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千里眼174

时间: 2020-05-27    进入日语论坛
核心提示:積み木夜の航空総隊司令部の職員宿舎は、とっくに就寝時間を過ぎ、静寂に包まれていた。その階段を、美由紀はあわただしく駆け降
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積み木

夜の航空総隊司令部の職員宿舎は、とっくに就寝時間を過ぎ、静寂に包まれていた。
その階段を、美由紀はあわただしく駆け降りた。
足音が迷惑になるのはわかっている。だから早く外にでたい。伊吹に追いつかれたくはない。
玄関のわきにある受付カウンターも、この時間は消灯し無人だった。だがこの宿舎には何度か泊まったことがある。専用車両のキーがどこにあるのかもわかっていた。壁に掛かった金属製のケースのなかだ。
ケースを開けてキーをつかみとると、玄関から外に走りでた。
宿舎前の駐車場に並ぶジープ数台が、外灯におぼろげに照らしだされていた。美由紀は手にしたキーを見た。6番。該当するナンバーのついたジープに駆け寄る。
運転席に乗りこみ、キーを差しこんでエンジンをかけた。すぐさまアクセルを踏んで発進させる。
ヘッドライトを灯《とも》し、基地内の私道を走ってゲートを抜け、一般道路にでた。
深夜といえども甲州街道は交通量が多いが、新小金井街道はそうでもない。行き先はどこでもよかった。ただ空いている道を選んでジープを飛ばした。
涙のせいで視界がぼやけてくる。しきりにそれを拭《ぬぐ》って、闇に包まれた道の行く手を見つめつづけた。
混乱だけがある。だが、その理由はよくわからなかった。わたしは何を悲しんでいるのだろう。実の両親と信じたふたりと、血がつながっていなかったことか。たしかに衝撃だった。わたしは、あの母が腹を痛めて産んでくれたものだと思っていた。
しかし、わたしに失意をもたらしたものは、それだけではない。
誇りを失った。人生の誇りを。わたしは、自分で思い描いたような人間ではなかった。
防衛大首席卒業、F15DJパイロットの二等空尉という経歴だけを見れば、それは間違ってはいない。けれども、自尊心を抱けるような過去ではなかった。
クルマの往来がまったくない生活道路に入ったが、美由紀はアクセルを緩めなかった。どこへ行こうとかまわない。じっとしていたくない。
そのとき、ミラーに突然、後方のクルマのヘッドライトが閃《ひらめ》いた。
猛然と追い越していった黒のセダンが、進路をふさぐかたちで横向きになって停車した。
美由紀はあわててステアリングを切りながらブレーキペダルを踏みこんだ。
ジープは後輪を滑らせながらセダンに接近し、衝突寸前で停まった。
辺りはしんと静まりかえっている。遠くで犬の吠《ほ》える声がする。ジープのエンジン音のほかに、物音はそれだけだった。
エンジンを切り、美由紀はジープを降りた。
セダンに歩み寄っていく。古いトヨタ・センチュリーだった。姿勢をかがめて運転席を覗《のぞ》いたが、奇妙なことに誰も乗っていない。
だが、運転席のドアは半開きになっている。停車後、素早く降車したのだろう。すると、ドライバーはまだ近くに身を潜めている可能性がある。
慎重に後部座席に目を移す。そこにも人影はない。
だが、窓からなかを覗きこんだとき、美由紀は息を呑《の》んだ。
後部座席の白いシートカバーの上、暗がりのなかに、見覚えのある物体が転がっている。
ドアを開け放つと、天井のライトが物体を明るく照らしだした。
それは積み木だった。真っ赤にペイントされた積み木が三つか四つ。
以前に臨床心理士会に小包で届けられたことがあった。匿名の差出人だった。そのときは、何も感じなかった。
だがいまは……。
美由紀は手を伸ばし、積み木のひとつをつかんだ。
電気に打たれたように、びくっと身がのけぞる。
脳幹に落雷を受けたかのようだった。瞬時にフラッシュバックする光景があった。
 わたしは横たわっていた。畳の上で。頬が畳に触れているのを感じていた。
聴覚も刺激を受けていた。わんわんと泣く子供の声。自分の声でもあり、ほかの子の声でもある。
その視界に散らばっていた積み木。本来は木のいろをしていた。いまは真っ赤に染まっている。
わたしの血で赤くなっているのだ。頭から噴きだす血で。そうだ、大人は積み木でわたしの頭を殴った。何度も、執拗《しつよう》に殴打した。そしてわたしは倒れた。放りだされた血染めの積み木を眺めながら……。
 叫びとともに、美由紀はその積み木を力ずくで投げた。
積み木は、夜の路上に叩《たた》きつけられ、何度か跳ねて、転がった。
また静かになった。
美由紀はセダンにもたれかかりながら、その場に座りこんだ。両手で顔を覆い、泣いた。
すべてを思いだしたわけではない。でもこれは、記憶の断片だ。辛《つら》く、永遠に否定したい過去を呼び覚ます手がかり……。
靴の音がした。
ひとりの男が近くに立つ。そんな気配があった。
見あげると、スーツを着た大男がいた。長身というより巨漢だが、肥満体ではない。鍛えあげられていることは肩幅を見ればわかる。
日本人ではない。イタリア系の、決してハンサムとは呼べない顔。黒髪をオールバックに固め、ぎょろりとした目に鷲鼻《わしばな》、異様に大きな口に、割れた顎《あご》の持ち主だった。
何度も会った男だった。いまだに、その素性についてたしかなことが判明していない。
役職だけは知っている。この男がみずから口にした。メフィスト・コンサルティング・グループ、クローネンバーグ・エンタープライズ特別顧問。
美由紀は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。「ダビデ……」
ダビデという通称を名乗るその男は、いつものような皮肉めいた笑いを浮かべてはいなかった。軽薄さは鳴りを潜め、人を嘲《あざけ》るようなジョークも発しない。ただ真顔で、美由紀をじっと見おろしていた。
「どうやら」とダビデは流暢《りゆうちよう》な日本語で告げた。「過去がフラッシュバックしたようだな。相模原団地で過ごした日のことが」
まだわからない。血まみれになって畳の上に倒れた、それ以上のことは、何も浮かんでこない。
というより、ダビデのいうことを真に受けるべきではなかった。人を欺くことを生業《なりわい》とする男だ、なにひとつ信用できない。
座ったまま、美由紀は遠くに転がった積み木を眺めた。「あれを事務局に送ってきたのは、あなただったのね」
「ああ。きみがどれだけ記憶を呼び覚ますか、知りたくてね」
「何のために、そんなことをしたの」
「グループ内別会社の特別顧問がきみの失われた過去に目をつけてね。ジェニファー・レインって女だ。知ってるだろ」
……思いだした。
西之原夕子《にしのはらゆうこ》と閉じこめられた、銀座の地下の竪穴。執拗に質問を受けているとき、あの積み木が浮かんだ。
奇妙だった。つい最近のことなのに、いままで忘れていたなんて。
ダビデがいった。「あの女、じつにうまくきみの過去についてアプローチを図ったな。積み木のことを直接尋ねず、玩具《おもちや》についての質問で自発的に幼少のころを連想させようとした。野うさぎについて尋ねて、岩手の山奥にいたことを、そして猫からは小笠原の暮らしを想起させようと試みた。幼児も動物には関心を持ち、記憶している可能性が高いからな」
「心に深い傷を追った過去を暴いて、わたしにダメージを与えたかったの? 歴史をつくるとか言ってる詐欺師集団はいつもそれね」
「いいや。逆だよ。きみが思いだせないことを確認したんだ。普段の生活においては、周囲からのいかなる外的刺激によっても、きみの幼少の記憶は戻らないと確かめたわけだ」
「どういうことよ」
「閉塞《へいそく》的な空間では健忘の症状が治りやすいという学説は知ってるな? あの竪穴にはそういう効果がある」
「夕子のメフィスト採用試験じゃなかったの?」
「彼女についてのことはいい。問題はきみだよ」ダビデは、美由紀の隣りに腰を下ろした。
あいかわらずの馴《な》れ馴れしい態度。だが反感は抱いていても、いまは離れられない。わたしは真実を知りたい。
ダビデはいった。「私はとっくに知っていたことだがね。ジェニファーも気づいたんだ。幼少の記憶を失ったがゆえに、現在のきみがあることを」
「……え?」
「複雑性PTSDと摂食障害を患ったきみは、防衛省ですら手に負えない問題児だった。死をも恐れぬ態度で任務に臨むさまは勇敢ともいえるが、無謀さとも紙一重だ」
「その話なら、さっき別の人から聞いたわ」
「きみは無茶な行動ばかり取りたがった。北朝鮮の不審船を、領海を出ても追いまわしたり、楚樫呂《そかしろ》島の災害にヘリを奪って救出に出かけたり……。ところがだ。狂犬ともよぶべききみを、友里佐知子《ゆうりさちこ》が手なずけた」
「それって……」
「そう。きみの幼少の記憶をなくさせたのは、友里佐知子だ」
「……嘘よ」
「どうしてだね。私のようなメフィスト・コンサルティング特別顧問はセルフマインド・プロテクションの技法を身につけているため、嘘を見抜かれないようにすることができる。だからいま、その技法は使用せずにおこう。どうだね? 私の目を見るといい。嘘をついているか?」
美由紀は、ダビデと目を合わせなかった。セルフマインド・プロテクションを解いたところで、心理学に異常なほど精通したこの男の真意など見抜けやしない。
「いつそんなことができたっていうの?」と美由紀はいった。「だいいち友里佐知子だって、記憶を完全に消去させることなんて……」
「できないか? 美由紀。彼女の日記を読んだだろう。友里は二十年も進んだ脳神経外科技術を身につけていたんだぞ」
「たとえそうでも、わたしを手術することなんて……」
「本当にそうか? では聞くが、きみが東京晴海医科大付属病院に勤務するようになって一週間後の四月二十八日。曜日は火曜、天気は晴れだった。友里の日記には、何が書いてあった?」
思わず美由紀は絶句した。
記憶を呼び覚まそうとしたが、なにも思い浮かばない。
「……覚えてないわ」と美由紀はいった。
「馬鹿をいえ。きみほどの記憶力の持ち主が、あの重要な日記の記載内容を忘れるものか。しかも自分に関わる時期の記述をな」
「じゃあ何も書いてなかったのよ」
「そんなことはない。すべてのページが埋まっていただろ? きみが鬼芭阿諛子《きばあゆこ》にそういったじゃないか」
「……その日にどんなことが書いてあったっていうの」
「というより、きみの身に起きたことを思いだしたらどうだ。四月二十八日、きみは友里佐知子に呼びだされ、検診を受けた。職員として働くからには健康を徹底してもらうと言われて、癌検査用の巨大な機械に寝かされて、ほどなく眠りについた」
そうだった。
わたしは無防備なことに、友里とふたりきりになり、ベッドに横たわって目を閉じた。そして検査が終わったころに、眠っていたことに気づいた。友里が笑顔を向けてきたのを覚えている。疲れてるみたいね。でも身体に異常はないみたいだから、安心して。
美由紀はつぶやいた。「あのとき……」
「そう。あのときだ。美由紀、どうしてきみひとりだけが、友里佐知子による前頭葉切除手術を免れたと思う。日記には詳細が記してあった。職員は全員、検診と称して手術を施された。きみも働きだして一週間後のあの日、そうなる運命だった」
「どうしてわたしだけ……」
「日記によれば、手術の準備段階で脳電気刺激を与えたとき、きみが突然目を開いて悲鳴をあげたらしい。相模原団地の記憶がフラッシュバックして、きみは死の恐怖に怯《おび》え、取り乱したようだ」
「あの検査中にいちど目が覚めていたの? それも覚えていない……」
「友里はきみをなだめようとした。きみの反応はまさしく三、四歳児のそれで、泣きじゃくる声に幼児特有の言葉づかいが混じっていた。友里は子供をあやすように話しかけ、催眠暗示を利用しながら、なんとか寝付かせた。お友達と仲良く遊ぼうね、と友里が暗示すると、きみは目を閉じたまま、歌を口ずさんだ」
「歌?」
「勝って嬉《うれ》しいはないちもんめ。負けて悔しいはないちもんめ……」
美由紀は絶句した。
フラッシュバックが起きたのなら、記憶も一時的に戻ったのかもしれない。催眠暗示でそれが表層に浮かびあがることも、充分に考えられる。
「鉄砲担いでちょっと来ておくれ、と聞いた時点で、友里は相模原団地の人身売買の実態を理解した。彼女もメフィストの特別顧問候補だった女だからな、国際的な犯罪については詳しい」
「……それでどうなったの?」
「友里は、きみへの前頭葉切除手術を取りやめた。代わりに一過性脳虚血発作を起こして脳の一部の情報伝達を絶ち、記憶障害を引き起こした。対象は発育過程の初期段階で生まれた脳細胞、すなわち四歳以下の記憶を想起できなくした」
「脳手術で、わたしの記憶を……」
「きみはかつてメフィスト赤坂支社に捕らえられたことがあったな? こめかみに小さな手術|痕《こん》があることを指摘されただろう? 脳切除を受けなかったきみに、その痕が残っていた理由はこれだ。別の手術を施されていたんだよ」
「なぜ友里はそんなことをしたの? わたしをロボットにしようと思えばできたのに……」
「日記にもそのへんは詳しく書いてないがね。私にはわかるよ。友里が幼いころ、どんな日々を送ったか知ってるだろう?」
衝撃が美由紀を襲った。
友里佐知子も、終戦直後の横須賀で、米軍相手に幼女売春を働いて生計を立てていた。
わたしに似た過去があることを知って、彼女は……。
「同情したっていうの?」美由紀は、また溢《あふ》れそうになった涙をこらえながらいった。「友里がわたしから辛《つら》い記憶だけを奪い、健全な女として生きる道を与えたって?」
「どこまでの計画性を友里が持っていたかはわからん。友里が必ずしもきみへの優しさをしめしたとは思わない。気の迷いだったかもしれないし、きみの複雑性PTSDを手術で治療できるか否か実験したのかもしれない。実際、日記によれば、鬼芭阿諛子は友里の判断にそうとう怒っていたらしい。前頭葉を切除されずに済むのは娘であるわたしだけのはずだと、猛烈に抗議したようだ」
阿諛子が当初、わたしに異常なほどの敵愾《てきがい》心を燃やしていたのはそのせいか。
母と信じた友里の慈愛を、阿諛子のほかに受けとった女として、わたしを憎んでいたのだろう。
美由紀はうつむいた。
「いまのわたしは……友里佐知子によって作られたのね。わたしは友里のおかげで、過去を再構築した。実の両親のもとで育ち、誇りある防衛大の首席卒業者となって、二等空尉になり……。現在に至った。そう信じた……」
「ようやく精神面のバランスを得るに至ったきみが、摂食障害からも脱却し、心身ともに健康な女になったのはたしかだよ。他人への過剰な不信感も鳴りをひそめ、臨床心理士にふさわしい人格者になった。男への性的な嫌悪感だけは、潜在的に持続したようだがな」
「捻《ね》じ曲がった記憶……か。いまも四歳以下のことが思いだせないのは、脳のどこかで回路が絶たれているから……」
「安定はそれによって生まれているんだ。永遠に修復する必要はないさ」ダビデはそういいながら、ゆっくりと立ちあがった。「きみも阿諛子同様、日記の記述の認めたくない部分は本能的拒絶《インステインクテイブ・リジエクシヨン》で目に入らなかったんだからな。むろん、受けいれがたいことだったんだろう」
「だとすると」美由紀も起きあがった。「幼少の記憶が消されてることを知りながら暮らせって? 脳の回路が切断されてることを自覚しながら?」
「想起したら死にたくなるだけだ。きみの自我が崩壊するだろう。かつての重い心の傷をひきずるきみに逆戻りさ」
「ダビデ……。わたしが第二の友里になりはしないかと気にかけてたことがあったわね……」
「ああ。あれはつまり、こういうことさ。きみの生い立ちは友里そっくりだった。そして、友里の慈悲によっていまのバランスを保ってる。カエルの子がカエルになりはしないかと心配するのは、当然だろ?」
「同じセリフを赤坂支社でも聞いたわ」
「低脳な支社の連中はあのとき初めて、きみが両親についての真の記憶を失っていることに気づいた。そこで友里佐知子をきみの母親だと思わせ、きみを洗脳してメフィストの一員に迎えようとしたんだ。きみのなかに混乱が生じたのは、無意識が表出して、岬夫妻が実の両親でないと薄々感じたからだろう。赤坂支社の奴らはそこにつけこもうとした」
「わたしの過去は爆弾なわけね……。思いだしたらもう今のわたしではなくなる」
「だがな、美由紀。幸いだとも言えるんだぞ? きみの法を逸脱した行為の数々が免責される可能性があるからな。すべての暴走行為は複雑性PTSDのせいだった。きみに責任能力はない」
「裁判で事実として認定されれば、でしょ? 人身売買の証拠はあっても、性的搾取を受けたことは証明できない……」
ダビデは、無言で美由紀を見つめてきた。
セダンの後部座席に手を差しいれると、積み木をすべてさらい、美由紀に突きつけてきた。「怖がらずに、過去にアプローチすることだ。友里の手術によって辛《つら》い記憶は思いだせなくても、付随する断片的な記憶事項は想起できる。さっきこの積み木に触れたときのようにな」
美由紀は、ダビデの手にした積み木を眺めた。
触ることなど、とてもできない。
そのとき、路上にまばゆい光が射した。大排気量のエンジン音とともに、ヘッドライトが近づいてくる。
ダビデは積み木を地面に放りだすと、セダンの運転席にとって返した。「すべての過去があって、いまの自分がある。それを受けいれろ。そして未来を手にいれることだ」
「未来?」
「いいか。裁判の結果、自分がどうなってもいいなんて思うな。無罪はみずからの努力で勝ちとるもんだ」
「わたしはもう、どうなっても……」
「駄目だ!」とダビデは怒鳴った。
美由紀はびくっとした。
それは、怪しげなイタリア人として振る舞っていた男が初めて見せた、明確な怒りの感情だった。
ダビデも、一瞬でも自制心を失ったことを悔やんだらしく、苛立《いらだ》ちとともにいった。「きみは自分が犠牲になることぐらいやぶさかではないと考えているが、それは大きな間違いだ。なんら褒められたことではない。この世にはきみを必要とする者たちがいる」
「だけど、わたしがいなくても、誰かが……」
「本当にそうか? 身近なところで考えてみろ。雪村藍は死ぬほど怖い思いをした。不安神経症が再発し、また不潔恐怖に至るかもしれない。彼女のことはどうする気だ? ああなった責任はきみにあるんだぞ」
美由紀は言葉を失った。
藍。たしかにそうだ。わたしは彼女をほうってはおけない。
「だろ?」ダビデは美由紀の心を読んだようにいった。「挫折《ざせつ》が許されると思ったら、それこそ我儘《わがまま》の極みだ。きみは自分が世に必要とされたいと願い、努力してきた。その成果が出始めたところで身を引くなんてことは許されない。いいな。裁判は自分の力で勝利しろ」
それだけいうとダビデは運転席に乗りこみ、ドアを閉めた。
セダンは急発進し、闇の彼方へと走り去っていった。
直後に、別のクルマのヘッドライトが近づいてきて、停車した。
その独特のシルエットと、重低音。ヴェイロンだとわかる。
美由紀は、地面に散らばった積み木を見おろした。
ダビデはどうしてわたしにこれを与えたのか。ジェニファー・レインとのグループ内抗争に打ち勝つため、わたしを援助しようというのか。
関係ない、と美由紀は思った。わたしはわたしの意志で生きる。
そして、これがわたしにとって必要な物だというのなら……。
手を伸ばし、積み木のひとつをつかんだ。
また脳幹に電気が走ったように思えた。
血染めの積み木。さっきよりもはっきりと想起できる。閉じた瞼《まぶた》の裏に克明に浮かんだ。
 わたしは畳に倒れている。でもそこは、相模原団地のなかではない。
売られていった先のどこかだ。稲光がして、雷鳴が轟《とどろ》いていた。
木々に降り注ぐ雨……。
ラジオにガリガリという雑音が混じっている。落雷が突きあげるような衝撃を走らせた。
畳に、大根の切り身をこすりつけている自分がいる。それで畳にこびりついた血をこそげ落とそうとしているのだ。
さっさと磨け。大根の成分には血を落とす作用があるんだ。
そう怒鳴っているのは大人の男だ。わたしだけではない、ほかにも幼い女の子たちがいた。
額に傷がある男が笑っている。
手には白い粉の入ったビニール袋を握りしめている。
小屋のなかには、同じような袋が山積みになっていた。
男はわたしを見つめ、涎《よだれ》をしたたらせながら近づいてくる……。
「美由紀!」伊吹の声がした。
はっとして、美由紀は顔をあげた。
指先から力が抜け、積み木を取り落とす。
異常な記憶の想起は終わりを告げ、かすかに肌寒い夜気だけが美由紀を包んでいた。
伊吹が歩み寄ってきた。
「どうしたんだ」伊吹が静かにきいた。「無事か?」
美由紀は何も答えなかった。
溢《あふ》れだした記憶に混乱し、動揺している自分がいる。心を落ち着かせるには、少し時間が必要だった。
かつて見た光景。幻想ではない。その生々しさから実際の記憶だとわかる。
四歳の記憶。わたしが売られていった先での記憶。あれが……。
複雑な思考の数々は、おぼろげにひとつのかたちをとりはじめた。そして、美由紀に自然に歩を踏みださせた。
つかつかとヴェイロンに向かう。
「おい」伊吹が追いかけてきた。「どこに行く気だ」
「二番目の客のところ」
「なに? ……思いだしたのか?」
「いいえ。それ自体は思いだせない。でも付随する記憶にはアプローチできてる」
「ってことは、小笠原に行くつもりか?」
「違うわ。群馬よ」
「群馬だって? どうして?」
「小笠原は……」美由紀はなおも浮かびあがってくる記憶を整理しようと躍起になっていた。「その顧客が、怪しげな商売の経由地に使ってただけ。各地を転々としてた。わたしに強い記憶を刻みこんだのは、山奥の家。落雷と突風、豪雨が同時に襲ってきた。いまになってそれは、熱雷だとわかる」
「熱雷か。たしかに群馬の山地は独特のかたちをしているせいで、上昇気流を生んで熱雷を発生させやすいけど……」
「ラジオにノイズが入ってから、二秒以内に稲光があった。防衛大の気象学で習ってでしょ? 群馬の中央部では雷雲は新治《にいはり》村山地から、榛名《はるな》山と赤城《あかぎ》山のあいだを抜けて、前橋、伊勢崎《いせさき》へと流れる。西部では長野原、中之条から榛名|西麓《せいろく》を経て、安中《あんなか》、富岡、甘楽《かんらく》からの流れが合流して、高崎、藤岡にでる。東部は足尾山地から桐生《きりゆう》、太田《おおた》に流れるのよ。熱雷にあれだけ近かったってことは、この三本の雷雲の流れのうち、どれかに該当するわ」
「それにしたって広範囲だろ。っていうか、いまもそいつがそこにいるって確証は?」
「ないけど……痕跡《こんせき》だけでもあれば、現在の居場所を割りだせるかもしれない」
「追っかけてどうするつもりだ」
「あの男はほかにも幼女をたくさん集めていたし、虐待もしてた。警察の目を盗んで、白い粉の入った袋を売買してた。たぶん暴力団員で、売り物は麻薬」
「だから懲らしめてやるってのか? それがまた暴走の始まりじゃねえのか?」
「いいえ」美由紀はヴェイロンのわきで立ちどまった。「わたしは幼児期に性的搾取を受けた。その証人を探しだすことが目的なの」
「人身売買の顧客を捕まえて、裁判官の前に引きずりだそうってのか。やめとけよ」
「どうして」
「どれだけ日数がかかるか判らない。ふたしかな記憶だけが頼りなんだろ? 誤認もありえる。それに……」
「なによ」
「また暴走する可能性が大だ。目的が目的だしな」
「平気よ。だいいち、悪いのはその男なんだし」
「そういう考えがすでに暴走の始まりだと思うんだけどな……。わかった、じゃあ一緒にいくよ」
「……ひとりで行きたい。駅まで送ってくれればいいわ」
「なにをいってる。俺もどうせ謹慎を強いられる身だ、力になるよ」
「やめてよ。そんなの嫌」
「なんでそんなに……」
こみあげる怒りを抑えられなくなり、美由紀は大声でいった。「まだわからないの? 伊吹先輩は、わたしの恋人じゃなかったんでしょ!?」
静まりかえった路上に、ヴェイロンのエンジン音だけが轟いている。
「ああ」伊吹はつぶやいた。「そのことか」
「なにが……そのことか、よ」美由紀はまた涙があふれそうになった。「わたしはあなたとつきあってた。そう信じてたのに……」
「美由紀。あの当時、おまえはそんなふうに言ってなかったぜ? 俺が無理にあがりこんだんだ。おまえは、勝手にすればってそう言ってた」
「ええ。わかってるわよ。よくわかってる。同棲《どうせい》したのが恋愛関係だったっていうのは、わたしが記憶を幼少の記憶を失ったあとの思い違いよ。嵯峨君のいう、|記憶の自発的修正《ボランタリー・コレクシヨン・オブ・メモリー》だわ。自分でもおかしいと思ったわ。ほかに男の人とまともにつきあえたことがないのに、伊吹先輩とだけ同棲したなんて……。一緒に住んだのに、何もしなかったなんて……」
「なあ、美由紀……」
「わたしは」美由紀は泣きじゃくる自分の声をきいた。「誰の愛にも気づけない。そもそも愛されるような人間じゃなかった」
「美由紀! いいから聞けよ。俺がおまえを愛してないなんて言ったか?」
「え……?」
「同棲することまで上官からの指示なわけがないだろ。俺は、おまえが好きだったよ。だから一緒に住んだ」
「伊吹先輩……でもそのころのわたしは……」
「病的なまでに無鉄砲で、いつも喧嘩《けんか》腰だった。そりゃいまのほうがいい女だが、あの当時の美由紀もよかったよ」
「なら、キスぐらいしてくれてもよかったのに」
「おまえに撃退されて肩を脱臼《だつきゆう》した。覚えてるだろ」
「嘘。手加減してわざとやられたんでしょ。伊吹先輩ならねじ伏せることができたはず……」
「馬鹿をいえ! そんなことできるか。特に、おまえ相手に……。なあ、美由紀。おまえが問題を抱えているのは、見ればわかった。だから見守ろうとしたんだ。くさいセリフだが、そういう愛だってあるだろ」
「……そんなこと信じられない」
「美由紀」
「ほかの人とくっついて子供まで作ったじゃない」
「なあ、千里眼! 俺の目を見ろよ。俺が嘘をついているかどうか、しっかり見極めろ。いいか、言うぞ。俺は防衛大にいた岬美由紀を愛していた。いまでもその気持ちは変わらない。……どうだ?」
じっくり観察するまでもない。恨めしいほど発達した動体視力と心理学の知識のせいで、伊吹の本心は手にとるようにわかる。
彼は嘘などついていない。すべて真実だ。
だが、そう認識したせいで、かえって悲しみがこみあげてくる。涙はもう止まらなくなった。
「悔しいよ」美由紀は震える声でいった。「情けなくて、悲しくて……。自分の意志でキスしたことも、たった二回しかない。笹島《ささじま》としたのは、やはり彼が命の恩人だと思いこんだせいだった。スクールカウンセリングで知り合った日向《ひゆうが》涼平《りようへい》君としたのは、彼が昔追っかけてた男性アイドルに似てたから……。わたしはその程度の女よ。歪《ゆが》んだ思春期を生きて、まだ卒業できてもいない。二十八にもなって……」
「いいじゃないか、そんなこと。キスがどうとか、そんなに重要なことじゃないよ」
「重要なの! だって……ずっと誰ともしなかったのに、あんな奴に……人身売買の実行犯なんかに、唇を奪われた……。拒否したかったのに、何もできなかった。好き勝手されて……。だから悔しい。情けないんだってば。伊吹先輩になにがわかるっていうの!?」
「なにがわかるかって?」伊吹は真顔で美由紀を見つめてきた。「俺にはわかってるよ。いまおまえにとって必要なことが」
それはどういう……。
問いかけようとしたが、言葉を発することはなかった。
伊吹が唇を重ねてきたからだった。
驚きだけが胸のなかにひろがり、次の瞬間には、伊吹がどういうつもりなのか観察しようとする衝動が起きる。
だが美由紀は、その衝動を抑えた。目を閉じ、なるがままにまかせた。
千里眼なんか、いまはしまっておきたい。
相手の感情が読めたら、恋愛なんて一瞬で終わってしまうのだから。
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