を信じ、相手に腹を立てるか、もしくは冗談だと感じて笑い飛ばすだろう。
でもわたしには、それは無理だ。わたしにはわかる。
伊吹もドレイクも嘘をついていない。真実を語っている。まして、伊吹の感情はわたしへの気遣いを含んでいる。傷つけまいとしながら、それでもわたしのために事実を突き詰めるべきだと訴えている。
わたしが彼に知らせたなんて。そんな記憶は、わたしのなかにない……。
めまいが激しくなった。立っていられなくなり、脱力感が襲う。意識が遠のいていくのを、美由紀は感じた。
「美由紀!」伊吹がぐらついた美由紀の身体を抱きとめた。
感じたのはそこまでだった。美由紀は深い闇の世界に落ちていった。
「たしかなことです」とドレイクはいった。「二十五年前に一度売られ、三か月後にアラヒマ=ガスに買い戻されて相模原団地に帰っています。それから半年後、また売られました」
美由紀は耳を疑った。
いったいなんの冗談だろう。わたしが売買されていたなんて……。
ストレッチャーから降りて、美由紀はソファに向かおうとした。
だが、激しいめまいに襲われ、膝《ひざ》から崩れ落ちそうになった。伊吹がとっさに手を差し伸べて、かろうじて倒れるのをまぬがれた。
「だいじょうぶか」伊吹がいった。「まだ寝ていたほうが……」
「いいの。ドレイクさん、そのデータというのは……」
「このモニターに表示されています」ドレイクはノートパソコンをまわして、画面を美由紀に向けた。
そこには�舌紋�の画像データと、英語で打ちこまれた履歴の記載があった。
美由紀は一行目に大書された文章を読みあげた。「ガールJ42947」
ドレイクがうなずいた。「アラヒマ=ガスにおけるあなたの名前です……。Jは日本人という意味で、番号は取り引き順だったようですね。人身売買の商品は、売られて初めて顧客によって名前が与えられる。事前に名前をつけると、その名に馴染《なじ》んでしまうために、アラヒマ=ガスではあえて記号で呼ぶのみとしていたようです」
伊吹がドレイクにきいた。「顧客の名前はわからないのか?」
「記録に残してませんね。ここにDestinationとあるでしょう? 目的地というか、この場合は出荷先という意味ですが……。一度目は岩手県|大槌《おおつち》町、二度目は東京都小笠原となってます」
「なぜ一度売られて戻されたんだろう?」
「このような言い方は恐縮なのですが……。女の子の場合、人身売買は性的搾取を目的とすることがほとんどです。顧客は幼女への性的興味があるタイプと、そのまま育てて一生を性の奴隷とするタイプに分かれます。前者の場合は、次々に新しい幼女を求めます。いうなれば、あるていど支配したら飽きて……次の幼女に買い換えるんです」
「……岩手の客はそうだったってことか」
「小笠原のほうも同様でしょう。いちど身体に傷がついた商品は……、いえ、こんな言い方は適正ではないのですが、すでに性的搾取を受けた幼女は、それ以外の用途では売れないというのが業界の通例らしいです。小笠原の客も買った商品に飽きて、捨てた。仮にそうだとすると、その時期は二十四年と十か月前になりますから……」
「そうか。美由紀のその後と一致するな」
「待ってよ」美由紀はたまりかねていった。「いったい何の話をしてるの? わたしが三歳か四歳のころ、売り買いされていたって? なにかの間違いよ。そんな記憶は全然ないわ」
ドレイクが渋い顔をした。「幼いころの記憶ですから、失われていることも……」
「いいえ。わたしは神奈川県藤沢市にいる実の両親のもとで育ったのよ。わたしの略歴を見ればわかるでしょ?」
ところが、美由紀にとっては意外なことに、伊吹が真顔でじっと見つめてきた。
「美由紀」と伊吹はいった。「ドレイクさんはおまえのためを思って協力してくれてる。アメリカだけじゃなく、日本側も問題の解決に力を貸してくれるよ。だから隠さなくてもいいんだ」
「……なにをいってるの? 伊吹先輩。隠すって、なにを?」
「防衛大、幹部候補生学校、航空自衛隊の履歴が事実と違っていることは、半ば公然たる事実だ。誰もがわかっていて、口にださないだけの話だが……。おまえを傷つけるつもりはない。でもいまだけは、ありのままの美由紀でいればいいんだ。過去に目を向けることは辛《つら》いだろうけど、真実は知っておいたほうがいい」
激しい混乱が美由紀を襲った。
伊吹の表情に、嘘をついていることをしめすサインは皆無だった。わたしを欺こうとしているわけではない。それだけは明らかだ。
にもかかわらず、その発言内容はまったく理解不能だった。あたかも、わたしが過去を偽っているような言いぐさだ。いったい伊吹はなにを主張したいのだろう。
「わからない」美由紀は訴えた。「わからないわよ、何をいってるのか。わたしの父は岬|隆英《たかひで》、藤沢市の商社に勤める会社員。母は岬|美代子《みよこ》、旧姓は船田《ふなだ》、専業主婦。正真正銘、わたしの両親よ。実家は神奈川県藤沢市江の島三丁目二十一番四号。そこで生まれて、そこで育ったの。それ以外に何があるっていうの?」
「美由紀……」伊吹はいった。「おまえは三重県の児童養護施設にいて、四歳のころに里親の認定を受けた岬夫妻に引き取られた。ほどなく養子縁組に至って岬夫妻の娘になったけど、幼稚園にはそれについて特に知らせる必要はなかったし、防衛大も事実は知っていても略歴からは削ってくれたんだろ? 里親制度から養子縁組という過去を持つ孤児は、そうやって職場による保護を受けることもある」
「な……なによそれ。いったいどうしたっていうの、伊吹先輩? どこからそんな話を……」
「おまえだよ、美由紀……。同棲《どうせい》してたころ、俺にも打ち明けてくれたじゃないか。というより、おまえは隠そうともしていなかった。仙堂芳則《せんどうよしのり》空将も、おまえの相棒の岸元涼平《きしもとりようへい》一尉も……百里基地の人間はほぼ全員知ってるはずだ」
稲妻に打たれたような衝撃が美由紀を襲った。
そんな……。わたしが孤児だなんて……。
相手の嘘を見抜くことができなければ、ショックも和らいだかもしれない。あくまで自分を信じ、相手に腹を立てるか、もしくは冗談だと感じて笑い飛ばすだろう。
でもわたしには、それは無理だ。わたしにはわかる。
伊吹もドレイクも嘘をついていない。真実を語っている。まして、伊吹の感情はわたしへの気遣いを含んでいる。傷つけまいとしながら、それでもわたしのために事実を突き詰めるべきだと訴えている。
わたしが彼に知らせたなんて。そんな記憶は、わたしのなかにない……。
めまいが激しくなった。立っていられなくなり、脱力感が襲う。意識が遠のいていくのを、美由紀は感じた。
「美由紀!」伊吹がぐらついた美由紀の身体を抱きとめた。
感じたのはそこまでだった。美由紀は深い闇の世界に落ちていった。