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イブのおくれ毛40

时间: 2020-06-10    进入日语论坛
核心提示:男のいじらしさ私は男がセッセと働いているのを見ると、いじらしい気のする所があり、前に佐藤愛子チャンに話していたら、「ふつ
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男のいじらしさ

私は男がセッセと働いているのを見ると、いじらしい気のする所があり、前に佐藤愛子チャンに話していたら、
「ふつうの女やったら、男が働いてるのを見ると、凛々《りり》しく頼もしく思うもんなのに、あんたけったいな人やネー」
と感心された。
まあたいがい、婦人向けよみものなどではそういうことになっている。
家の中ではゴロゴロしている男、女房子供のヒンシュクを買い、軽侮されている存在なのが、職場では打ってかわって別人かと思うが如く、はたまた、水を得た魚の如くハリキッて働いてる。たまたまそれを目のあたり見ると、妻たちは、
「やっぱり男の人というものは——」
と見直し、
「さすがはお父ちゃん」
と、何もわからず男を軽んじた女のあさはかさを自責する、というような手記や座談会が多い。
これは思うに、オノロケのうら返しであろう。
オノロケをいうことではおさおさ劣らぬ私であるが、ナゼカ、働いている男を見るといじらしくて涙が出そうになってこまるのだ。
ちょうど幼稚園の運動会を見るよう。園児たちが、レコードについて首をふりふり踊り出す、
「メダカの学校はァー——」で、みんな教えられた通り無心に手をつなぎ、輪になったり、立ったり坐ったりする。そのあどけないしぐさ、素直なようすを見ていると、大人というものは何となくやるせなくせつなく、かわいいというよりはいじらしい感じで、まぶたのうらがあつくなってくる、そんな種類の感慨である。これをありのまま人に伝えることはむつかしい。
受けとり方によっては不遜《ふそん》な言辞ととられる。何だか自分は高みにいて、神様か何ぞのように男を見おろして哀れがってるとはけしからん、と思う殿方もあるかもしれない。
しかしむろん、決してそういうものでもないのだ。私は殿方をそんな目で見たことはない。そういう感覚ともすこしまた、ちがう。
たとえばこの間、私は町でぼんやり立ってると、見知らぬ男であるが、セカセカとビルから出て来た。そうして駐車場へ入り、古ぼけたブルーバードにカバンを抛りこみ、運転席にそそくさと身をねじりこんで、ドアをバタンとしめた。入口の守衛さんにあいそ笑いして、日盛りの暑い町へ、車をころがして走っていった。
そんな恰好見ると、何だかもう、いじらしくてこまるのだ。
思惑通りに取引きできないのか、アテがはずれたのか、えらいクレームつけられたのか、契約を小便《しよんべん》されたのか、一人になるとムーとした顔になっちゃったりして、目を血走らせ信号のかわるのを待っている。
その殿方は、私が見ているともつゆ知らず、無心にやってるわけ。しかし男の無心というものは、女心をそそるもんである。色の恋のというのではないが、何か世の哀れを感じさせ、まぶたの裏があつくなる。お利口お利口という感じで、胸をきゅっとしめつけられそう。
儲かったのか儲からないのか、せわしく心もそらに惑い歩き、私はもう、男が汗をぬぐいながらセッセと歩いているのを見ただけで、涙ぐんでしまうんだ。
「あんたって、ほんと、へンよ。歩くのは誰だって歩くやないの」
と女友達の一人に叱られてしまった。しかし、男はいつも仕事でほっつき歩くわけでしょう、足を互いちがいにくり出したりしちゃって、そのいじらしいこと……。
「バカっ。両足一ぺんに出したら蛙とびになるやないのさ! いったい何だってそう、男に哀れやいじらしさを感ずるの?」
それは私にもわからない。
しかし男の姿というのは根源的に哀れがつきまとう。得意先に注文とりにいってボロクソに追い返されたり、いやな上司にけちょんけちょんに叱られたり、気のくわない同僚がすいすい昇進してえらそうな大口を叩いたり、それにじっと堪えてる、そんな恰好を想像させるからである。
「そんなことは男やったら、当り前のことでしょ!」
とまた女友達はいった。
「でもねえ、何か、ふびんというか、いとおしい、というか、男は一生けんめいやってるという感じで……」
「じゃ、あたしはどうなの?」
と彼女は吠えた。この女友達は共稼ぎの女教師である。朝は六時に起床し、上の子の朝食を作り、学校へ出し、下の子をおばァちゃんにあずけにいき、主人を食べさせて自分は戸締りして出かける。電車にゆられつつ、朝食をとるひまがなかったことを思い出したりする。帰ると子供を迎えにいき、夕食の支度あと片づけ、洗濯掃除、生徒の答案調べ。
「この大車輪の活躍、いじらしいと思わへん?」
それは、いじらしいというより悲壮凄絶のかんじ。勇猛果敢、一路|邁進《まいしん》、断じて行なえば鬼神も之《これ》を避くという烈婦の鑑《かがみ》、どこに哀れやいじらしさがあろう。ただただ、脱帽あるのみ。
「お年よりでセッセと働いてる、そんな人の方が哀れなんじゃない?」
それは別の次元であって、厚生大臣の考えることに入り、男の哀れ、いじらしさは、どこへ尻をもっていっても「管轄外だ」とつき放されそうな哀れだから困るのだ。こういうのは私自身もこまっちゃう。
男がいじらしく見えると片っぱしから尽したくなり、体がいくつあっても足らぬ。「滝の白糸」の千手観音ができてしまう。そこへ、
「あーそびーましょ」
とカモカのおっちゃんがやってきた。あ、これはダメ。酒飲んでいるときの男と、女とナニしてるときの男は、いっこう、いじらしくも哀れでもないのだから、尽す気は起らないのだ。してみると、私が男にいじらしさを感じたとて、男には何のプラスにも得にもならぬのだ。
お気の毒さまでした。
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