このごろ男の人もけっこうヒステリックな人が多い。ヒステリーは、女の専売だと思っていたのに。
私が何か書くと(小説ではなく、新聞などのコラムである。私はこういう場では、わりにナマにかく)、男からヒステリックな投書がくる。
たとえば私は、刑法改正案は、現代の社会状勢を戦前の警察権力時代の思想でしばることで矛盾がある、と書いた。また、中絶について、いまの日本では、四、五人もの子供をらくに育てられる余裕を政府は与えてくれないし、独身の女が生みたいときに生める自由もないから、中絶やピル解禁は必要だとも書いた。——尤も、それより先行するのは安全な避妊法の発見であるし、もっと性教育を徹底しないといけないと書いた。
すると男の読者からごうごうたる非難、弾劾の手紙が舞いこんだ。
刑法改正は、日本を正すために必要だという。又、中絶は悪であり、罪であるという。この人たちは避妊と中絶の関係について何一つわかっていない。中でも多いのは感傷的道徳論である。ヒスとセンチを併有するのは、当今では、女よりも男たちの方になった。
尤もこちらも、そんな投書をよむと、何とおくれた男かと、イライラしてヒスをおこすから、これはいい勝負であろう。
カモカのおっちゃんは、中絶は女の考えるべき問題で、男は口出しでけまへん、といっている。するべきでもない、という。
刑法改正案については、これは若年中年の考えるべき問題で、年よりは口出ししたらあきまへん、といっている。戦前そのままの感覚で、今日び、通すことはむりなのだから。
「あまりヒステリーにならんように、刑法も大阪弁で書いたらよろしねん」
そんなことを考える所が、中年男の発想であろう。
「どうして一億、総ヒステリーになるんでしょ」
「僕、思うに、ゆっくりモノを食べへんからとちがいますか。早めし、早|糞《ぐそ》、早×××」
「フン」
「短い人生、そんなにいそいで何をする。その縮めた何秒かを何に使うねん。すべて、右の三つ、これを心のどやかにゆっくり、時間をたっぷりかけて致すと、社会全般ものびやかになる」
「そうかなあ」
「僕は近来、右の三つを心ゆくまで味わうために、ほかの仕事は、犠牲にすることにしました。そうでないと、何のために生きてんのや、わかれへん。——ゆっくり賞味して食べ、さてまた、たっぷり時間とってトイレにしゃがみ、心ゆくまで用を足す。水洗の紐を引っぱるまでに、じっくりとっくり、得心いくまでおのが戦果に見入るのです。色、ツヤ、太めか細めか、かためかやわらかめか……」
「もうけっこう」
「さてそのあと、またたっぷり時間をとってたのしむべきことが待っている。まちがっても早×××など、あってはならぬ」
私はいそいでおっちゃんの言葉をさえぎり、上品な、食べる話だけに限定して話題にのせることにした。
「このごろ、食べもの、脂こいものがだめになって、精進料理なんかが好きになっちゃった。おっちゃん、そんなことないですか?」
これは私だけではないとみえて、この間、神戸へ偶然、杉本苑子サンや津村節子サンが集まったので、私が、精進料理へ案内すると、二人はたいそう喜んでいた。二人とも、神戸ではごはんを食べるというと、肉が出ると思っていたそうだ。杉本サンなどは、清水の舞台からとびおりたつもりでビフテキを食べようと、悲壮な決意をしていたよし。これでも三人とも若いころはビフテキを喜んで食べたものなのに、そろって嗜好がかわったのはおかしい。
「いや、僕はべつに、肉でも淡泊《あつさり》したもんでもえらびまへん」
とおっちゃんはいった。
「食べものなら何でも。ただし一ばんええのは、荒っぽい料理を手づかみで食うこと。手で引き裂き、むしって食う肉や魚が、一ばんうまい」
「バイキングスタイルですね」
「そういえば、僕は女の料理が、だんだんきらいになる」
「へー。わるかったネー」
「おせいさんは別。しかし、男が荒っぽくぶったぎって入れる大まかな料理にあこがれる。たとえば、昔のテレビドラマの『ローハイド』にあった、ウイッシュボン爺さんがつくるポークビーンズやシチュー、はては、昔の鞍馬の僧兵なんかが、大釜でたく飯や汁、そんなものが美味《うま》そうに思えます。オシロイくさい、こざかしい料理は、あまり好かん」
「しかしね、お寺の食事ったって、昔の僧兵ならいざしらず、今はデリケートなもんなのよ。かつ、礼儀ただしく敬虔《けいけん》な食事作法があって、むしるの、引き裂くの、とそんな海賊ばりにはいきませんのよ」
過日、私は比叡山へのぼった。そうしてお山で一泊してお寺のごちそうを頂いた。食前観、食後観をおしえて頂く。これも仏縁あさからざるしるしであろう。
「吾今幸いに仏祖の加護と衆生《しゆじよう》の恩恵によってこの清き食を受く。つつしんで食の来由《らいゆう》をたずねて味の濃淡を問わず。その功徳《くどく》を念じて品の多少をえらばじ。いただきます」
「吾今、この清き食を終りて心ゆたかに力身に充つ。願わくばこの心身を捧げて己《おの》が業にいそしみ、誓って四恩に報い奉らん。ごちそうさま」
というのである。
まことに、食も一つの修行である。
「なるほど。それは食べることだけとちがいますなあ」
とおっちゃんは感じ入って叫んだ。
「女人とナニのときに、食前食後、そう唱えれば、身心|解脱《げだつ》して、大悟するのではないでしょうか。その功徳を念じて品の多少、味の濃淡をえらばじ、とつつしんで食べ、終ると心ゆたかに力身に充ち、四恩に報い奉らんと感謝する。よろしなあ」
おっちゃんがヒステリーになるはずなかろう。