うたたねをしていると新聞社から電話がかかってきた。金、金、金の選挙について、何か寸鉄、人を刺す警句をいってほしいという趣旨であるらしい。尤も向うは、
「金権選挙の取材をいろいろしましたので、そのシメククリに……」
というふうないい廻しであったと思う。
それで、「シメククリ」という言葉が、私と、飲みにきたカモカのおっちゃんとのハヤリコトバになった。
私の思うに、警句もシメククリのうちには、ちがいない。
しかし、シメククリ専門の、シメククリ屋が、この世にいるのと同じく、警句屋というのもいるのだ。
これは殊更なる才能の一つであって、とうてい、誰にもかれにもいえるというものではない。
私に最も欠けたる才能の一つである。では何かほかにあるかというと、収拾つかないが、この方面の才能が最も欠如していることは本人が一ばんよく知っている。
このシメククリということは大切なことではあるが、ある種のモノゴトやある種の人間にとっては、べつになくても生きてゆけるものである。私のような人間には、シメククリがなくても生きてゆけるのだ。そうしてある種の小説には、シメククリは要らない。そういう内幕がわかってみれば、私にシメククリの言葉など、聞きにくるはずはないのであるが。私の書くものは、どうも、帯ひろはだかというか、着流しであるような気がされる。そんな人間に選挙のシメククリがいえようはずがない。
「タカガ物書きにきくこと、ないでしょ」
と私がいい、また、「タカガ」が、私とおっちゃんの間のハヤリコトバになった。
「タカガ、というコトバは好きやなあ」
とおっちゃん。
「そういう言葉はもっと濫用すべきですぞ」
「でも、タカガというのは、たいへんな意味をもつそうですよ」
と私。
「婦人雑誌を見ていたら、夫婦ゲンカのコツ、というくだりで、絶対口にしてはならないコトバは、タカガだそうです。奥さんがタカガ、サラリーマンのくせに、タカガ、ヒラ社員のくせに、とひとこと口をすべらしたために破婚のうきめをみた例が、たくさん紹介されています」
「まあ、そういう場合も、ないではないであろうが」
とおっちゃんは首かしげつつ、
「タカガいうたら、僕などは、世の中、かえって丸う納まってええのんちがうか、と思いますがなあ」
「たとえば」
「名刺に刷るのですわ。肩書の上に、オール日本、一億人の人がみんなタカガをつける」
このカモカのおっちゃんのヘンなところは、いつも何かかんか、けったいなアイデアをもっている所である。
そうしてそれは、たいていの場合、非実用性であるところに特色がある。
「肩書にタカガをつけると、どうなりますか」
「タカガ総理大臣、田中角栄」
「フーム」
「タカガ大学教授、何のなにがし」
「いひいひいひ」(と、私は、筒井康隆風に笑った)
「タカガ代議士、何某」
「タカガ社長、っていうのもいいね」
「あたりき。タカガ弁護士、ダレソレ。タカガ医学博士、何ノ何ベエ」
「タカガ、カモカのおっちゃん、というのはできますか」
「いや、これは肩書につけるもので、固有名詞ではおまへん。タカガ作家、などという風に使う。
しかし往々、中には、固有名詞がそのまま肩書と同じ意味と重さをもつときもある」
「タカガ、夏目漱石、とか」
「そうそう」
「タカガ男、というのはあるでしょうか」
「しかし、名刺の肩書に男と入れるわけにはいかん」
「タカガとつけるのを、法律で規制しろとおっちゃんはいうの?」
「そんなことをすると、また、タカガ法律といわれる。 つけたい人はつけたらよろし。そうして、いつもいつも、じーっと、タカガという字を見てる。くり返し心の中で、タカガ社長、とか、タカガ医者、とか、タカガ物書き、タカガ代議士などと、かみしめてわが身にいい聞かす」
「タカガ東大生、なんてのもいいね」
「それはよろしいが、タカガ、ルンペンというのはどうかな」
「この頃のルンペンは威張ってるから、いいかもしれない」
互いに「初めまして」と挨拶を交す。名刺を交換する。片や「タカガ物書き」、片や「タカガ編集者」。互いの相手の名刺に見入り、すると、身構えもていさいも溶けてなくなる。
タカガ人間、というのだけ、あとへ残るのである。
肩書は必要なものではあるが、それは「タカガ」と、肩書の肩書をつけた上で、という条件があるそうだ。
だから、肩書のない人は、「タカガ」も要らぬことが多い、という。つまり一般サラリーマンとか、一般OLとか、煙草屋、ソバ屋、さんぱつ屋、パチンコ屋……。
「タカガ主婦、というのも、つかないわね」
と私がいったら、おっちゃんはとび上っていった。
「これはつく、これはタカガとつけて頂きたい。この頃、主婦という肩書はたいへんな地位と名誉と権勢の象徴。これこそ、肩書の肩書がいります」
これがシメククリになった。