午後十一時すぎ。
府中の航空総隊司令部の職員宿舎となっているビルの一室で、美由紀は頭痛をこらえながらソファにおさまっていた。
私服姿の伊吹直哉と、いつもどおり皺《しわ》ひとつないスーツを身につけた嵯峨敏也。リビングルームのように高い居住性を誇る室内で、三人が顔を合わせていた。
嵯峨は窓の外を見やった。「基地のなかだってのに、静かだね」
伊吹は部屋のなかをうろついていた。「ここはヘリの離陸ぐらいしかねえからな。窓も二重だ、落ち着くだろ。……だけどさ、美由紀。退院まで待ったほうがよかったんじゃねえか? 病院を抜けだすなんて……」
「寝てなんかいられないわ。事実を知るまで、休む気になれない」
「美由紀さん」嵯峨が真顔でいった。「そのう、日々産まれる新生児の十五人は、間違った親に運ばれるっていうデータがある。親の顔を知らない子は少なくないんだ。そういう子たちが発育過程で問題を抱えたとき、僕ら臨床心理士は解決に全力を注ぐ。けれども、限界もある。心の闇については、すべてを明らかにできるわけじゃない」
「なにがいいたいの」
「僕はきみが被告になってる裁判で精神鑑定を求められてる。きみも臨床心理士だから、包み隠さずいうよ。きみの四歳以下の記憶がどうして失われているのか、理由がわからない。ひと昔前なら、トラウマによって抑圧された記憶とするところだけど……」
「ええ」美由紀はため息とともにうなずいた。「そんなものは迷信も同然。原因はきっとほかにある」
「きみが辛い状況にあるとき、相模原団地が度々フラッシュバックしたということは、その光景は辛さとともに記憶に残っていて、意識の表層に浮かびあがったと考えられる。PTSDの症状に近いけれど、完全な健忘を伴うはずはないんだ。まして幼少のころ、物心ついたきみが最初に見聞きしたものは、深く記憶に刻みこまれる……」
伊吹がいった。「重要なのは、少なくとも航空自衛隊にいたころには、美由紀はそれを覚えていたってことだ。見なよ、これらは人事管理部から借りてきたものだ。こいつは防衛大入学時に提出された戸籍謄本のコピーだが、里親だという事実が明記されてる」
美由紀はため息をついた。「さっきから何度も見たわ……。でもまだ信じられないの。十八のころ、その戸籍謄本の写しを市役所にもらいに行ったことは覚えているし、防衛大に提出したことも記憶にある。百里基地で過ごした日々も、伊吹先輩と一緒に住んでたことも忘れてない。それなのに、四歳以前の記憶だけじゃなくて、そのことに触れたときのすべての記憶がなくなってる……。こんなことってありえない」
「十一歳で里親と養子縁組の関係になったことも認識していないんだな? 法律では失踪後七年経つと死んだことになるから、四歳で見つかった美由紀は十一歳までの時点で実の両親が名乗りをあげないかぎり、誰の子でもなくなる。だから岬夫妻は養子縁組を決心したってことなんだが……」
嵯峨がうなずいた。「美由紀さんの記憶領域に起きている変異は、健忘だけじゃないんだ。四歳以下のことを忘れ去るために、ほかの記憶についても捻《ね》じ曲げられている」
「ああ」伊吹が立ちあがり、資料のなかからDVDを取りだした。「俺もどうも気になってたんだ。美由紀が航空自衛隊を辞めたあと、各務原《かがみはら》基地の件で再会したとき、あまりの変わりように仰天した。別人かと思ったぐらいだよ。いつもぴりぴりしていた凶器みたいな女が、控えめで礼儀正しい普通の女になっちまったんだからな」
「それは」美由紀はいった。「転職すれば、そんなものよ」
「そこがどうも、自覚がないように思えるんだよな」伊吹はDVDをデッキにセットした。「まあこれを見てくれ。三年前の記録だ。これも人事管理部が貸してくれた」
モニターに映しだされた映像は鮮明だった。航空総隊司令部の大会議室。忘れもしない、査問会議の風景だった。
「覚えてるか?」と伊吹がきいた。
「ええ。わたしが除隊を決心した日よね」
懐かしさはなかった。つい昨日のことのように思える。しかめっ面をしているのは防衛庁内部部局の人事教育局長、尾道隆二《おのみちりゆうじ》だ。いまは亡き板村久蔵《いたむらきゆうぞう》三佐の姿もある。辛《つら》そうにうつむくその顔に、美由紀は罪悪感を募らせた。上官だった彼の汚名返上のために臨床心理士になったのに、目的が果たせなかったばかりか、命を救うこともできなかった。
カメラがパンして、会議室の中心にたたずむ美由紀の姿をとらえた。
だがその映像に、美由紀は驚きを禁じえなかった。
航空自衛隊の青い制服に身を包んだその女は、とても自分とは思えなかった。げっそりと痩《や》せ細り、そのせいか目は異常に大きく隆起して見える。血走ったその目をむいて周りを眺め渡すさまは、飢えと恐怖に板ばさみになった戦地の難民のようでもあった。
「これが」美由紀は思わずつぶやいた。「わたし……?」
「そうだ」と伊吹がうなずいた。「身長百六十五センチ、体重三十九キロ。異常な痩せ方だよ。おまえはずっとこんな感じだった」
嵯峨がいった。「なんらかの精神面での障害が疑われたのも、ある意味当然だね。それで査問会議に精神科医の笹島《ささじま》が呼ばれたんだ」
「覚えてない」美由紀は首を横に振りながら、思いのままを口にした。「っていうより、自覚がないの。当時のわたしが、いまとそんなに違ってたなんて……」
画面のなかの査問会議は、スライドを映写して美由紀の過去を紹介していた。
幼少のころは虚弱体質。小食で痩せすぎだったことから何度か救急車で運ばれ、栄養失調の診断を受けている。
小学校に入学後は、意識的に食事をとり身体を動かすことで徐々に正常な発育へと近づき、十歳のころには心身ともにきわめて健康という診断記録が残っている。
しかしながらこの時期、学級においてほかの児童との協調性に欠け、しだいに孤立を深めていったと担任教師の報告にある。同世代よりも大人びた本を読み、哲学的な思考を好むところがあるため、級友とはものの考え方に差異が生じていたようだ。
人格面で子供らしさに欠けている一方、学業の成績はさほど誉《ほ》められたものでもなかった。授業中にぼうっと窓の外を眺めていることも多く、各教科の教師からは注意力散漫とみなされていたこともあきらかになっている……。
「わかるか?」伊吹が美由紀を見つめてきた。「略歴に従い、美由紀は岬夫妻のもとに生まれたことになっている。四歳で里親にひきとられたことや養子縁組を結んだ事実を曲げてるわけだが、おまえは当然ながら真実を知っているという前提で述べられてる。そのほかのことはすべて実際の出来事だ。おまえは児童養護施設にいたほかの孤児よりもずっと栄養が不足していて、性格的にも問題があって、集団から孤立し、むしろ反発するところがあった。その理由がきょう、はっきりしたんだよ。おまえは相模原団地で育った。ああなるのも無理はなかった……」
「そんな……。これらのことは記憶に残ってるけど、ニュアンスが違う。わたしはたしかに幼稚園や小学校では友達が少なかったけど、それは生まれつきのものよ」
「美由紀さん」嵯峨が告げた。「この映像を観てもわかるように、きみは極度の摂食障害、つまり拒食症だった。一般に、摂食障害の原因はどんなこととされてる?」
「妊娠恐怖、性的ないし攻撃的衝動の抑圧……」
「そう。きみは……人身売買で性的搾取目的の顧客に買われた以上、そこに強い恐怖と反発を感じたとみるべきだ。二十五歳の時点まで摂食障害を引きずるのは、必然だったろう」
「馬鹿をいわないでよ。わたしにそんな記憶はないんだってば」
「抜け落ちた幼少の記憶を補うために、|記憶の自発的修正《ボランタリー・コレクシヨン・オブ・メモリー》がおこなわれている。完全に記憶違いをしているわけじゃないけど、都合のいいように捻じ曲げられているんだ。だからきみは孤立も、摂食障害も、生まれついてのことと思いこんでいる」
「わたしは中学では人並みに友達ができていたのよ! ジャニーズショップにも通ったし、コンサートに行くのも好きだった。お洒落《しやれ》もしたし、原宿の行きつけだった店も覚えてる」
「中学以降は年齢相応の生活態度になったと、この査問会議でも指摘されてるじゃないか。それだけ幼少のダメージから回復してきた証拠だよ。ただし、成績は悪くて塾もさぼりがちで、自習も好まなかった。注意力散漫なところや、目的意識の欠如は変わっていなかったんだ。けれども、高校に入ったころには猛勉強して学年のほぼトップに位置するようになった。なぜだと思う?」
「……上坂《うえさか》君に恋をしたから……」
伊吹がいった。「そのあたりのことについて、さっき嵯峨先生とも話したんだけどな。よく考えてみてくれ。近くの男子校に通う上坂|孝行《たかゆき》がしきりに誘ってきたが、おまえはなかなか心を開かなかった。幼少のこともあって男が嫌いだったからだ。それも嫌悪とか、恐怖を感じていた。思春期の異性への憧《あこが》れは、アイドル歌手のようにおまえに危害を加えないとわかっている偶像への情熱に向けられ、決して本物の男性とつきあおうとはしなかった。ところが、おまえが上坂に惚《ほ》れるきっかけになる事態が起きた」
「ええ……」美由紀はうつむいた。「わたしの下校時に、襲ってきた男たちがいて……」
「その男たちを上坂が撃退した。そうだったな? 成り行きだけ聞けば三文ドラマみたいな話だが、おまえは決して夢見心地というわけではなかった。男たちに襲われたとき、たとえようのない恐怖を覚えたはずなんだ。なにもできない無力な自分を痛感し、救ってくれた上坂に強い依存心を抱いた」
「そこまで強烈な思いは抱いてなかったわ」
嵯峨は美由紀を見つめていった。「よく考えてみてくれ。きみはその上坂君と一緒にいたいばっかりに、彼が防衛大に入るとわかって、同じ進路を目指したんだろ? 両親に反対されたら、猛然と反抗して、家を出てしまった。ただの恋愛感情なら、そこまで一途《いちず》になれるかい?」
美由紀は黙りこんだ。
わずかに想起される記憶の存在を感じ取ったからだった。
それは記憶というよりも、長く接していなかった感覚と呼べるものだった。
わたしは本気で両親に腹を立て、恨みを抱いた。縁を切ってでも上坂と結ばれることを望んだ。その理由は……。
「思いだした?」嵯峨が顔をのぞきこんできた。「ぼんやりとでも、記憶に浮かびあがることがあるかい? 十八にもなると、きみは岬夫妻が実の両親ではないことをはっきりと認識していた。そういう家庭の子が、思春期のあらゆる苛立《いらだ》ちや怒りを親の愛情不足に結びつけたがることを、きみも知っているだろう。美由紀さん。きみはなりふりかまわず、防衛大に入ってでも上坂との関係をつなぎとめようとした。だけど……」
こみあげてくる孤独感と寂寥《せきりよう》感を、美由紀は認めまいとした。
涙をこらえて、震える自分の声をきいた。「ええ。上坂君との出会いは、彼の仕組んだことだった」
伊吹がため息をついた。「奴も腐り果てた男だったな。少林寺|拳法《けんぽう》部の知り合いに頼んで、美由紀を襲わせたんだからな。勇ましい救出劇は、やらせだったわけだ」
「わたしは……。そのあと、防衛大での勉強に力をいれて……体力づくりをすることに躍起になった。そうしないと、生きていられない気分だった」
嵯峨がうなずく。「きみの男性への不信感はさらに募り、自分の身は自分で守ろうと心にきめたからだね。努力のきっかけになったのは復讐《ふくしゆう》心と闘争心だったわけだ。でも、その思いだけじゃハードな防衛大の教育についていくことなんて出来ない。まして、ほかの男子学生を差し置いて首席卒業に至るなんて、並大抵の資質じゃ不可能だ」
そのとき、ふいに伊吹が、美由紀の顔の前で両手を叩《たた》きあわせた。
嵯峨がびくっとして身を退かせた。だが美由紀は、瞬《まばた》きひとつせずに伊吹の顔を見つめた。
「この違いさ」伊吹が告げた。「防衛大の国防論の授業、覚えてるな? 新田って教官が言ってたろ。中東や南米の内戦状態の国に生まれた子供は、大人になってから目の前で生じた激しい動きや音にも、動じることがないって。それが兵士としての資質を分ける最大の要因だから、どの国の軍隊でも生き残る兵士は戦場生まれの者ばかりだ、そんな話だった。俺ですらびびりが入る決死の訓練に、おまえは果敢に立ち向かった。それは……」
「ええ」美由紀は胸が引き裂かれそうに思えるほどの、強烈な心の痛みに耐えていた。「飢えと恐怖を味わいながら、大人が差し向けてくる銃口に怯《おび》えて育った……。物心ついたとき、わたしは地獄にいた。記憶にはないけど、きっとそうね。そうじゃなければ、わたしがあれだけの力を発揮できた説明がつかない……」
「美由紀。幹部自衛官としての業績の大半は、おまえの努力によるものだ。資質は、それを支えたにすぎないよ。でもおまえは防衛大入学から航空自衛隊を辞めるまで、ずっとこの映像に記録されているような女だった。周りを寄せつけず、いつもぴりぴりしていて、孤独に努力を積みあげて、トップの成績を維持した。上官にも絶えず反発し、仲間に心を許さず、命令無視も繰り返すトラブルメーカーだった。この人事管理部の書類にも、素行は最悪の部類に入ると記されてる」
認めたくなかった。美由紀は、悲痛な思いを口にした。「首席卒業したのに……。女性自衛官で初めてイーグルドライバーに抜擢《ばつてき》されたのに……」
「俺が常々思ってることなんだが、美由紀。優秀な自衛官ってのはつまり、国を守るために侵略者を殺すプロってことだ。戦争とは殺し合いなんだし、それ以外にはないからな。カミカゼって言葉がクレージーを意味するように、上層部がおまえを評価したとき、それはまともな人間性を否定されているのと同義だ。俺と似たもの同士だな。おまえはまともじゃなかった。だからトップに立てたんだ……」
「伊吹先輩……。伊吹先輩は、どうしてわたしとつきあってくれたの? 一緒に住んでくれたのは……わたしを愛してたからじゃないんでしょ?」
しばらくのあいだ、伊吹は黙りこくって床に目を落としていた。
「なあ、美由紀」と伊吹はいった。「もうわかっていると思うけど、おまえは上坂のことがあって以来、恋愛なんか眼中になかった。男なんか寄せつけもしなかった。だが、優秀でありながらトラブルばかり引き起こすおまえに上官は手を焼いて、同じタイプの男を監視役につけようとしたんだよ。……それが俺だ」
「……防衛大でずっと一緒にいてくれたり、休みの日に戦闘機の操縦法を教えてくれたのも……義務だったから?」
「最初はな。一緒に暮らすようになったとき、俺はおまえの内面に抱える問題の奥深さを知った。おまえの男に対する拒絶も理解した。だから俺は、監視係と教育係に徹しきったんだよ……」
そうだったのか。
思いがそこに至ったとき、美由紀は笑った。涙はいつしか、とめどなく流れ落ちていた。それでも笑いが漏れた。
「伊吹先輩がその後、ほかの女の人とつきあって、子供ができたのは……。そういうことだったのね。わたしを裏切ったわけじゃなかった。そもそも、恋人としてつきあってはいなかった……」
「……わかってくれてると思ってたよ。いや、あのときのおまえは……わかってたはずだった。おまえのほうから拒否したからだ。おまえは一生、孤独を抱えて生きるつもりだった」
美由紀は目を閉じた。
パズルのピースが抜け落ちているように、記憶には断片的に穴がある。やはり想起することはできない。
それでも、嵯峨と伊吹が指摘したことは事実なのだろう。同棲《どうせい》していた伊吹と、キスさえしたことがなかった。そんな関係もわたしは、奇妙だとは認識していなかった。ありのままの過去として記憶していた、そのはずだった。
だが、ずれているのはわたしの感覚のほうだった。奇異な思考や行動を、当然のものとして受けいれていた。それが異常なものだとも思わずに。
自分が普通の人間だと、わたしは信じていた。でもそれは間違いだった。
「嵯峨君……」美由紀は声を絞りだした。「現時点での、わたしの精神鑑定は? よければ、聞かせてほしいんだけど」
かすかに戸惑ったようすの嵯峨は、すぐに真顔になって美由紀を見つめた。「これは僕の臨床心理士としてのプライドをかけた分析だよ。決して私情をはさんだり、あるいはきみを貶《おとし》めようとするものじゃない。わかる?」
「ええ。嵯峨君のことは、誰よりも信じてるから」
「……じゃ、説明するよ。きみは四歳以下の経験が原因となっている複雑性PTSDに、現在もなお苦しんでいる。そのため非常に孤独感にさいなまれることが多く、人々から疎遠になっているという感覚を抱きがちだ。それから、性的行為に対する潜在的な嫌悪のせいで、感情の範囲が縮小している。恋愛感情に極端に疎い理由はそこにある。……他人の表情から感情を読めるようになっても、恋愛感情だけは察することができないのは、そのせいなんだよ。きみのなかには男性への反発がある」
「わたしは、恋愛の意味なんか知らないのね……」
「長くつづいた症状のせいだ、仕方がない。けれども同時に、強い正義感を働かせる。暴力あるいは権力で人の自由を奪おうとする相手に強い反感を抱き、実際に対抗する行動にでる。とりわけ、みずから経験した人身売買、幼女の性的搾取を連想させる状況に近ければ近いほど、嫌悪と怒りを感じる度合いは大きくなる。自制心を失い、ときに法の制限を超えて相手を追及し、裁きを下そうとするのは、こうした過去と複雑性PTSD、およびそれに伴う解離性障害によって引き起こされるものと考えられる」
伊吹が微笑した。「美由紀は無罪ってことかい?」
「それは判決が下ってみないとわからない……。認められる証拠でもないかぎり、無罪を勝ち取るのは難しいかもしれない」
「証拠だって? 美由紀は相模原団地にいて商品にされてた。立派な証拠じゃねえか」
「あれが証明してくれるのは人身売買の事実だけだよ。性的搾取が目的であることは明白であっても、顧客がどのように美由紀さんを扱ったのか、そこまでは記録に残ってない」
「美由紀は酷《ひど》い目に遭ったんだ。それは事実だろ?」
「もちろん、僕はそう思ってるよ。でも裁判ってものは、事実として認定されたものだけを証拠として取りあげる。憶測や推論は弾《はじ》かれてしまうんだ。実際、分析不能かつ複雑なところもある。たとえば、美由紀さんがひとたび暴走したとき、その行動に歯止めがきかなくなる原因は、症状のみならず、美由紀さん自身が憤りの理由を分析できないことにある。幼少の記憶が消えてしまっているから、複雑性PTSDという症例を自己分析することもできず、怒りに身をまかせてしまうんだ」
「ってことは、記憶が消えた理由はいまもって不明ってわけか」
「そうだね……。自分の生い立ちについて完全に忘れ、ずっと摂食障害とPTSDに苦しんでいた人生の記憶に修正を加えてしまっていたんだから。僕が美由紀さんと初めて会ったときにはもう、そんなふうに変わってしまった後ということになる。どうしてなのかは、臨床心理学で分析されるあらゆる症例と照らしあわせても、判然としない……」
沈黙が降りてきた。
しんと静まりかえった室内。その静寂にこそ耳を傾けていたかった。
胸にぽっかりと空いた空虚さだけが残り、しだいに、耐え難い孤独感が押し寄せてくる。
美由紀はつぶやいた。「ありがとう。充分に参考になったわ……」
それだけいうと、美由紀は戸口に駆けだした。
伊吹の呼ぶ声がする。「美由紀!」
だが美由紀は、足をとめることはできなかった。頬を流れおちる涙をぬぐいながら、ひとけのない通路を駆け抜けていった。