男と女は、なぜ結婚するのだろうか。ことに、物書きの女は、なぜ結婚するのだろうか。
自分で食えりゃ、結婚して、えらい目をみることもなかろうじゃないか。
そう疑っていられる、大方《おおかた》の向きも多いことであろうと思う。
私の場合は、一にも二にも、自由を得るためである。私は未婚でいると、不自由でたまらんかったのである。
私が何か、ちょいと色っぽく書くとしますね、すると世の男は、
「未婚のくせにエロすぎる」
「男を知らんとは、いわせまへん」
などと口々にいいたて、わずらわしくてたまらない。いや、そう思ってるのではなかろうかと私は気を廻す、それがうっとうしくなったのだ。だから亭主をもった。日本の社会は(というよりは男は)幼稚で子供っぽい所があり、女まで子供っぽく扱う。
女のオトナ、というものがいることをみとめようとしない。
未婚のヒトリモノ、なんていうと、陰で何をいわれてるかしれない。いや、いっているのではなかろうかと、私は気を廻すのだ。
更にいえば、一等よろしいのは、結婚しました、男と女のことも書けますわよ、とお披露目しておいて、手のかかる亭主と死別・生別し、自由に仕事できる立場になった、未亡人・離婚者である。女の物書きは、未亡人・離婚者が一ばん安定した条件である。
だから、私もソロソロ、そういう条件になるべく心がけようと思っている。
ただ亭主もちのいいところは、男の知人友人とつきあうのに便利で自由なことだ。
なぜそれがわかったかというと、同居してからわかった。私は結婚後、一、二年は別居していた。今も、籍は入れてないが、住民登録にはちゃんと、××某の妻、として記載されている。ウソと思う方は、神戸市兵庫区役所へいって調べてみられよ。
ただし「妻」のうしろにカッコつきで「未届《みとどけ》」となっていて、これが面白い。
当今、役所関係の書類では、内縁とはいわず「未届」という。私は未届け妻である。行く末までは見届けられないから、「未届」にした(シヤレにもならない)。
ところで未届けにしろ、役場の住民登録で亭主と住所を共にしたのはごく最近だ。それまでは、同居しても、住民票は別のところにあった。
更にそれまでは、別居していたのだ。各々自分の家に住み、第三の家へ双方、あつまって会合をもち、会談をし、条約をむすび、外交折衝をしては、また別々の家へ帰っていた。つまり第三の家は中立国の大使館みたいなものであった。
そのうち、亭主の家で葬式や何かと取込みがあり、ずるずるに同居した。かつ、桐島洋子さんとちがう所は、女の子連れと独りもの男は別居結婚でも通い婚でもいけるが、男の子連れと女の独りものは、別居が成立しにくい。
男が疲れて、女の同居を求め、あるいは乞うのが、おきまりのコースである。
だから私も、「乞われて」といいたいが、ずるずるに、小さな町医者の裏部屋に住みついた。編集者が訪問してきて、私が医院に間借りをしていると信じ、
「ハハア、ここから医院ですね、これで、月なんぼとりますか?」
と、廊下の向うの診察室をのぞきながら聞いたりしていた。
また障子のガラス戸がわれたので頼みにいくと、やってきたガラス屋、私の部屋をのぞき、
「あ、看護婦さんの部屋だっか」
と障子にはめこんでいた。未届け妻、というものは、こういうものである。
まあ、未届け妻でも内縁妻でもよい、亭主もちで、しかも同居しているといい所は、男の友人があそびに来やすいらしいことだ。
未婚の独りものの女の所へ足しげく通って、洒を飲むわけには、まいらないところがある。
これはあながち、世間の目を気にする、思惑がある、というものではなく、安物にせよ、亭主がいると友人の男の肩の荷がかるくなることにもよろう。寄りくる男、無責任になれるのだ。
かりに未婚の、ヒトリモノの女などに、旅行しよう、などともちかけたら、冗談とわかっていても、女はせっぱつまった声が出て、
「考えとくわ」
と重々しい返事をする、顔は顔面神経痛になやむ人のようになる。
しかし、亭主もちだと、これは、
「うん、いこういこう!」
と叫べる。無責任には無責任で答え、男も気楽だろうが、女もごく気楽だ。
私が、亭主もち、同居になって、真の自由を手に入れた、というのはここである。
第一、カモカのおっちゃん酒提げて、やってきましたおせいさん、なぞというのも、私が亭主と同居してる女だからである。いいたい放題いって酒を飲み、おそくまで尻を据えているのも、未届けにしろ、私が人妻だからである。
更にいうと私は、小松左京サンと、いつか巡礼に出る約束がある。菅笠に「同行三人」と書くつもりであるが、むろん、三人めは、私の亭主でもなく小松左京チャンの奥さんでもなく、お大師さんである。
また野坂昭如サンは心中のときは私をよぶといっている。それは心中の相手によぶのか、はたまた、三島由紀夫氏が、自決にあたり、記録者としてジャーナリストたちをよんだごとく、心中事件の記録係りとしてよぶのか、そのへんは知らん。知らんが、いろいろ、およびがかかる。それは亭主もちだからである。
もし私が未婚のヒトリ者だとする。そうすると男の知人友人、みなハレモノにさわるように遠巻きにして、もはや酒を飲もうともいってくれなければ、巡礼にも心中にもさそってくれないだろう。亭主もちだと思うから、冗談もうちとけていえるにちがいない。
カモカのおっちゃんに私はいう。
「かくて女の物書きが結婚するのは、真の、自由を手に入れんがためである」
「そうかなあ。おせいさんはともかく、旦那にしたら貝殻|節《ぶし》の心境とちゃうかいなあ」
と、おっちゃんはにがにがしげにいった。
「唄にありまっしゃろ、�賀露《かろ》の沖から貝殻が招く、嬶《かか》よママ炊け、出にゃならぬ�——この、嬶よママ炊け、出にゃならぬ、というのが男が女房《よめはん》もつ一ばんの理由。つべこべいわんと、人の女房たるもの、ママ炊いて男を仕事に出しとったらええねん」