人間のからだというのは、神サンがよく考えてつくってあるものだそうで、手が内へ曲るのは食物を口まではこぶため、また手の長さは、何を目安にきめたかというと、
「前おさえるようになってる」
ためだそうである。歴史学者の中村直勝先生はそういっていられる。
先生は八十四歳、いまなお、矍鑠《かくしやく》として学究生活を送っていられるが、このセンセイの漫談が洒脱でたのしい。『大阪春秋』四号にのっている。
いったい、大阪という町は、時としておもしろい雑誌の出るところで、たとえばその一つに、木津川計氏の出していられる『上方芸能』がある。隔月刊で、もう通算三十七号も出ているが、落語、漫才など伝統芸能に関する懇篤《こんとく》地道な研究誌である。ハナシ家、愛好者《フアン》、作家、研究家、それぞれが手弁当で書いている。書く方もそうなら、つくる方も一切報酬なしである。落語の、こういうことで書いてくれへんか、漫才のこんな点、どない思う、などと編集部からいってくる。「よっしゃ、書くで」とタダで書くという雑誌である。お互いの情熱がジカに感じられるおもしろい雑誌で、上方芸能研究家には貴重な話がよくのっている。
もう一つ『大阪春秋』も四号まで出ているが、大阪の古い歴史などがよく掘り起されていておもしろい。ところでこの四号の、直勝センセイ漫談は、いろんなところへとんでいておもしろいが、まず、長生きの秘訣は、というと「そんなもんあらへん」といわれる。
センセイは菜食主義者であるが、それを強要されないところがいい。たいてい、イヤミな人間は、自分がこうだから、こうせよ、と指図するものである。しかしセンセイは、「自然に」しとったらええ、「きらいなものは食べんでもええ、だからお酒好きな人は酒飲んだらええ」といわれる。これは阿呆にはいえぬ言葉である。
更に、大徳寺の立花|大亀《だいき》和尚との対話がおかしい。センセイは和尚に聞いた。
「あんた、悟り開《ひら》いたか」
「もちろん、開いたでえ」
「悟り開いた瞬間に迷《まよ》うのんとちがうけ」
「そやね、その瞬間に迷うんやでえ」
「ほな、同じことやないか、わしらと。わしら開かんと迷《まよ》てるけど、あんた開いて迷てるんやから」
「そやなあ、そうなるな」
和尚は「お前のいう通りや」といい、センセイは、いい負かしたったとうれしそうだが、何ともおかしい問答で、しかもこの和尚がじつに男らしくていい。男はなかなか「そやなあ、そうなるな」などと素直にいえぬものである。じつにかわいらしい男はんである。この和尚、そうかと思うと、センセイが、
「佛《ほとけ》さんと凡人と、どこがちがうねん」
とたずねると、澄まして、
「アノナ、佛というのはな、あの字見てみい、ニンベンに弗《ドル》と書くやろ、金のほしい奴は佛やでえ」
などと煙に巻くのである。
センセイは、負けた、といい「お賽銭をあげた」そうであるが。
ところで、直勝センセイの主張によれば、動物でも人間でも一番だいじなのは食べることと生殖であるから、体はその二つの機能が全うせられんためにつくられてある。動物の口が目より先へ突き出ているのは、口で直接、ものを食べるからであるという。その|でん《ヽヽ》でいくと、手は、
「どなたでも前おさえるのに都合よう、手の長さがでけてる筈ですワ」
ということだ。
ほかに反駁する材料が見あたらぬ以上、むりのない学説というべきであろう。
それによって考えると、目が、体の前方にだけついていて、うしろにないのは不便だと、私はかねがね思っていたが、その代り、耳が体の両サイドについていて、後方の音もあつめるようになっているのは、神の深いおもんぱかりのせいなのかもしれない。
「すると、手はなぜ、体の前方、胸のとこから生えてないか。前おさえる為やったら、その方が当然」
とカモカのおっちゃんはいった。
「手はなぜ、体の両サイドに生えてるか、というと、うしろの門へも廻るようになってるため。耳や鼻はうごかないのに、目の玉がうごくのは、女房《よめはん》と一緒のとき、ほかの女を見るため」
こういうことをおっちゃんにいわせておくとキリがない。私はさえぎり、
「目の玉がうごくのは、電車に坐ったとき、隣りの人の新聞・週刊誌をよむためでしょう」
「それもありましょうが、手の長さについては僕は異存がありますな」
「何か新説がありますか」
「あれは、わが前をおさえるためではありません。何のために、前おさえまんねん」
「アノ、それはですね、やはり、自衛本能でしょ」
「それは股をすぼめればすみます。そのために、膝は曲り、股関節がうごくようになっとりまんねん。手の長さは、わが前をおさえるのに見合ってるのではないんですわ。つまり、隣りに坐った女の尻を抱くようになっとるのや」
「うそつけ」
「しかも手の長さを両方、同じにしてるのは、両隣りひとしく抱くように神サンが考えてはる」
「そうかなあ。すると、女も、両隣りの男を抱くような長さにつくってあるわけですか」
「いや、女はちがう。男にくらべて女は小さくつくってある。女が両隣りに坐った男の尻を抱こうなどと不遜《ふそん》なことを考えたとて、女の手は短いから届きまへん」
「では何に見合った長さですか」
「つまり男の肩を叩くとか、腰を揉むとか、あんまマッサージ、トルコ嬢にまぎらわしきことも含めて、男の世話をするのに適した長さでございます」