郷ひろみがかわいいという中年女性が多いそうである。私も中年女であるが、あのひろみ君は、かわいい顔立ちをしているものの、「かわいい男」というわけにはまいらないから、私にとって縁なき衆生である。赤ん坊のかわいいのを見るような感じで、小学唱歌のような歌をうたっているのを、お利巧さんお利巧さんというところである。郷ひろみの脚がどうの、野口五郎の頸がどうの、ジュリーの肩がどうのといって、しびれている中年婦人の傾倒は、私には何べん説明されてもわからないところ。
これは思うに、わが家に同じ年ごろの息子がいて、行住坐臥、私の叱言《こごと》のタネであり、私にとってこの年ごろの男の子は、幼稚園に毛のはえた程度で、とうてい男と見なしにくいからではないか。息子にまがう年頃の男の子の腰つきや肩がいかに恰好よくても、私にとっては、
「風呂にはいったの、何日、髪洗ってないんです! 洗わないと押えつけて丸坊主にするよ!」
「いいかげんに起きなさい、もう昼よ!」
という対象にしか捉えられぬ。年若い青年を異性とみとめられないのは、私にとってたいへん不幸である。若い子にキャーキャーと血道をあげる友人のうばざくら連を見ると、私は何だかソンをした気がする。
しかし、何にせよ、私がかわいいと思う対象、赤ん坊や少年少女《こども》はもう、たくさんだ。ウチにはコドモは馬にくわせるほど、どっさり、いるのだから。
やはり、「かわいい男」というのに、ぶちあたりたいですね。これはいくらたくさんいてもいい。
「かわいい男、というのは、どんなんをいうのでっしゃろ?」
カモカのおっちゃんは、いそいで聞いた。早いとこ自分も、その極意を体得して、女たちにかわいがられたいという魂胆であるらしく見えた。
「まあ、正直な男でしょうね。率直なこという男ね。やさしいだけの男はダメです」
「ムム、正直」
「それから、頑固」
なんで頑固がいいかというと、この間、私はものすごくかわいい男と思ったのは、石川達三センセイである。
センセイは、某誌に、ご自分の日録を発表していられる。これが中々人気があり、延々三年以上つづけていられるようだ。なぜ人気があるかというと、社会、政治、風俗、芸術、文壇に対して、ズケズケとワルクチをいって憚《はばか》らぬところにあるらしい。しかも現代の世相、七十歳の剛直|不羈《ふき》のセンセイの信条に逆らうことのみ多く、ことごとにセンセイは怒りを発し、腹を立て、毒舌を吐かずにいられないのである。
この間の三十九回をよんでいると、センセイは四十年来のホームドクターともいい合いする。医者は空腹時にいきなり酸っぱい果物などを食べるのは良くないといい、センセイは何をバカなことをいうかと「激論」になった。猿や兎や猪など、腹がへったら果物を食べる。それで猿や猪が胃病になった話は聞いたことがない、胃袋なんぞ野蛮な臓器だという。医者は憤然とするがセンセイは胃袋問答は自分が勝ちだと思う。
また、高校生の若い娘が突然、電話でアンケートを求めてくる。センセイはその非礼を諄々《じゆんじゆん》とさとす。私などからみるとそんな数言を費やすあいだにアンケートに答えてやればいいと思うが、センセイにとってはそれはスジが通らぬ。センセイの訓戒に娘は、「ハイわかりました」といちいちいう。
センセイは、(何でもわかってるくせに、自分の無礼がわかっとらん、現代の若い人にその感覚が欠落しとる)と思う。それはなぜか。センセイは考える。しかし「どうもはっきり解らない」——このへん、よんでてふき出してしまう。どうもかわいい男である。
郵便局から、年賀郵便を、暮れの内に配達してもよいかどうか問い合わせてくる——センセイは沈思し承諾する。
「大晦日も元日も、同じ一日である。呼び名がちがうだけだ」
またセンセイは元旦の新聞で目を引く記事を発見する。「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」という百人一首の式子《しきし》内親王の歌につき、田辺聖子氏が解説しているのだが、「日本人の恋唄として最高クラス」とほめているのはさておき、「弱りもぞする」は「|よあり《ヽヽヽ》もぞする」ではないかと、いろいろ考察する。さっそくセンセイは市販の歌留多の読み札を調べる。
「よわり」になっている。しかし信じられぬ。
更に「念のために」山岸徳平監修の註釈本を見る。これも「弱り」だが、ここでは田辺氏の解釈とまるで違う。「なお不安」になり、センセイは翌日、「専門的な研究家」である竹西寛子氏に電話で聞いてみる。竹西氏も「弱り」だという。そんなハズはない。
センセイは「更にしつこく」歌人・五島茂氏に電話をかけ、「美代子夫人に解説を求めたが」やはり「弱りもぞする」が正しいとされる。どうも釈然としない。
翌日、またもや「わざわざ自由ヶ丘の二軒の本屋を廻ってみる」。これも「弱り」ばかり、この上は国学院大学教授・角川源義博士にしらべてもらうか、天理図書館にたのんで古い文献をしらべてもらおうと思う。
さらに三日後、古典文学の研究家・塚本邦雄氏に「人を介して教えを乞うたところ」、やはり「弱り」と教えられる。しかしこの歌は良い歌ではないといわれ、センセイは納得、つまらん歌だと改めて思う。さらに五日後、久保田正文氏から古い写本の資料を送ってもらった。みな「よわり」である。ここに於て先生は不本意ながら、これにて「一件落着」とする。
その頑固ぶりと執念ぶりがじつにユーモラスでよんでておかしくてかわいらしくて、センセイがムキになって空振りすればするほどかわいらしくてたまらないのである。近ごろこんな、かわいい男ははじめてである。石川センセイ、だいすき。
しかしカモカのおっちゃんは憮然として、
「やはり何ですな、男も、かわいくなる頃にゃ、すでに七十なんですなあ」