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イブのおくれ毛04

时间: 2020-06-09    进入日语论坛
核心提示:籍 の 話「仁義なき戦い」といわれる神戸市長戦がいまたけなわで、街中、耳も聾《ろう》せんばかりのすさまじさ、おちおち仕事
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籍 の 話

「仁義なき戦い」といわれる神戸市長戦がいまたけなわで、街中、耳も聾《ろう》せんばかりのすさまじさ、おちおち仕事などしていられない。私の家は——というのはつまり亭主の家は、神戸の下町である。新開地、福原にちかい|庶民専門街《ヽヽヽヽヽ》だ(三ノ宮駅前のパチンコ店に、庶民専門店なる看板を掲げた店があり、私は前を通るとき客人に必ずそれを指示して自慢する。庶民専門店、なんてあほかいな、庶民のほかパチンコなんか誰がするかいな、天皇サンがパチンコしはるか、考えてみい、というのだ。神戸、大阪の商売人のアタマの構造って、ほんとにかわってる)。
ところで、私が庶民専門街にすんでいようといまいと、選挙で煩わされるのはかわらなかったろうと思われるのは、こんどの市長選のように、保守か革新か二者択一、ということになると、「支援する文化人」ということで、ひっぱり出される可能性が大きい。
電話がひっきりなしにかかる。
支援団体で講演せよ、というのから支持声明の署名からポスターの名前入れ、相手も私を知ってるから、保守がたのみにくることは一ペんもない。革新派だ。私は昔から、投票というと、革新系の名前しか書いたことがない。
この場合、革新系は、宮崎サンである。歌の巧い人でないと、神戸市長になれない。
私は前回の市長選の時には陳舜臣氏と組んで応援演説をして、その結果、宮崎サンが市長になった(と、私個人は信じてるわけだ)。今度もムロン、宮崎サンに私は一票を入れるつもりだ。だからきっと、宮崎サンは当選するであろう(と、私個人は信じてるわけだ)。しかし、宮崎サン支持と、ポスターに私の名前を入れるのは性質がちがう。
ナゼカ、私は自信がない。私が「私は宮崎を支援する。者どもつづけ!」とサインしたら、せっかく入るべき予定であった票が浮き足立ってヨソヘ流れそうな気がする。
私は私の名前に、影響力、強制力があるとは|つゆ《ヽヽ》考えられない。
それよりも、何となく、私は自分自身に対して恥ずかしい感じが抜けない。昔のサムライがわが名と家名、主名、藩名を大事にしたような、そういうものを、私の名に感じられない。自分で感じないものを、他人さまが感じられるはずはないと思う。
忸怩《じくじ》という言葉は、こういうときに使うのではないか。
かえりみてやましい、穴があったら入りたい。たえず、そういう気がしている。
だから、電話が、せきこんだ調子でかかる、
「宮崎サン支持のアッピールに名前出して下さい!」
といわれると、私は、
「かんにんして、かんにんして!」
と叫び、トイレに逃げこんで、「考える人」の姿勢で、思うことはただ一つ、
(紅旗|征戎《せいじゆう》わがことにあらず!)
ということである、しかしべつに私は、定家みたいに何も見栄を張ったり粋がったり、してるわけじゃないのだ。
私の名を自分で見るとき、私が何をしてきたかを考えちゃう。オマエは原稿のしめきりにいつもおくれ、編集者諸氏・諸嬢をキリキリ舞いさせ、さしえの先生を嘆かせ、印刷所の人に舌打ちさせてきたではないか、とか、自分が腹立ったときは家族に八つ当りしてモテアマシ者になったではないか、とか、お酒を飲みすぎてひっくり返って介抱する男たちの鼻つまみになったではないか、とか、もうとうてい、生きていられないような恥の連想が次から次へと湧く。
そういう私が、どうして、
「私は宮崎サンを支援します。田辺聖子」
などと人さまの前に名をさらすことができるのだ。やるせない、恥ずかしい、私には身も世もあらぬ感じ。私にとっては、投票日当日、こっそりと投票にゆき、開票結果をひとり心いためて聞き、当選するとわが家の片隅でひとり静かに祝盃をあげるという、そういうのが似合ってる。
とてものことに、当選した宮崎サンを中にバンザイの写真をとったり、ダルマの目を点じようとする筆に、墨をつけて渡したりする役は向いてない。原稿のしめきりも守れないような人間は、大きな顔して人さまの前へまかり出るもんじゃない。
ところで、私はこの頃、そのことから考えたのだが、結婚して籍を入れる、それをまだしてない。結婚式もお粗末ながらあげました。みんな(といっても身内だけだけど)をあつめて会食をして披露もいたしましたね。しかし、籍はそのままで、これは一つは私が忙しくて手が廻らないのと、一つは、私の本籍のある区役所が、どこかわからない。電話帖を調べて聞けばわかるだろうが(いや、どの区役所かはむろんわかってる。その所在地を知らないのだ)、中々その時間がない(そういううちに八年ばかりたってしまった)。
また一つには、私の母が太っぱら婆さんで、どうせ別れるんやから、戸籍をわざわざ汚す手間をかけるまでもないやろ、などという。また一つには、これが、さっきの話であるが、何となく気恥ずかしい。
何の何子が何某の妻になるという、そういうリッパな女ではない、という気が、たえず私にはある。
桐島洋子さんは、敬愛する男性を得られて、私もひそかに慶賀に堪えない所であるが、入籍はしていられない。
「儀式とか紙切れ一枚とかに意味をもたせるのは、おかしいわ。そんなものがなくってもわたしは人を愛せます。女にとって結婚が主婦業への就職であるなら、それは一種の契約だから、籍を入れることも大切でしょう。しかし、わたしはちがう」(「週刊朝日」昭和48年10月19日号)
この桐島さんの見識と識見は(同じことか?)りっぱである。
しかし私のは、ただ単に、懶惰《らんだ》と、一種の気恥ずかしさのためである。しかしこの、気恥ずかしさを、人に説明することはむつかしい。
折も折とて、私にとっては「真砂町の先生」ともいうべきカモカのおっちゃんが、
「あーそびーましょ」
と酒を提げてやってきた。
「ね、おっちゃん、結婚するとやはり籍は入れんとあかんもんかしら?」
おっちゃん、酒の燗に心をとられて上のそら、
「籍なんか入れんでも、床《とこ》へ入れとったらええのんとちゃいますか?」
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