私はかねて文士の集まりというものに対して疑問をもっている。
物を書く人が徒党を組んで群れるということは、親睦団体か利益団体だけでいいのではなかろうか。税金をまけろとか、原稿料を値上げすべし、という目的で結束するのはわかるが、ある政治的目的のもとに一つに結集するということは、ありえないように思われる。
物書きほど一人一説、一人一党であるものはないだろうからだ。
しからば文学の理念の根本というか、これをはずしたら文学ではおまへん、というギリギリの点で、文学者が結束するかというと、これがまた、そうでもないのだ。
文学の理念とは何だ、ということで議論百出、談論沸騰する。
私自身は、個人の自由と人権、それに表現と表現手段の自由、というのが文学の最低の基礎のように思うし、それを奪われれば、物書きにとっての死であると思うが、そう思わぬ人も、むろん、いるわけである。
この文学の根本は、もはや政治と文学がぬきさしならぬ悪縁でつながれた夫婦であることを思わせるのだが、これが全然、別個のものだと主張する人々もいるのだ。
私は、政治に無関係でいられる文学なんてあり得ないと思う。思想や表現の自由が抑制される国では、文学は歪曲《わいきよく》されるか、深く静かに潜行して地下出版とならざるを得ない。
一つの思想、一つの表現しかゆるさない国家に、果して、文学が生まれるのかどうか、いつもそれを考える。——なぜなら私たちの世代は、戦争中の翼賛文学を知っているからである。
ちょっとでもお上《かみ》、軍部に批判的なことを書くとたちまち発禁になる。それでも書くという人はひっぱられてぶちこまれ、ゴーモンされて転向してしまう。
どうもわれわれ戦中派、昭和ヒトケタ、フタケタ前半の人間は、その恐怖感が強い。むしろ実際に、戦争中の翼賛文学時代をくぐりぬけてきた長老文学者たちより、その危機感はつよいのではないか。
かりに私だとする。
「いつまでこんな愚にもつかぬ、大阪漫才の台本のような小説を書くのだ、もっと万世一系の大君をいただく誇りにあふれた大日本帝国の、行手の光明になるような勇ましい小説が書けんのかね」
とやられる。あるいは体制によっては、
「人民に奉仕するための小説を書かずに、自分ひとり落語をやっとるような小説を書くとは何だ、自己批判が足らん、反省しろ」
と、ぶちこまれる。
それでも、
「イヤ、そういうのは柄にあいません」
というと、拷問されかねない。この拷問の恐怖というのも面白いよ。長老大家たちは「何を今さら……」と嗤《わら》われるかもしれないが、私たちの世代の物書き、みんな、それを恐れている。
野坂昭如センセイは、「爪の間にツマヨウジを差しこまれたらどないしょう」と書いてらした。筒井康隆チャンは酔うとよくいうが、「爪のトコにキリなんかさしこんでこられたら、オレいっぺんに転向してまう」とオロオロしている。両雄いずれも、期せずして発想を同じくしているのが面白い。
私はというと、逆さに吊るされたらどないしょう、と考える。恥ずかしいからすぐ転向する。
そのことあるを予期して、これから着物やスカートを穿《は》くのは止そうと思う。
私が逆さ吊りをいつも思い浮べるのは、秋田実先生のお話からである。
このすぐれた上方漫才作家で、漫才育ての親である秋田先生を、私はじつにじつに尊敬しているのであるが、先生は戦前のアカ弾圧で拷問をうけられた方で、にこにこして時にそれを話されるのが、じつに凄惨《せいさん》である。
「きれいな女の子が逆さ吊りになっててねえ」
などというところが、じつにコワイ。
要するに、左翼作家や軟文学作家の弾圧を肌で知っている世代の私としては、抑圧の恐怖と嫌忌をまざまざと想像できる。
その場合、文学と政治は別だというような間抜けたことは考えていられないのである。
政治と別な文学をゆるすほどのんきな政府が、あるだろうか。
しかし、政治に対する文学者の発想や信念は一人ずつちがうはずであるから、文学者のパーティを政治的にいろどりすることはできるべくもない。
ペンクラブも、本来の親睦団体にしてしまえばよいのだ。そこへ政治をもちこむから今回のような混乱が生ずるのだ。私はペンに入っていない。
以前に入会をすすめられたが、ちょうど何かの大会のときで、皇太子御夫妻の臨席を仰ぐということがあった。これは、物書きとして理解に苦しむことである。物書きは形にあらわれた権威や象徴で身を飾るべきではないと思う。オトナ気ないけれども、私としてはこんなことをやる物書きの仲間に入る気はしないから、ペンクラブに入るのは見合せた。
漫才台本書き、落語台本書きを標榜《ひようぼう》している私が、そういう所へ入るのは堕落の一種である。
——いや、こんな気負いもオトナ気ないか。
それはまあ、私の勝手であるが、詩人が詩を書いて投獄されるという政治の実情を見れば、韓国に言論弾圧がないとはいえまい。金大中氏事件をみても人権|蹂躙《じゆうりん》の事実がないということはできない。藤島泰輔氏らの意見が、何を見ての結論かはわからないが、両氏を派遣したのが日本ペンなら、日本ペンはその発言の責任を負うべきではないのか。
どうしてモタモタしてるのか、これも理解に苦しむ。有吉佐和子さんや司馬遼太郎さんが、藤島氏らの「韓国に言論弾圧なし」という発言に憤慨してすぐ脱会されたのは、物書きとしてまことにスッキリしたことで、見識のあることだ。それにしても藤島氏を派遣したらこういうことになるのは前もってわかっているのに、かしこい作家や文士が一ぱいいらして、ナゼ想像できなかったんでしょう……。
私がひとりでガナリたてているのを遮《さえぎ》ってカモカのおっちゃん、
「何いうとんねん、それは文士をえらいもんや思うさかい、怒らんならんねん。特別扱いすな、ちゅうねん。どうせタカガ物書き。いつもこの、タカガを忘れるなといいきかしとるやないか。長年教えとるのにまだわからんのか……」