嵯峨は舎利弗とともに、臨床心理士会の事務局にいた。
同僚の臨床心理士は通常業務のために出払っているが、事務局は雑然としている。検事局と警察の捜査関係者がひしめきあっているせいだ。岬美由紀の関連書類を提出することに臨床心理士会が同意して以来、ずっとこんな調子だった。たぶんこの喧騒《けんそう》は、裁判が終わるまでつづくのだろう。
検事らは美由紀がどこにいるのかとさかんに聞いてきた。嵯峨は常に言葉を濁した。いま舎利弗がオフィスで美由紀からの電話を受けていると伝えたら、彼らはきっと血相を変えるに違いない。
むろん嵯峨は、公言するつもりなど毛頭なかった。オフィスの戸口に立って、検事が来ないように見張る役を買ってでていた。
舎利弗は受話器を手にして、困惑ぎみにつぶやいていた。「リムネス……かい? そういう名前の株式会社が茨城にあるわけか。……龍ヶ崎周辺、ね。わかった。いますぐ調べてみるよ。ちょっと待ってて」
パソコンに向き直った舎利弗が、キーボードを叩《たた》いてネットを検索する。
「どうしたの?」嵯峨はきいた。
「手がかりをつかんだみたいだよ」舎利弗がいった。「ある会社の経営者が怪しいらしいんだ」
「トラブルは起こしてないかな? 所轄警察に追われるような目には……」
「さあ。ずいぶん落ち着いた声で電話してきているから、だいじょうぶじゃないかな」
そうだろうか、と嵯峨は思った。美由紀はいかなる緊張状態でも冷静でいられる女性だ。たとえ大勢の敵に囲まれていても、電話の声はふだんと変わらないだろう。そんなふうに思わせるところがある。
「あった」舎利弗が受話器に告げた。「あったよ。株式会社リムネス、本社オフィスは龍ヶ崎市内のマンションの一室だな。業種はイベント業などとなってるけど、胡散臭《うさんくさ》いね。代表取締役は仁井川章介って人だ。……そう、間違いないよ。たしかに仁井川って記してある」
「仁井川?」だしぬけに蒲生の声がした。
びくっとして嵯峨は通路を振りかえった。
戸口の外に蒲生が渋い顔をして立っていた。
「が、蒲生さん」嵯峨はあわててきいた。「何か用?」
「指定暴力団仁井川会の絡む殺しは何度も担当したことがあってね。仁井川なんていう珍しい苗字《みようじ》は、どんな騒音のなかでも真っ先に耳に飛びこんでくる」
「そりゃすごい。選択的注意集中だね。ハハ……」
蒲生は嵯峨の肩越しに舎利弗を覗《のぞ》きこんだ。「そちらの先生は電話中のようですが」
「いや、あの」舎利弗は受話器にいった。「じゃあまた電話するよ。さよなら」
電話を切ると、舎利弗は誰の目にも焦っているとわかる顔で蒲生にきいた。「なんでしょうか?」
「仁井川がどうかしたのかな」
「あ、それはまあ、そりゃその、二位が、って聞いたんですよ。順位がそのう、気になって」
「順位? なんの順位ですか? ああ、ひょっとして野球か。セ・リーグ、今年は大荒れだしね」
嵯峨はそれが蒲生の誘導尋問だと気づいていた。野球という問いかけにうなずかせてから、どのチームが好きかとか、選手の名前をいってみろなどと問い詰め、自白に持ちこむ作戦だ。
だが舎利弗は、すぐにその罠《わな》に気づいたらしく、話題を自分の知り尽くしたジャンルに引き寄せた。「円谷《つぶらや》怪獣のね、ソフビ人形の売り上げ一位は間違いなくバルタン星人なんだけど、二番目はどれかなって思って。僕はゼットンだと思ったんだけど、友達はツインテールだなんていうんですよ」
蒲生は表情を硬くした。「俺はラドンとかそのあたりを推すけどな」
「あれは違うんです、円谷英二が特技監督を務めてたけど、東宝怪獣ですから。いわゆる円谷怪獣は円谷プロ製作の作品でないと」
面食らった蒲生の顔を見たとき、嵯峨は思わず笑いそうになった。
その嵯峨を蒲生がじろりとにらみつけてきた。嵯峨は表情を凍りつかせた。
「もし」蒲生がいった。「美由紀から連絡があったら、すぐ知らせろよ」
「そりゃもちろんです」嵯峨は大きくうなずいてみせた。「そうします」
腑《ふ》に落ちない顔で蒲生はもういちど舎利弗を見やってから、通路を立ち去っていった。
嵯峨はため息をついた。
舎利弗も冷や汗をぬぐっている。「やれやれ……」
「バレなくてほっとしたよ」
「そうだね。でも……」
「なんだい?」
「気になるね」舎利弗は深刻そうにささやいた。「仁井川会……。たしかに同じ漢字だよ。このリムネスって会社の社長とね」