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千里眼184

时间: 2020-05-27    进入日语论坛
核心提示:二十四年建物のなかは古民家のような間取りで、廊下に面した和室が奥へ奥へと連なっている。どの部屋も男たちがひしめきあってい
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二十四年

建物のなかは古民家のような間取りで、廊下に面した和室が奥へ奥へと連なっている。
どの部屋も男たちがひしめきあっていた。畳に座り、銃を分解して部品を磨きながら、缶ビールをすすっている。ほとんどの男がタバコをくわえ、家じゅうに煙が充満していた。
窓はほとんどが板で塞《ふさ》がれていたが、一部は開いている。だが、外に見えるのは洞穴の内壁だった。岩肌に電線が張り巡らされて、裸電球が取り付けてある。
昼か夜かもわからない、薄暗い家屋のなか。美由紀はふたりの屈強な男に挟まれ、畳の上をひきずられていった。
朦朧《もうろう》とした意識のなかで、室内の男たちの視線が向けられるのを感じる。
こちらを見あげる男たちの顔。なんの感情も生じない者もいれば、大仰な驚きを表す者も、甲高い笑い声を発する者もいる。
「岩間《いわま》」呂律《ろれつ》のまわらない声が飛ぶ。「なんだ、その女はよ」
美由紀を抱えているふたりのうちひとりが、吐き捨てるようにいった。「フクロウの檻《おり》を嗅《か》ぎまわってやがった。仁井川さんのところに連れてく」
寝そべっていた男が冷やかすような声をあげた。「会長はそんな年増の女は好みじゃねえだろ。せいぜい十歳ぐれえまでだ」
いっせいに下品な笑い声が湧き起こる。
だが、奥の部屋から髭面《ひげづら》の太った男が現れたとき、室内は静かになった。
気まずそうな空気が漂うなかを、その太った男がずかずかと美由紀のほうに近づいてくる。
その男の片目は義眼だった。右耳から顎《あご》にかけて、かなり深手の傷を負い縫合した跡が残っている。
岩間が義眼の男にいった。「土灸《とひ》さん。たぶんこいつ、羽鳥駅で西日と嵐山が殺し損ねた女じゃねえかと」
土灸と呼ばれた男は、片目でじろりと美由紀をにらんだ。
「連れて来い」と土灸が告げた。
畳の部屋を抜け、別の廊下にでる。その突き当たりの扉を、土灸が押し開けた。美由紀は、なおも岩間たちに引きずられていった。
部屋に入ったとき、美由紀は息を呑《の》んだ。
既視感がある。それも、漠然としたものではない。
板張りの部屋は寺の本堂のように広く、がらんとしていた。床が傾いている。その傾斜がかもしだす不安定さは、はっきりと記憶に残っている。
ここにも異臭が漂っていた。散乱した生ゴミ。食糧を食い散らかした跡だった。ビールの空き缶はいたるところにあり、歩く振動で床の傾斜を転がる。
ちゃぶ台がいくつか置かれていて、紙や鉛筆が投げだしてある。数字とアルファベットがびっしり書き連ねてあった。
覚えていたとおりだ、と美由紀は思った。
わたしの記憶に最も深く刻みこまれているのは、この部屋だ。
壁沿いに、白い塀のようなものが築かれている。よく目を凝らすと、それは積みあげられたビニール袋だとわかる。白い粉の入った袋。この隠れ家の収入源。
土灸は薄暗い部屋の隅に先導していった。
その行く手から、なにやらくぐもった声が聞こえる。
やがてそれは、幼女の声だと気づいた。
声を押し殺して泣いている。
近づいたとき、あまりのおぞましさに鳥肌が立った。
暗闇にふたりの女の子が横たわっている。色違いのワンピースを着ているが、顔はよく似ていた。双子のようだ。栄養が不足し、やせ細っているという点では、鳥小屋にいた幼女たちと変わりがない。
ふたりのうちひとりは、白目を剥《む》き、口から泡を噴いていた。そしてもうひとりは、脚が血で真っ赤に染まっていた。
その血は床に流れだし、傾斜に沿って何本もの筋をつくっている。
出血が止まらないらしい。
女の子は泣きじゃくっていた。だが、声はほとんど出ていない。
理由は美由紀にも痛いほどわかった。泣き声をあげたのでは殺される。
この状況は何度も目にした。いや、わたしが当事者だった。
すなわち、少女たちはついさっき、厭《いと》わしいその狂気に満ちた行為の犠牲に晒《さら》されたのだろう。
嘔吐《おうと》感がこみあげてきた。涙がにじみでてくる。生理的な嫌悪感と、悲しみの両者が織り交ざって、耐え難い感情をつくりだす。
ふー、というため息とともに、床から立ちあがる男がいた。
白髪頭を短く刈りあげた、初老の男。いまスラックスを履いたところだった。壁に掛けたワイシャツを手にとり、羽織る。
でっぷりと張りだした腹部。さすがに年齢を感じさせる。昔はもっと引き締まっていた。
太い眉《まゆ》は以前のままだった。目つきの悪さも、鼻の低さも同様だった。歪《ゆが》んだ唇は常に半開きで、そこから覗《のぞ》く歯は、もう何本も残っていなかった。
かなり老けてはいるが、仁井川章介に間違いなかった。
仁井川はワイシャツのボタンをとめながら、岩間にきいた。「誰だ、この女」
岩間たちは、美由紀を乱暴に床に叩《たた》きつけた。
美由紀は床に突っ伏した。ひっ、という悲鳴を幼女が発した。
自分の身体に感じる痛みよりも、彼女たちの感じているであろう辛《つら》さのほうが、よほど胸にこたえる。
二十四年も前に、わたしはここで同じ目に遭った。仁井川は飽きもせずに、幼女たちを食い荒らしていた。その歪んだ性的趣味の犠牲になることを強いていた。
過去のことだと思っていた。それなのに、持続していたなんて。あれ以降も毎日のように、親を知らない幼女たちが消費されつづけていたなんて。
這《は》っていた美由紀の後頭部を、仁井川の足が踏みつけた。美由紀の顔は床に押しつけられた。
「誰だって聞いてんだ」仁井川が声を荒らげた。
「仁井川さん」岩間がいった。「さっき青陵荘でもドンパチがあったって報告が来ました。追ってたふたりとは連絡がつかなくなってますが……。羽鳥駅のことと併せて、ニュースで言ってた男女ってやつの片割れじゃないでしょうか」
「ふうん」と仁井川が足に力をこめてきた。「私服で捜査中の女性警察官ってわけか。よくもうちの舎弟に怪我を負わせてくれたな? ええ?」
痛みを堪《こら》えながら、美由紀は頭を振って仁井川の足から逃れた。
身体を起こして美由紀はいった。「なにが舎弟よ。あなたたちは暴力団じゃないわ。ただの異常者の集まりよ」
しばし沈黙があった。
次の瞬間、仁井川の平手が美由紀の頬を力いっぱい張った。
ふらついて、また床に倒れる。それほどの力があった。
頬に痺《しび》れるような激痛が走る。
仁井川が怒鳴った。「口のきき方に気をつけな。このクソアマ」
ひるむことなく美由紀は告げた。「仁井川会を破門になったくせに、その頭《かしら》を気取ってるなんてね。呆《あき》れてものも言えないわ」
「……ふうん。それを暴露すれば、舎弟どもの目が覚めるとでも思ったか? あいにくだな。俺は仁井川会の看板なんか利用しちゃいない」
「でも、羽鳥駅にいた若い人は……」
「ああ。あいつか。土灸の連れてきた若造だったな」
土灸が低い声でつぶやいた。「極道の世界に憧《あこが》れるろくでなしの類《たぐい》いだったんで……。ここでの仕事はまかせられねえんで、リムネスの事務室に詰めさせてましたが」
「そうだった」仁井川はにやりとした。「その手の若造は俺の苗字《みようじ》を聞いて仁井川会と勘違いするかもしれないが、そんなものはそいつの責任だ。俺のせいじゃねえ」
美由紀は醒《さ》めた気分でいった。「くだらないわね。使い走りって見下してた人の遺族にまで言い訳を用意してるの? 小者ね」
また仁井川の手が美由紀の頬を張った。
今度はいっそう力が籠《こ》もっていた。口のなかが切れ、血の味を感じる。
「クソアマ」仁井川が声を張りあげた。「なにを嗅《か》ぎまわってた」
「嗅ぎまわるもなにも、あなたが誰で何をしているのかぐらい、よくわかってるわよ。仁井川章介。三十代で東京駅長殺しの罪で服役、仁井川会を破門。出所後は、同じく暴力団に見放されたヤクザ風情を集めて、昔から営んでいた麻薬事業を再開する。それもこんな山奥に潜んで、粗末なヘロインを仕入れては、高純度と偽って素人相手に荒稼ぎなんてね。三流の組が日銭を稼ぐ常套《じようとう》手段だわ」
仁井川は、子分たちを眺め渡しながら笑い声をあげた。
それから美由紀に目を戻し、真顔になって仁井川は告げてきた。「調子に乗るのもいい加減にしやがれ。俺たちの商売に口だす気か」
「東京駅長だった漆山さんの殺害に失敗して、また最近になって秤《はかり》工場に勤めていたところを見つけて、殺した。どうして?」
「……やっぱり警察《サツ》の犬か? どうせ理解できないだろうがな、教えてやる。漆山はアラヒマ=ガスに商品を卸す係だったのさ」
「相模原団地の人身売買グループに、商品となる幼い子供たちを調達する係ってわけ」
かすかな驚きのいろを漂わせて、仁井川がきいた。「なぜ知ってる?」
「さあね。漆山さんはどうして駅長から秤工場に転職したっていうの?」
「アラヒマ=ガスの商品調達係が就く表の仕事に従事してたってだけだ。JR東日本の駅長は、一定の区間内の貨物車両の中身について管理責任を負っている。言い換えれば、貨物列車のなかに何を積むかは駅長の権限っていうわけだ。それに、足尾電子秤工業は航空貨物の総重量チェッカーを開発してる。これをいじることができれば、貨物の重さもごまかすことができる」
「つまり列車や飛行機で、みなしごをこっそり運ぶのにちょうどいいってわけね。でもどうして、あなたが漆山さんを殺す必要がある?」
「奴らは、俺には商品を買わせねえと言ってきた。幼女を食い物にして、ポイポイとそのへんに捨ててくるような客は、危険だから付き合いたくねえってよ」
「だからアラヒマ=ガスの人身売買に対し、営業妨害になることをしたわけ」
「営業妨害どころか、組織そのものをぶっ潰《つぶ》してやる。あいつらは俺に逆らいやがった。黙ってガキを差しだしてりゃいいんだ」
「そう思ってたのに、駅長がふたりいるのも知らず、殺したのが別の人だったなんてね。頭悪すぎない?」
仁井川は表情を硬くした。
だが、美由紀の挑発に対して燃えあがった仁井川の怒りは、美由紀には向けられなかった。仁井川は幼女のほうに歩いていくと、髪をわしづかみにして引き立たせた。
幼女が苦痛の叫びをあげた。
「やめて!」美由紀はあわてていった。
「サツはな」と仁井川は幼女の頭部を揺さぶった。「幼女買春についても俺を取り調べたが、結局そこでは無罪になった。なぜかわかるか? 警察の嘱託医とかいうアホが、四歳児には性交は無理だと報告書を出しやがった。未発達だから入るわけねえってよ。おかげでお咎《とが》めなしってわけだ! 馬鹿丸出しの警察がよ、俺を無罪にしやがった!」
仁井川が笑い声をあげると、土灸や岩間たちも同調した。
男たちの品位に欠ける笑い声が響くなか、幼女は痛みを堪えながら声を殺して泣いている。
美由紀の思いは、その幼女の心に重なっていた。
髪をつかまれた痛みが伝わってくるようだ。
「しかしよ」仁井川は上機嫌そうに声を張った。「四歳のガキとやれねえなんて、嘱託医のアホはどうやって結論づけたってんだ。試したのかってんだよな。やってみりゃわかるんだよ。掘ってやりゃいいんだ、まだ穴が深くねえならな」
反吐《へど》がでる。
「このクズ」美由紀は吐き捨てた。「いっぺん死んだらどうなの!」
室内はしんと静まりかえった。
仁井川は、幼女の髪を手離した。幼女は床に崩れ落ち、うずくまった。
「おい」仁井川がにらみつけてきた。「おまえ、立場わかってんのか」
いまは闘争心だけを燃えあがらせたい。そう自分に言い聞かせても、涙がにじみでてくる。
「何が立場よ」美由紀は怒りとともにいった。「わたしにはわかってるわ。警察の嘱託医が誤魔化されても、わたしは騙《だま》せない。あなたは二十四年前、駅長殺しで逮捕される前から、ここで同じことを繰り返してた。わたしはもう忘れたりはしない」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、仁井川は美由紀を見つめた。「なんだと……?」
美由紀は、ずきずきと疼《うず》く頭痛に耐えていた。
いまや記憶はほとんど想起されている。脳の回路が絶たれて思いだせないのは、この男とのおぞましい行為そのものだけだった。
友里の手術は実に的確だった。わたしを不安定にするすべての要因となっている記憶を、ピンポイントで排除した。
そうであるがゆえに、いまのわたしはまともな思考を身につけている。善悪の判断もできる。
そのわたしの目で見ても、仁井川章介という男は許すに値しない。こんな男が生き永らえる道理が、この世にあるはずがない。
「ああ」仁井川はぽかんと大きな口を開けた。「ひょっとして、おまえ……。二十四年前にここにいたとか? 俺とやったわけか?」
「……思いだしたとでもいうの?」
「いいや。ムショ暮らしのあいだを除いても、何百人、何千人と食ってるからな。ガキどもは使い捨てだ。死にかけたら捨ててくる。その後はどうなったか知ったことじゃねえ」
「子供たちのことを考えたことがあるの? 物心ついてすぐ、地獄を味わった。精神面の形成、発育に最も影響を与える時期に、人生を間違った方向に捻《ね》じ曲げてしまった」
「おまえはそのひとりってわけか?」仁井川は、鼻息がかかるほど顔を近づけてきた。「よく見りゃ美人だな。ガキのころの面影もあるのかもな。大人の女はそんなに興味もねえが、やってみれば思いだすかもな」
仁井川はいきなり美由紀を押し倒し、馬乗りになってきた。
美由紀は怒りとともに拳《こぶし》を繰りだし、仁井川の顎《あご》を殴った。
勢いで後方に飛んだ仁井川が尻餅《しりもち》をつく。顎をさすりながら起きあがった。
「岩間」と仁井川がいった。「フクロウの檻《おり》に行け。このクソアマが声をあげるのが聞こえたら、そのたびにガキをひとりずつ撃ち殺せ」
「わかりやした」岩間が自動小銃を携えて、部屋をでていく。
焦燥感が美由紀の胸にひろがった。
大勢の幼女が人質になっている。しかもこの男たちは、その命をまったく重んじることがない……。
仁井川が飛びかかってきて、美由紀の首を絞めあげた。
息ができない。美由紀はむせながら、仁井川の両手から逃れようともがいた。
「俺は静かなのが好きでな」仁井川がつぶやいた。「おとなしくしてたほうが身のためだ」
ふたたび仁井川の顔が近づいてきたとき、失神しそうなほどの嫌悪を覚えた。
「やめてよ」美由紀は思わず声を絞りだした。「やめて!」
そのとき、外で銃声がした。
はっとして、美由紀は息を呑《の》んだ。
銃声はあきらかに、家の外からだった。方角も、鳥小屋のほうだ。
「おっと」仁井川がにやりとした。「まずひとり」
……酷《ひど》い。
美由紀は、抵抗を放棄せざるをえなかった。
目に涙が溢《あふ》れ、視界がぼやける。怒りと悲しみで、身体の震えがとまらなくなった。
脳裏に浮かぶのは、友里佐知子が書き遺した日記の一ページだった。十五歳のころ、友里は同じ屈辱を味わった。
 またしても猿以下の生き物に愚弄《ぐろう》される。友里は溢れる涙にぼやけていく視界だけを眺めていた。
肉体的には、わたしは平気だ、六歳から身体を売って生きてきたのだから。
でも、どうして希望はいつも閉ざされてしまうのだろう。結局、力に圧倒された。野蛮な暴力に負けた。
大人は、男は、肉体的な強さにまかせてわたしを圧倒しようとする。凶暴なだけの低脳な猿以下の生き物どもが世を蹂躙《じゆうりん》し、暴力でカタをつけようとする。
連中が暴力に訴えようとするとき、わたしは抗《あらが》う手を持たない。
なるにまかせるしかない。そして行く末は、いつも失意と敗北と決まっている。
 抗う手を持たない。なるにまかせるしかない……。
美由紀は唇を噛《か》み、目を閉じた。
だが、不快きわまりない仁井川の荒い吐息が、ふいにぴたりとやんだ。
別の男の声が低く告げた。「誰かと思えば、仁井川のクビ切られた長男かよ。山奥の洞穴に潜んでるとはな。まさしく前時代の遺物だな」
 目を開いたとき、美由紀は、友里と同じ境遇にはないことを悟った。
わたしは、信じるに足る男性がこの世に存在するのを知っている。
警視庁捜査一課、蒲生誠はナンブ三十八口径を仁井川の額に突きつけていた。
「てめえ」土灸が襲いかかろうと身構えた。
「動くな、番犬」蒲生が怒鳴った。「飼い主の頭ぶちぬくぞ!」
仁井川はそろそろと両手をあげながらいった。「物騒な警官がいたもんだな。本気で人を殺すつもりかよ」
「ああ。いましがた鳥カゴの前にいた男なら心臓撃ち抜いてやったぜ? 日本国内で自動小銃ぶらさげてて、しかもカゴのなかの子供たちを狙い澄ましてやがったんでな。拳銃《けんじゆう》の正当な使用ってやつだ。おかげで子供は無事だった」
「とんでもない奴だ。おまえのせいで死んだ人間がいるんだぞ。良心は咎めないのかよ」
「いままで三人射殺してるからな。悪い奴ばかりだったが、最初の夜は寝つけなかった。ふたりめからはぐっすりだ。おめえをぶっ殺しても、こりゃよく眠れるだろうよ」
「……どうやってここを突きとめた」
「知れたことよ。リムネスとかいう幽霊会社に踏みこんで、関係書類を押収してやった」
「令状は出ねえはずだ」
「地元でいろいろ手をまわしてるからか? 所轄はおめえに腰が引けてるかもしれねえが、あいにく、警視庁にとっちゃおめえごときザコ同然でな。仁井川会の親分も感謝してくれるだろうよ、馬鹿息子をぶっ殺してくれてありがとう、ってな」
仁井川は表情を凍りつかせた。
だが、その直後、仁井川がとった行動は予想外のものだった。
「おい、絹田《きぬた》、長嶺《ながみね》!」仁井川は大声でわめいた。「誰でもいい、このデカ殺せ!」
あわただしい足音がして、すぐに扉が開いた。男たちが銃を片手に飛びこんでくる。
「この野郎」と踏みこんだ男が怒鳴った。「なにしてやが……」
銃声が轟《とどろ》いた。
男たちは、蒲生に銃を突きつけられた仁井川に背を向け、部屋から駆けだしていく。
仁井川があわてたようすで呼びかけた。「おい、何してんだ! 早く助けろ!」
しかし、仁井川の子分たちはそれどころではなさそうだった。
催涙弾が投げこまれ、家屋のなかに煙が充満しだした。そのおぼろげな視界の向こうに、警視庁の特殊急襲部隊《SAT》のシルエットがうごめいてみえる。
蒲生が仁井川にいった。「独りで来ると思ったかよ。馬鹿め」
けたたましい発砲音が鳴り響いた。つづいて、銃撃音が家屋のあちこちでこだました。
仁井川の子分たちが応戦したらしい。たちまち銃火が連続して閃《ひらめ》き、小爆発が起きて天井は大きく傾きだした。
梁《はり》や柱が崩れ落ちてくる。蒲生が飛びのいたとき、仁井川が跳ね起きて銃口から逃れた。
美由紀も起きあがったが、幼女のひとりが床に寝たままなのに気づいた。
すぐに飛びつき、抱きかかえた。倒れてくる土壁に背を向け、幼女をかばった。
抜けた壁の向こう、洞穴のなかでも銃撃戦が展開している。いまやこの木造家屋の周りは戦場と化していた。
土灸の自動小銃が美由紀を狙った。一瞬、足がすくんだそのとき、蒲生が土灸を撃った。土灸は弾《はじ》け飛ぶように転倒し、動かなくなった。
催涙弾と埃《ほこり》のせいで視界がきかなくなっている。そのなかに必死で目を凝らすと、仁井川の姿が見えた。
仁井川はもうひとりの幼女を抱きあげると、部屋の奥にあった扉を押し開け、外にでようとしている。
「蒲生さん」美由紀は声を張りあげた。「仁井川が逃げる。女の子を連れてる!」
室内に突入してきたSATのひとりに、美由紀は幼女を預けた。あとをお願い、そう告げて、戸口へと走った。
ちょうど蒲生が外にでて、美由紀はそれにつづいた。
そこは、洞穴の奥だった。家の正面が外に面していたため、ここはちょうど逆側だ。洞窟《どうくつ》は等間隔に設置された裸電球のおかげで、内部を見通せる。岩壁に囲まれた空洞が、延々と前方につづいていた。
銃撃を受け、家の外壁が破片となって飛び散った。蒲生が地面に伏せ、美由紀は転がって岩の陰に身を潜めた。
洞窟の内部のそこかしこに敵がいた。なかでも、極めて近い場所に銃座のごとく岩肌に身を這《は》わせ、陣取っている男がいる。その男の銃撃のせいで、洞穴の奥へと逃げていく仁井川の背が見えているというのに、追跡することさえできない。
じれったさを噛みしめていたそのとき、突然、その男は銃声とともにのけぞった。
さらに周囲の敵が次々と撃ち倒され、暗闇のなかに伏していく。
味方の援護か。だが、どこからだろう。
美由紀は頭上に目を向けた。そのとき、屋根を腹這いに滑り降りてくる伊吹直哉が見えた。その体勢のまま、伊吹は敵に向けて自動小銃を掃射している。
壁面の敵をなぎ倒して、伊吹は屋根から飛び降りてくると、美由紀のすぐ近くに着地した。
「伊吹先輩」美由紀は喜びとともにいった。
「騒がしかったんで来てみた」伊吹は美由紀を見て、悪戯《いたずら》っぽく片方の眉《まゆ》を吊《つ》りあげた。「フクロウだったのかよ? 俺の最初の判断で正解じゃねえか」
「ごめんなさい……。でも、ありがとう。助けに来てくれて」
蒲生が苦い顔をした。「先に礼をいうべき相手がいると思うけどな」
「あ、もちろん蒲生さんも。ついでだけど、もうひとつ頼める?」
「相変わらず人使いが荒いな。今度は何だ?」
「援護して」そういって美由紀は飛びだしていった。
仁井川の姿は、すでに洞穴の奥に消えていた。だが、逃がしはしない。人質の幼女を見殺しになどしない。過去のわたしと、同じ境遇の幼女を。
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