午後一時半。茨城上空は濃い雨雲に覆われた。ひと雨きそうだ。
美由紀は停車したヴェイロンの助手席から降り立ち、関東鉄道龍ヶ崎駅の近くにひろがる商店街を眺め渡した。
年季の入った店舗が多く、道路は広いがクルマの往来は少なかった。歩行者もほとんど見かけない。
すなわち、このタワー駐車場を出入りするクルマを目撃する人は多くないということになる。
伊吹が運転席から這《は》いだしてきた。「ほんとにここか?」
「ええ。上町にタワー駐車場と呼べる場所はここだけのようね」
道路の向かい側、パチンコ店と薬局に挟まれたスペースに駐車場の入り口があった。エレベーターのような垂直循環式で、一台ずつリフトに乗せるかたちで収納される。
入り口の脇にある管理人小屋の窓のなかに、暇そうにしている中年のスタッフの姿が見えていた。
「美由紀。あの男が何を考えてるのかも判るのか?」
「……もちろん。表情筋が弛緩《しかん》しきって怠惰な状態にあることがわかるけど、ときどき隣のパチンコ店の自動ドアが開いて店内の音が聞こえるたびに、眼輪筋が一瞬だけ収縮する。遊びたい、パチンコをやりたいという思いが募ってるのね。その欲求の強さから、たぶん遊ぶための時間だけじゃなくてお金も足りないんでしょう」
旧式のブルーバードが徐行してきて、パーキングの入り口につけた。
管理人室からスタッフがでてくる。「置いといていいですよ。あとはこちらでやっときます」
ブルーバードの運転者はスタッフにキーを渡し、立ち去っていった。
スタッフはブルーバードに乗りこみ、発進させたが、助手席側のドアを柱にこすってしまった。
あわてたようすで降り立ったスタッフは、車体を迂回《うかい》し助手席側に走った。美由紀のいる場所からでも判別できるぐらいの大きな傷が、横一文字に刻みこまれている。
しばしスタッフは、気まずそうな顔でその傷をさすっていたが、やがて開き直ったような顔で運転席に戻り、駐車用リフトのなかにクルマを乗り入れた。
伊吹がきいた。「後で客に詫《わ》びるつもりかな?」
「いいえ。上唇が持ちあがって頬筋が左右非対称になってたから、嫌悪を感じるばかりで反省はしていない。苦悩の感情も消失したから、黙っていれば気づかれないだろうと腹をくくってる。助手席側の傷だしね」
「なんて奴だ。こんな駐車場に預けるぐらいなら、駐禁切られたほうがましだな。さっきの客にばらすぞと脅しをかけて、こっちの聞きたいことを吐かせてみるか?」
「それはよくないわ。桜川警察署で、斉藤さんがここのタワー駐車場のことを話したとき、刑事さんも一緒にいた。わたしたちがここに来る可能性もあると考えて、警察はもう駐車場の管理人に電話しているでしょう。わたしたちの顔を見たらすぐ通報するだろうし、そうでなくてもいずれパトカーが来ると思う」
「じゃあ、ぐずぐずしてられねえな」
「ええ。だから早くあの管理人を追い払って、調べものを済ませましょ」
美由紀は道路の向こう側に渡り、パチンコ店の前に立った。管理人室の窓から見えないように、そろそろと近づく。
ポケットにおさまっていたパチンコの特殊景品を取りだす。嵩原利行《たかはらとしゆき》からせしめた物だった。このパチンコ店の景品とは当然異なるだろうが、そもそも景品は不正防止のために日ごとに種類が変わるため、容易に判別はできない。ここに落ちていたら、最も近い店のものだと考えるだろう。
姿勢を低くして、駐車場の入り口に特殊景品を放り投げた。
スタッフは物音を気にしたようすで、外にでてきた。そして特殊景品に気づき、拾いあげる。辺りを見まわして、落とし主らしき姿が見えないことを悟ったらしい。また吹っ切れたような顔で、その景品を懐におさめた。
美由紀は伊吹とともに身を翻し、こちらに歩いてくるスタッフから顔を隠した。
ちらと振りかえると、スタッフは上機嫌なようすでパチンコ店の向こうにまで歩を進めていく。景品交換所に向かう気だろう。
駐車場の管理人室は無人になった。美由紀は伊吹にいった。「行きましょ」
「おう」と伊吹が歩きだした。
その後につづいて駐車場に向かった美由紀は、半開きになった管理人室のドアを入った。
事務机の上に大学ノートが重ねてある。開いてみると、毎日の車庫状況と収支の記録があった。
八月七日の記録を探す。斉藤はその日に、長年雇われていた会社を辞めてフリーになった。それまではベントレーは会社の名義で、この駐車場におさめてあった。
何冊かノートのページを繰って、やっと該当する日の記載事項が見つかった。
本日解約と赤いボールペンで書きこんである欄がある。契約者は株式会社リムネス、月極で契約していた駐車リフトの番号は14番だった。
伊吹がノートを覗《のぞ》きこんできた。「それが斉藤さんを雇ってた会社名か?」
「そう。でも、ここを見て。38番のリフトもリムネスって会社が契約してる」
「まあ、珍しいことじゃないだろ。二台ぶんの駐車スペースを契約するなんて」
「斉藤さんがそれを知ってたかどうか疑問ね」
「どういうことだ?」
美由紀は一番新しいノートを開き、きょうの日付のページを見た。
そこにはまだ株式会社リムネスの名義が残っていた。38番の契約は依然として続いている。
「伊吹先輩。38番のクルマ、出せるかしら」
「たぶんな」伊吹はドアの外にでて、制御パネルに向かった。
美由紀も管理人室を出た。伊吹がパネルの38番のボタンを押している。
タワー駐車場のリフトが重苦しい音とともに動きだす。観覧車のようにリフトが一台ずつ間口のなかを通過していった。
やがて、38番のリフトが間口に現れ、機械は停止した。
「こいつは……」と伊吹がつぶやいた。
やはり、と美由紀は思った。
リフトに揺られているのは高級外車セダン、ベントレー・アルナージだった。
伊吹がクルマに歩み寄った。「斉藤さんのと同じ車種じゃねえか」
「そう。これが漆山さんへの襲撃に使われたクルマ」
「どういうことだよ? 鑑識がタイヤ痕《こん》を調べて、一致するのは斉藤さんのクルマしかなかったわけだろ?」
「襲撃現場で発見されたのは、このクルマのタイヤ痕よ。でも斉藤さんのクルマも、タイヤの四輪それぞれの磨り減り具合はぴったり同じなの。エンジンのコンディション、部品の経年劣化、故障箇所に至るまでほとんど同じだと思う」
「なぜそんなことになる?」
「斉藤さんの雇い主は、さっきの管理人にお金でも与えて、二台のベントレーを毎日交互に出させていたのよ。月曜が14番なら、火曜は38番。水曜は14番……って具合にね」
「ああ、そうか。同じ運転手に、同じ乗客。同じルートを同じ時間に走る。それを日々交互に繰り返していれば、同じ状態のクルマが二台できあがる」
「このベントレーのナンバーは、土浦330になってる。希望ナンバーだから、四ケタの部分は二台同じにできる。ひらがな一文字だけが違ってることになるけど、そこまでは誰も気づかないわね」
「走行距離が半分だったのはそのせいか。しかし、七年間ずっとそんなことを繰り返してたってのか? なんのために?」
「当然、漆山さんを襲撃した罪を斉藤さんに被《かぶ》せるためでしょうね。斉藤さんにうまく会社を辞めてもらい、餞別《せんべつ》だといって一台を無料譲渡した。名義変更して斉藤さんの物になって以降に事件が起きたわけだから、警察も元のオーナーまでは調べない」
「計画的犯行ってわけか。すると、リムネスって会社の社長が……」
「ええ。漆山さんを襲撃し、殺害した主犯ってことね」
外から声が聞こえてきた。けしからんことだ、こんな物を持ちこむなんて。
「いや、だからさ」スタッフが後ずさりしてくるのが、外の歩道に見えた。「間違えただけだよ。ほかのパチンコ屋の景品だったんだ。ここでも打ったから勘違いしちゃって……」
「どうせ拾ったんだろ」問い詰めているのは、パチンコ店の店長クラスらしかった。「換金しようなんてとんでもない腹だ。駐車場のオーナーさんに連絡してやるからな」
「勘弁してくれよ。ここをクビになったんじゃもう働くところが……」
ふたりは駐車場の入り口付近で口論を交わしている。
美由紀はそ知らぬふりをして、その背後を通りすぎて外にでた。伊吹も歩調を合わせてきた。
駐車場から遠ざかろうとしたとき、あのブルーバードのドライバーが戻ってきた。
すれちがいざまに、伊吹が声をかけた。「助手席側のドア、ちゃんと確認したほうがいいよ」
「はあ?」とドライバーはふしぎそうな顔で振りかえった。
足ばやに歩きながら、伊吹は美由紀にたずねてきた。「リムネスって会社を調べてみるか?」
「一応ね。でも、ヤクザが隠れ蓑《みの》にしている幽霊会社なら、表面だけ調べても実態は浮かびあがってこないわ」
「なら、どうする?」
「あのベントレーの車体は埃《ほこり》をかぶってなかった。斉藤さんはもう逮捕されたから、社長さんも安心してあのクルマを使ってるみたいね」
「すると、クルマを取りにくる奴がいるってことか」
「それを待ったほうがよさそうね」と美由紀はいった。「うまくすれば会社なんかじゃなくて、犯罪のための隠れ蓑に連れていってくれるかもしれない」