このあいだ長野、山形、それに茨城、栃木と旅行をして私はビックリしてしまったことがあった。
関東、東北地方、十一月下旬ともなれば、日の暮れは関西より一時間も早いのダ!
同じ日本とは思えない。
長野では五時には暗くなった。私は、お天気がわるいせいだ、と思っていた。山形ではいやに日暮れが早いが、今日だけ特別なのだろうと思っていた。
茨城県の町でも、時計とあたりの風物との感覚がズレて、へんな感じがしたが、性、魯鈍な私は心にもとめなかった。
そのうち、中禅寺湖のそばの温泉へ泊ろうとして車を走らせているうち、山の端に太陽が入らんとしているのに気づき、時計を見ると三時半である。
私は時計がまちごうてる、と思った。
日光街道のいろは坂四十八曲りをのぼりつめるころはすでに薄暮である。黄昏《たそがれ》に、はるか天空へつづくドライブウェイの車のヘッドライトが、星のように見える。
中禅寺温泉へ着くと真っ暗で、旅館の灯が淋しげに瞬《またた》き、寒風は山々の梢をゆるがし、戸をしめたおみやげもの屋の看板がハタハタと風にゆれ、空に研《と》ぎすまされた星と、西瓜|形《なり》の白い月、「いと物すごし」という風情。
夜中に着くとは、運《うん》のわるいことであった。とふと時計を見ればこれが五時なのダ! ここにいたって私はようやく東日本は西日本より早く日が暮れるのだ、とわかった。
山間《やまあい》だからなおのことであろうけれど、これが神戸ならいかがであろうか。
三宮あたりなら、まだ、昼まのつづきである。五時すぎてやっと退勤の人波がうごき出す。
バー街は打ち水なんかして、店をひらいたところ。そんなときに飛びこむと、これ幸いとテーブルにあげた椅子をおろすのを手伝わされたりする。
すし屋、スナックなども、五時ごろから店をあける所が多い。ネオンが一つまた一つとついてゆく。空は明るくて山々の黄葉が夕陽にあざやかで、灯をつけるのが勿体ないくらい明るい。客が入ると、どの店でも、まだ疲れていない人々の声で「いらっしゃーい」とどなるのも威勢がいい。女たちの化粧もまだ崩れていず、男たちの白い上っぱりも洗い立てである。
そうして、私がいつもいく新開地のおでんや「高田屋」なんかでありますと、おでんは銅《あか》の鍋の中にぎっしりつまって、おいしそうに煮立っており、夕方、つとめ帰りのサラリーマンを待っているところであります。すべて、さあ、これからというはじまりのところ。
「こうしてみると、関西、南方の土地というのは、ヨソの土地にくらべて一日が二日分くらいにつかえそうで、かなりトクをするわけね」
と私は、カモカのおっちゃんにいった。
「どうしてトクをする」
とおっちゃんはふしぎそう。
「だって、そうでしょ、いつまでも明るいと一日が長くなってイロイロなことが余分にできるから、たのしいもん」
「イロイロというが、することの中身にもよる。あんまりいつまでも明るいと、ホテルヘ入りにくうて、北野町のホテル街、うろうろしとる奴が多いのんちゃいますか」
そんなこと知らん。
知らんが、私はつくづく思ったのだ。五時になって日が落ちるようなところに住む人は一日の短さから、人生の短さを知るのではないかしらん。
そこでは、浪花っ子の私の感覚でいえば、日が天空にあるのは全く須臾《しゆゆ》の間である。日はラムネ玉を落すより早く落ちるのである。
而うして夜は長い。
夜は寒く暗いから、人は我に返ったごとく何ものかと向きあって、こし方《かた》ゆく末をかえりみる。いや、かえりみるのではなかろうか、と思うものだ。おまけに外へ出れば吹雪、とくると尚更、人の発想は内省的、懐疑的にならざるを得ない。いや、得ないのではなかろうか、と思うものだ。
それにくらべ、冬でも五時はまだ昼間のつづきで、空け年増の深なさけの如く、暮れんとして暮れやらず、いつまでも明るい、というようなところに住んでいる人間は、どうも立ちどまって我とわが身をかえりみることなど致しにくい。
いつまでも、この明るさがつづくように思っている。
前もって人生無常の覚悟ができにくい。
何とか、按配なるのんちゃうか、という気がなくならない。
「いつまでもあると思うな親と金」という川柳は、かかる極楽とんぼの人間をいましめるためにつくられたのだ。
また、アリとキリギリスのたとえ話も、日暮れの早い土地の人と、おそい土地の人を諷してあるにちがいない。キリギリスは関西っ子である。アリは関東、東北人である。
キリギリスは、まだ日が高いと思ってのんきに遊び呆けているのである。そのうち何とかなるやろと思い、まあええやないか、と空を眺め、日暮れまでは間があると時計を見る。
そうしているうちに、いつのまにやらとっぷり暮れ、あわてたりする。中にワルのキリギリスは、ええわ、アリのところへいってゆさぶったら何か出るやろ、と思ったりする。
じつにけしからんのはキリギリス、いや、日暮れのおそい地方の人間の発想である——してみると、私の書くものに、深遠崇高の哲理など見当らんのは、当然と申さねばなりません。
「いやしかし、そう杓子定規にわりきれるもんやおまへん」
とカモカのおっちゃん、
「男はアリもキリギリスも、ひとしく、こし方ゆく末ぐらいは考えます。日が長い短いに関係ないです。女は知らんが、男はみな哲人の要素がある。あるときには、男はみな必ず、こし方ゆく末を考える」
「ヘー。どんなときですか」
「こんなこと、いうてええかいなあ。……つまり、女とナニしたあとです」