テレビで見られるものは洋画だけ、という人が多いが、私はあの解説が好まれるのだと思う。
ことに淀川長治サンの陶酔的な話しぶりがおもしろい。熱狂的愛好者らしい熱をまきちらしているのが、見ていると快くてたのしいものである。
私はいつも思うが、小説の批評で、どうしてそれをやっていけないのであろう。
散文は批評せずに陶酔してしまったら処置にこまることもあるが、でも、モノによったら、そんな批評の方がいいこともあるのだ。
私は、毎週、新聞の書評をよむが、がっかりする。私の本の書評がのっていないためではなくて、全般にレベルが高すぎて晦渋《かいじゆう》難解だからである。
それぞれ有益な本を的確に批評紹介して下さっているのであろうが、私の感覚によれば、あそこには売りたくない本ばかり取り上げてあるのではなかろうか、と思うものだ。
それに、文芸時評というのは、どうしてもおかたい小説にかたより、大衆文学、中間小説というものに対する批評はあまり多くない。
私は、これらの中間小説の批評には、批評家というより陶酔家みたいな人がでてもいいのではなかろうかと思う。
小説をよむのが好きで好きでたまらない、という人がきっといるはずだ。
そんな人が、たくさん出てきて語ってくれればいいのに。熱をこめて、ここがいい、あそこが好き、と口走ってほしい。文学的な批評テクニックは飛びこえてしまって、ほんとうに読者と作品との蜜月を期待したいものである。
じつをいえば、私は、ほんとうはそんなのをやりたいのである、小説書くよりも。
私は「週刊文春」にのっている松本清張氏の『西海道談綺』を愛読しているが、陶酔的批評でいうと、
「はい、こんにちは。こわいですねー、こわいですねー。
はじめ山伏が出てきますね。山伏というのは何となく不気味で、異形のもののように感じられますねー。それらが列をなし、たいまつを手に手に、夜の山の峰をうごいてゆくシーンのおそろしさは、忘れられませんねー。ハイ、私は子供のころ、ワルサをしたり、夕方おそくまで外であそんでたりすると、おとなたちに、ホラ山伏のおっちゃんがくるよ、カモカのおっちゃんに咬《か》もかーいわれるよ、と脅かされましたねー。山伏さんが吹く法螺貝《ほらがい》のヴォーという音が空にこだまするのは、幼心《おさなごころ》にとても神秘でしたねー。
それがここではうまァくつかわれてます。しかも、この山伏たち、宇佐石体権現という名からして、まがまがしそうでこわいんです。それへ隠し金山がからんで、主人公の太田恵之助の過去がだんだんあばかれていきますねー。あのあたまの白いお島さんは何者でしょう。それからおえんさんはかわいいかわいい女ですね——。恋人の恵之助の跡を慕って、はるばるお江戸からやってきます。それにしても、山伏にとらわれたおえんさんは大丈夫でしょうか。危うし、おえんさん。
清張先生は、たくさんの登場人物をタテ糸に奥深い根のある事件を横糸にして一糸乱れず織りあげる手腕の作家で、このへんは先生の独壇場ですねー。ハイ、ごらん下さい、絵も緊迫惑があっていいですね、白と黒がよくいかされてますねー。
さあ、来週もおたのしみにごらん下さい」
と、こう書いてくると、何だか、紙芝居の宣伝のようになりますが、ナニ、私だってこれ専門でおまんまを頂こうとなれば、モウ少し、食欲をそそるように精進いたしますけれど。
小説だけじゃない。
詩も、陶酔的解説をほどこしてしまう。
子供の詩、新聞の投稿欄にのっている短歌俳句のたぐい。お菓子のしおり、本の帯まで対象にしてもよい。
「ハイ、こんにちは。
石濱恒夫さんという作家で詩人の人の詩に『日本書紀』というのがあります。
みかどは おこりむし
わたしは よわむし
みかどが かりをした
いのししも おこりむし
いのししが たてた
うなりごえに おどろき
よわむしが にげのぼった
おかのうえの はりの木のえだ
いっぽんの はりの木のえだ ——詩集『道頓堀左岸』
わたしは よわむし
みかどが かりをした
いのししも おこりむし
いのししが たてた
うなりごえに おどろき
よわむしが にげのぼった
おかのうえの はりの木のえだ
いっぽんの はりの木のえだ ——詩集『道頓堀左岸』
おもしろいですねー。だんだん視点が上へあがっていって、丘の上の青空まで見えますねー。やさしい子守唄のような詩ですねー。
やさしいけれど、正確なリズムが、小人の行進のように小きざみにありますねー。おこりむし、よわむし、という字の、まあどうでしょう、ふしぎなつかいかた! 私たちはふだん、ふつうの会話の中で、弱虫、怒り虫というのをつかいますが、ここにあるのは、また何か、べつのいのちを持ってるみたいですねー。詩でつかう言葉は、みな、とくべつの匂いがあるから、詩人という人はふしぎな人種ですねー。何でもないコトバをつかって、いい匂いをいっぱい、つくるんですねえ。この石濱さんは、みなさんおなじみの、『こいさんのラブコール』や『硝子《ガラス》のジョニー』の作詞者で、アイ・ジョージやフランク永井の歌を、たくさん書いています。おもしろいおもしろい詩人なの。お父さまは西域学者で、作家の藤澤桓夫さんは、石濱さんの従兄にあたられますねー。大阪にあるおうちのひろい庭にはワシがくるそうですよ。一年に何べんか航海に出て、夕焼とスコールと潮風をたのしみます。大阪にはこんな人が多いですねー。ハイ、サイナラ、サイナラ、サイナラ……」
私が夢中でしゃべっていると、カモカのおっちゃんはおもむろにいった。
「僕は、女性の陶酔的解説者になりたいですなあ。女性ならもう、老若肥痩は問いません……ハイ、みな陶酔します。太い太い人ですねえ。まん丸なかわいい団子鼻ですねえ。下り眉に平《ひら》あたま。お鼻の上にホクロがありますから、これは点々とよむんでしょうか。すると、これはおせいさんでなくておぜいさんですねー。ハイ、サイナラ」
やさしいけれど、正確なリズムが、小人の行進のように小きざみにありますねー。おこりむし、よわむし、という字の、まあどうでしょう、ふしぎなつかいかた! 私たちはふだん、ふつうの会話の中で、弱虫、怒り虫というのをつかいますが、ここにあるのは、また何か、べつのいのちを持ってるみたいですねー。詩でつかう言葉は、みな、とくべつの匂いがあるから、詩人という人はふしぎな人種ですねー。何でもないコトバをつかって、いい匂いをいっぱい、つくるんですねえ。この石濱さんは、みなさんおなじみの、『こいさんのラブコール』や『硝子《ガラス》のジョニー』の作詞者で、アイ・ジョージやフランク永井の歌を、たくさん書いています。おもしろいおもしろい詩人なの。お父さまは西域学者で、作家の藤澤桓夫さんは、石濱さんの従兄にあたられますねー。大阪にあるおうちのひろい庭にはワシがくるそうですよ。一年に何べんか航海に出て、夕焼とスコールと潮風をたのしみます。大阪にはこんな人が多いですねー。ハイ、サイナラ、サイナラ、サイナラ……」
私が夢中でしゃべっていると、カモカのおっちゃんはおもむろにいった。
「僕は、女性の陶酔的解説者になりたいですなあ。女性ならもう、老若肥痩は問いません……ハイ、みな陶酔します。太い太い人ですねえ。まん丸なかわいい団子鼻ですねえ。下り眉に平《ひら》あたま。お鼻の上にホクロがありますから、これは点々とよむんでしょうか。すると、これはおせいさんでなくておぜいさんですねー。ハイ、サイナラ」